人間が集団社会を営む上で、先入観というのは省エネルギーのために必要であり、そのために想像力を欠くという副作用がある。仕方ない側面もあると思う。
この一行目がすべての結論なのであるが、人間というのは往々にして想像力を欠く。自分にとっての当然が相手にとっても当然であると思い込がちになるのである。
たとえば子を抱えると他のご家庭との会話というのが否応なしに発生するわけであるが、自身にとっての当然の枠で他者を見る、それ自体に無自覚な会話が飛び交ってしまうのは、なかなかの苦痛を伴うものである。
インターネットでも似たようなことがある。
短文投稿サービスのようなものを今から 4 年前の 2019 年に断った。ちょうどいわゆるコロナ前である。 2007 年からやってきたこのサービスを通じて 12 年間色々なことがあった。人と出会ったり、人生を変えるような出来事もあった。そういえば結婚もした。このサービスを断つというのは色々な意味があった。
そしてこのいわゆるコロナ後の 2023 年、ここでまた時代の大きな変化がやってきて、今ここにこうして存在している。中を見てみると、あのときのあの人間があちらにもこちらにも散見され、なつかしさも感じたりする。
ただ年月というのはまちがいなく経過していて、人は変化している。それは自分自身が変化していることからも確かである。
自分はどうだったか振り返ってみよう。あのサービスでワイワイしていた頃に比べてどうなったであろうか。たとえば家庭を持つようになった。子を育てるようになった。年収は 4 倍になった。資産は 13 倍になった。広くて立派な家に住むようになった。細くてガリガリだった体格はスポーツやジムによって鍛えられビルドアップした。着る衣服も一変した。趣味も様変わりした。
それならば、他の人が変化していないはずがないのである。
だが人は当時の記憶で他人をとらえがちである。あ、あの人だ、そう見つけたときに、あのときのあの人の印象でとらえてしまう。まあ一期一会という言葉があり、たしかにその時そうであったという印象は事実なのであろうが、今はどうであろうか。
人間の本質は変わらないという考え方もある。一方で人は驚くほど変わるものでもある。しっかりと見極める心の眼を持たなければならないと思う。