暇つぶしの思索が、哲学として機能するとき

哲学とは、頭のいい暇人が、答えの出ない問いを延々と考え続けた結果生まれたもの――

そう言ってしまえば、たしかに一面では当たっている。人は、生きるだけで精一杯の状況では、「なぜ自分は自分なのか」などと考えていられない。哲学が生まれるのは、社会にある程度の余裕があり、それまで当然とされてきた説明や価値観が、うまく機能しなくなったときである。

だから「暇だから哲学する」という動機そのものは、何もおかしくない。むしろ歴史的にも、心理的にも、ごく自然な入口だ。問題は、考えることそのものではない。

問題になるのは、その思考が、いま何として機能しているのか、である。


哲学は特別な人の営みではない

哲学という言葉には、いまだにどこか敷居の高さがまとわりつく。専門家だけのもの、難解な書物の中のもの、あるいは「わかっている人」だけが扱えるものだ、という印象も根強い。しかし哲学を、もう少し地面に近いところから見直すなら、それは次のような営みにすぎない。

自分が当たり前だと思っている前提、正しいと感じている判断、無意識に使っている言葉や価値観を、いったん止めて、点検してみること。

この意味で哲学は、特定の人に備わった能力ではなく、誰にでも起こりうる思考の状態である。そしてその状態は、固定されたものではない。同じ人間でも、あるときは保たれ、あるときは簡単に失われる。


思考が点検として機能している状態

思索が哲学として機能しているとき、そこにはいくつか共通した特徴がある。

まず、自分が依拠している前提が、なるべく言葉にされている。なぜそう考えているのか、どこまでが事実で、どこからが解釈なのかを、完全ではなくとも意識しようとする。

次に、反対意見や違和感が、単なる攻撃として処理されない。それは不快ではあるが、自分の考えを修正する可能性を含んだ情報として扱われる。

そして最後に、考えたことが判断や行動に戻ってくる。迷いが増えることはある。即答できなくなることもある。それでも、自分が何を選び、何を引き受けているのかからは降りない。この状態の思考は、安全ではない。しかし現実に接地しており、自分自身に対して、一定の緊張を保っている。


思考が点検をやめている状態

一方で、哲学的な言葉や問いが飛び交っていても、思考の点検機能が止まっている状態は、いくらでも起こる。このとき、言葉は便利に使われる。自由、正義、真理、価値観といった語が、その場その場で都合よく意味を変えながら流通する。反論が出ても、「それも一つの考え方だ」「価値観の違いだ」といった言葉で、すべてが無効化される。

重要なのは、その結果、自分の考えが修正されないという点である。考えているような感覚は残る。深いことを言っているという満足感もある。だが、その思考は判断や行動に戻ってこない。この状態の思考は、きわめて安全だ。同時に、間違いが訂正されないまま、判断基準として使われ続ける。


なぜ点検が止まると危険なのか

危険なのは、この状態が本人にとって快適である点にある。衝突しなくて済む。間違いを認めなくて済む。決断を先延ばしにできる。しかし、点検が止まった思考は、言葉の意味を曖昧にし、対話を成立させにくくし、責任の所在をぼかしていく。それは個人の内面の問題にとどまらず、他者との合意形成や、社会的判断の基盤を静かに弱らせる。

重要なのは、これは特定の誰かの欠陥ではない、ということだ。疲れているとき、立場を守りたいとき、不安を直視したくないとき、人は誰でも、簡単にこの状態に滑り込む。


哲学に必要なのは「正しさ」ではない

哲学というと、正しい答えを出すこと、深い結論に到達することだと思われがちだ。だが、ここまで見てきたように、本当に重要なのはそこではない。思索が高度かどうかでもない。専門的かどうかでもない。

問われるのはただ一つ。その思考が、いまも自分自身を点検する働きを保っているかどうか。点検が続いている限り、その思索は哲学として機能している。問いや言葉が残っていても、点検が止まった瞬間、思考は安全になる代わりに、修正不能になる。


結論

哲学とは、思考が自分自身を点検し続けている状態の名前である。それは特別な才能でも、選ばれた人の資格でもない。暇つぶしから始まってもいい。軽い好奇心でもかまわない。

ただし、その思考が、いつでも自分自身に刃を向け続けているかどうか。問題は常に、そこにある。

コメントする

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)