本稿は、暴力を「殴る」「殺す」といった身体的加害に限定せず、生活や人格の基盤を破壊し得る制度的作用まで含めて捉え直すための論考である。身体的暴力が長期的に低下してきたという議論は、殺人率や戦争死などの統計に支えられ、一定の説得力を持つ[1]。しかし、統計で測りやすい暴力が減ったとしても、測りにくい害が同時に増えていないかは別問題であり、しかもその「測りにくさ」自体が、加害の自覚と責任の引き受けを弱める条件になり得る。そこで本稿は、処刑や戦争といった古典的な暴力だけではなく、福祉審査の自動化、採用のスコア化、信用スコア、プラットフォームの可視性操作のように、日常の意思決定を媒介する仕組みを「同じ骨格」で理解することを目指す。そのために、攻撃性には少なくとも二つの型があるという整理を採用し、文明化とは攻撃性の消滅ではなく、攻撃性の実行主体と実行形式が個人から制度・言語・技術へ移る過程であるという中心仮説を提示する。
結論を先に短く言うなら、現代の危険は「人が怒って暴れる」ことよりも、「人が怒らなくても排除が回る」ことである。怒りや憎しみを直接に伴う衝動的な攻撃は規範と法で抑えられやすいが、目的合理性と手続きに支えられた計画的な攻撃は、しばしば正当化され、分業によって無主語化し、当事者にとっては逃げ道のない形で作用する。この差が理解できないと、暴力が減ったという語りが持つ事実性を認めながらも、同時に「なぜこんなに人が壊れているのか」という感覚の説明ができない。
1. 問いの出発点:暴力が見えなくなる条件
暴力が見えなくなるとき、最初に変わるのは当事者の語りである。殴られれば「殴られた」と言えるし、殺されれば社会は「殺人」と呼ぶが、制度に切り捨てられたとき、人はしばしば「自分が悪いのかもしれない」と言うしかない。例えば、生活が苦しくなって福祉に申請し、必要書類が揃わない、窓口が混んでいる、審査が遅い、更新のタイミングを逃した、電子申請で不備扱いになった、という小さな摩擦が積み重なり、給付が止まり、家賃滞納が始まり、住居が不安定になり、就労も崩れるという連鎖が起きる。このとき、当事者の生活は現実に破壊されているが、周囲は「手続きがあるから」「ルールだから」と言い、加害の言語が立ち上がりにくい。
同じ構造は採用でも起きる。応募者が大量にいる職種では、書類が点数化され、面接がテンプレ化され、最終的に「合否」の通知だけが届く。落ちた人は、どこで何が判断されたのかを具体的に掴めないまま、自己責任の物語に回収されやすい。さらに、信用スコアが生活の入口に影響する社会では、賃貸、クレジット、ローン、場合によっては雇用の段階で「不可視の壁」に繰り返し当たる。当事者が見えるのは結果だけであり、原因は「モデル」や「規程」や「評価」の背後に退く。
プラットフォームの可視性操作は、より新しい形で同じ問題を増幅する。検索やフィードが生活の情報インフラになった社会では、「見えなくなる」ことがそのまま機会の喪失に直結する。個人や小規模事業が突然リーチを失い、売上が落ち、コミュニティが分断されても、運営側は「規約違反ではないが推薦しない」「安全のために抑制した」「品質のために順位を調整した」と説明できる。ここで起きているのは、身体的な暴力ではないが、生活と社会的地位を左右する決定が、本人の理解と異議申し立ての届かない場所で進むという点で、暴力と連続する問題である[21][23]。
本稿は、これらを単なる「現代の不便」や「制度の不備」として扱わない。暴力が見えなくなる条件は、偶然の産物ではなく、文明の設計原理と接続している。見える暴力を抑える社会ほど、見えない暴力が制度に埋め込まれたときに止めにくくなる。この逆説を説明するために、まず攻撃性の前提から確認する。
2. 生物学的前提:攻撃性はゼロにならない
攻撃性は道徳の失敗ではなく、生存と集団維持に関わる行動の一部である。境界を守る、資源を確保する、子を防衛する、脅威を退けるといった行動は、広い意味で攻撃性と連続している。そのため、進化は攻撃性を単純に消去する方向には働きにくい。攻撃性が全くない個体は外部の脅威に対して脆弱になり、集団内でも搾取されやすくなるため、長期的に残りにくい。
家畜化研究は、攻撃性が単一のスイッチではなく、発達過程に分散した特性であることを示唆する。キツネの家畜化実験でよく知られるように、人に対して怯えにくい個体を選抜すると、行動だけでなく形態(垂れ耳、毛色の変化など)や生理反応(ストレス反応の低下など)まで連鎖的に変化し得る[2]。この連鎖を「家畜化症候群」として統一的に説明しようとする議論では、神経堤細胞の発達など、行動と形態をまたぐ共通機構が示唆されている[3]。ここで重要なのは、攻撃性を抑えることが、単に「穏やかになる」だけではなく、個体の探索行動や恐怖反応、社会的学習の仕方まで含む広い変化と結びつき得るという点である。
この生物学的前提は、人間社会の議論を現実的にする。つまり、社会が目指せるのは「攻撃性を消す」ことではなく、「攻撃性の表出条件をどう設計するか」である。衝動的に殴る攻撃は抑えるべきだが、境界防衛や自己主張のような攻撃性に近い機能は、個人の生存に必要な場面もある。したがって文明化とは、攻撃性を削除する道徳運動ではなく、攻撃性をどの形で、誰が、どの回路で実行できるようにするかという制度設計の問題として現れる。
3. 自己家畜化と文明化:抑えられたものと残されたもの
人類史を自己家畜化として捉える議論は、集団内の衝動的暴力が抑えられてきた過程を説明する上で有力である[4]。共同体が拡大し、交易が増え、分業が進むほど、衝動的暴力は取引コストを上げ、予測可能性を損なう。「すぐ殴る人」は、協力のネットワークにとって危険なノイズになるため、規範と制裁の対象になりやすい。文明化論が示すのは、この抑制が単に法律の整備ではなく、羞恥、礼儀、自己統制といった心理的・文化的な装置を通じて内面化されていく点である[5]。
ただし、ここで抑えられたのは主として衝動的で情動に直結する攻撃性である。衝動的暴力が減ったからといって、攻撃性そのものが減ったとは限らない。むしろ社会が拡大するほど、統治、徴税、徴兵、刑罰、管理のような制度的作用が必要になり、そこでの意思決定は個人の情動ではなく、規則と手続きによって支えられる。このとき、攻撃性は「怒り」ではなく「合理性」として現れる。つまり、殴る衝動は抑えられるが、切り捨てる決定は温存され、場合によっては拡張される。
このねじれを見落とすと、現代を「非暴力化した社会」と誤認しやすい。実際には、暴力の担い手が個人から制度へ移り、暴力の形が身体から手続きへ移っただけかもしれない。自己家畜化は、集団内の衝動的暴力を減らすが、その代償として、集団が外部に対して組織的に暴力を行使する能力を高める可能性もある。この点は、徳と暴力の奇妙な関係として整理されている[4]。ここまでで、攻撃性が消えないこと、そして文明化が攻撃性の様式転換を伴うことが見えてきた。次に、その転換を具体化するために、攻撃性の二類型を導入する。
4. 攻撃性の二類型:反応的攻撃性と能動的攻撃性
攻撃性を少なくとも二つに分けて捉えると、現代の加害がなぜ「暴力」に見えにくいかが急に理解しやすくなる。反応的攻撃性は、挑発、恐怖、怒りといった情動に直結し、衝動的に噴出する攻撃である。路上の喧嘩、家庭内の衝動的暴行、侮辱に対する即時的報復などが典型であり、第三者も「暴力」と認識しやすい。この型の攻撃は、法と規範の標的になりやすく、文明化の過程で抑制されやすい。
能動的攻撃性は性質が異なる。目的達成のために計画的に行われ、情動的高揚を必ずしも必要としない。例えば、組織が「合理化」を理由に人員整理を行い、生活が成立しない条件変更を迫り、従えない人を退出に追い込む場合、実行者は怒っていなくても害は生じる。このとき加害は「やむを得ない措置」「経営判断」「適正な評価」といった言語に包まれ、結果として当事者の生活が壊れても、誰も自分を暴力者だと感じにくい。反応的攻撃性と能動的攻撃性の区別は、発達心理学・行動研究で整理されてきた枠組みであり、情報処理や認知の違いとしても論じられている[6][7]。
ここで重要なのは、文明化が抑制しやすいのは反応的攻撃性であり、能動的攻撃性は制度と結びつくことで温存され、時に拡張し得るという非対称性である。社会が成熟するほど「怒りの暴力」は減るが、「合理の暴力」が増える余地が生まれる。この非対称性を軸に据えると、処刑や戦争はもちろん、福祉審査の自動化や採用のスコア化のような現代の仕組みが、なぜ「暴力の問題」として再記述できるのかが見えてくる。
5. 中心仮説:攻撃性の外部化仮説
本稿の中心仮説は次の通りである。人類文明は、反応的で衝動的な攻撃性を個人の内面から抑制する代償として、計画的で合理的な攻撃性を制度、言語、技術へと外部化することで成立してきた。外部化とは、攻撃性を実行する主体が、個人の情動から切り離され、組織・法・数値・アルゴリズムという媒介を通じて発動するようになることを指す。
外部化が進むと、少なくとも四つの現象が同時に起きやすい。
第一に、目的合理性が前面に出るため、排除や剥奪が「必要な措置」として説明される。
第二に、分業と手続きが進み、責任が拡散し、当事者の側から加害主体が見えにくくなる。
第三に、言語が更新され、攻撃は「最適化」「措置」「評価」「リスク管理」といった婉曲語に置き換わる。
第四に、被害が統計化・スコア化され、個別の痛みとして把握されにくくなり、意思決定は「人」ではなく「数字」へ応答する。
これらは道徳の堕落ではなく、文明が衝動的暴力を抑えるために整備してきた装置が、別の様式の攻撃を可能にするという構造である。
外部化仮説は悲観のための物語ではない。むしろ、改善の焦点を誤らないための枠組みである。怒りを抑える教育や、差別を禁じる規範は重要だが、それだけでは「怒りなしに回る排除」を止めにくい。責任分散を前提とした制度設計、説明責任の欠落、異議申し立ての困難、監査不能なモデルといった具体条件に手を入れない限り、能動的攻撃性は合理性の名の下で作動し続ける。以降では、外部化仮説を古典領域(刑罰・処刑、戦争)と現代領域(福祉・採用・信用・可視性、AI)に適用し、各領域で四つの現象がどのように現れるかを具体化する。
6. 刑罰と処刑:制度に委ねられた殺害
公開処刑の時代、暴力は社会の正面にあり、誰が誰を殺しているかが明確だった。群衆はそれを目撃し、時に恐怖し、時に熱狂し、時に嫌悪した。暴力が可視的であることは残酷だが、同時に「社会が何をしているか」を誰も否認できない状態でもある。近代化によって刑罰は監獄と手続きへ移行し、暴力は不可視化された。この変化はしばしば人道化として語られるが、外部化仮説から見ると中心は「加害主体の消失」である。判断は裁判官、法は立法、執行は職員、監督は管理者、記録は文書というように分割され、誰も「私がこの人を壊した」と感じにくくなる。
フーコーの議論が示したのは、刑罰が身体の破壊から規律と監視へ移り、日常の制度として人を形成する権力へと再編される過程である[8]。この再編は残酷さの単純な減少ではない。暴力が「いつでも、どこでも、手続きとして」作用するようになることで、個人の情動から切り離された能動的攻撃性が制度に定着する。さらに、官僚制と分業が極端な悪を可能にするという論点は、アーレントが「凡庸な悪」として提示した問題系に接続する[9]。個々人が「命令に従った」「規程に沿った」と言える構造は、個人の残虐性ではなく、責任が消える設計によって成立する。
刑罰の領域で外部化仮説が示す教訓は、殺害が合法か違法かという二分法ではない。問うべきは、どの決定がどの手続きで実行され、当事者はどの説明を受け、どの救済手段にアクセスできるかである。死刑制度の是非をここで断じる必要はないが、制度が人を殺すとき、加害主体が消える構造が生まれやすい点は、外部化仮説のもっとも明確な実例である。
7. 戦争:国家が引き受けた能動的攻撃性
戦争は激情の爆発ではなく、計画と管理の産物である。徴兵、訓練、兵站、指揮系統、外交、戦後処理は、いずれも官僚的であり、能動的攻撃性と親和的である。戦争では殺害が「作戦」「制圧」「掃討」「抑止」といった語彙で包まれ、被害は損耗や戦果として統計化される。個々の死は、数値に変換され、意思決定の材料になる。ここで外部化仮説の四点はすべて揃う。目的合理性が正当化を支え、分業が責任を拡散し、婉曲語が心理的抵抗を弱め、統計化が個別の痛みを抽象化する。
近代性と大規模暴力の結びつきは、単に技術が殺害能力を高めたという話ではない。組織と管理が、殺害を「仕事」に変え、個人の情動から切り離す。バウマンは、近代の官僚制と合理性が大規模暴力を可能にした条件を論じた[10]。また、道徳的脱関与の枠組みは、個人が自分の加害を正当化し、責任感や罪悪感を回避する心理過程を説明する[11]。戦争が恐ろしいのは憎悪が強いからだけではなく、憎悪が不要になるほど制度化される点にある。怒りがなくても、手続きが回れば破壊は進む。
ここで現代への接続点が生まれる。私たちが日常で直面する排除や剥奪も、同じ意味で「怒りなしに回る」可能性を持っている。戦争という極端事例を理解することは、日常の制度が持つ危険条件を理解することと連続している。だからこそ本稿は、戦争を道徳劇としてではなく、外部化された能動的攻撃性の制度運用として扱う。
8. 社会的排除と社会的死:殺さずに破壊する
暴力を「殴ること」「殺すこと」と狭く定義すると、現代社会の主要な害が見えなくなる。雇用、信用、評判、可視性、住居、教育、医療へのアクセスが遮断されれば、身体的には生きていても、社会的には存在できない状態に追い込まれる。この状態は社会的死として理論化され、特に奴隷制の分析などで概念の射程が示されてきた[12]。ここで重要なのは、社会的死が必ずしも法的な死を意味しないこと、そして現代社会でも類似のメカニズムが別の形式で再現され得ることである。
社会的排除の領域では、外部化仮説の四点がより日常的な形で現れる。組織は「規程に従った」と言い、担当者は「私の裁量ではない」と感じ、周囲は「仕方がない」と言う。目的合理性は「公平」「効率」「安全」として語られ、責任は分散し、言語は「評価」「審査」「適格性」という表現で攻撃性を覆い、被害はスコアや閾値に変換される。このとき当事者は、加害者と交渉するのではなく、制度そのものと格闘することになる。制度と格闘するとは、窓口、書類、期限、要件、再審査、監査、異議申し立てといった手続きの網に絡め取られることであり、そこでは「相手の心」に訴える余地が乏しい。
8.1 福祉審査の自動化:救済のはずの制度が刃になるとき
福祉制度は本来、危機にある人の生活を支えるためにある。しかし審査と給付が厳格に制度化され、さらに自動化が進むと、救済の回路が剥奪の回路へ反転し得る。例えば、申請者の情報が複数の行政システムに分断され、更新タイミングがずれ、本人が誤りに気づいた時点ではすでに給付停止が確定しているという状況が起きる。担当者が善意でも、制度は善意で動かない。制度が動くのは、要件と期限とデータの整合性であり、そこから外れた人は「例外」として処理される。例外処理が遅れれば、当事者の側では家賃や食費という現実が先に崩れる。
この問題が暴力と連続するのは、給付停止が「殴打」ではないのに、生活の崩壊という実害を直接に生み、しかも加害主体が見えにくい点にある。目的合理性は「不正防止」「効率化」「公正な配分」として語られ、責任は「システム」「規程」「上位判断」に分散し、言語は「不備」「要件不一致」「更新未完了」といった非人格的表現で満たされ、被害は「停止」「減額」「却下」という処理結果のラベルに集約される。福祉分野の自動化が不平等を増幅し得る点は、事例に基づいて批判的に論じられている[13]。また、貧困層が行政と接触する仕組みが罰則的に働き得る点は、刑罰と福祉の接続としても議論されている[14]。外部化仮説の観点からは、ここでの核心は「救済の名で回る排除」であり、善意があるから安全だという直観が通用しない点にある。
さらに重要なのは、異議申し立てが制度内部の手続きとして組み込まれるほど、当事者の「時間」が吸い取られることである。書類を揃える、説明を求める、再審査を待つ、次の窓口に回される、という過程は、それ自体が生活維持の能力を奪う。
制度の側から見れば「正しいプロセス」でも、当事者の側から見れば「生存の猶予を削るプロセス」になり得る。この時間の非対称性は、外部化された能動的攻撃性が、情動を伴わずに人を追い詰める典型条件である。
8.2 採用のスコア化:人事判断が「最適化」になると何が起きるか
採用は本来、相互評価であり、対話と文脈を必要とする。しかし応募者が増え、採用担当の負荷が増えると、スクリーニングは自動化されやすい。レジュメのキーワード、学歴、職歴、テスト結果、動画面接の特徴量などが点数に変換され、一定の閾値で落とされる。このとき、企業側の言い分は単純である。「公平に処理するため」「見落としを減らすため」「コストを下げるため」「成果と相関する特徴を選ぶため」。しかし当事者の側では、合否は結果として受け取るだけになり、どこで何が判断されたのかを具体的に掴めない。
ここで外部化が起きるのは、判断が担当者の裁量からモデルと手続きへ移り、誰も強い自覚を持たずに排除が実行される点である。担当者は「モデルがこう出た」と言い、経営は「効率化のため」と言い、開発者は「要件通り」と言える。言語は「適性」「カルチャーフィット」「パフォーマンス予測」といった語彙に置き換わり、当事者の人格は特徴量へ分解される。ここでの危険は、差別的意図がなくても差別的結果が生じ得ることである。過去データが不平等を含むなら、モデルはそれを学習し、再生産する可能性がある。この問題は数理だけでなく、実務の事例としても批判的に論じられている[15]。また、公平性の概念や限界、設計上のトレードオフは体系的に整理されている[16]。外部化仮説の観点では、採用のスコア化は「怒りなしの排除」を日常化し、しかも排除が「公平」の名で正当化される点に核心がある。
さらに、採用のスコア化が当事者にもたらす心理的帰結は深刻である。落ちた理由が分からないほど、人は自己責任の物語に回収されやすい。自己責任の物語は、制度の攻撃性を個人の欠陥へ転写する。外部化された能動的攻撃性は、当事者の側で内面化され、自己攻撃として作用し得る。これは「暴力が見えない」ことのもう一つの効果であり、社会が非暴力的だと感じながら人が壊れる理由の中心にある。
8.3 信用スコア:生活の入口が数値で閉じる
信用スコアは、ローンやクレジットだけでなく、賃貸、保険、時に雇用の入口に影響する。スコアは「リスク管理」として正当化され、意思決定の効率を高めるが、当事者には、なぜ自分が不利なのかが見えにくいことがある。誤りがあっても気づきにくく、訂正手続きに時間がかかれば、その間に生活の機会が失われる。しかも信用スコアは、過去の行動だけでなく環境の影響を強く受けるため、すでに不利な位置にいる人ほど改善が難しい場合がある。
ここでも外部化仮説の四点が揃う。目的合理性は「健全な市場」「不良債権の抑制」として語られ、責任はスコア提供者、金融機関、規程、モデルへ分散し、言語は「スコアが低い」「与信が通らない」という非人格的表現に置き換わり、被害は「拒否」「条件悪化」という結果の形で現れる。公的機関は信用報告とスコア、誤り訂正、消費者保護に関する情報を提供している[17][18]。外部化仮説の観点からは、信用スコアは「数値化された人格」が生活の入口を支配する仕組みであり、暴力が身体から数値へ移る象徴的事例である。
この領域で見落とされがちな点は、信用スコアが「罰」ではなく「予測」だと説明されることで、当事者が抗議しにくくなることである。罰なら不当性を争えるが、予測は「あなたは危険そうだ」というラベルに近い。危険そうだというラベルは、現実の危険行為がなくても付与され得るし、付与された結果として機会が奪われれば、生活が不安定になり、危険が現実化することすらある。外部化された能動的攻撃性は、予測の名で未来を閉じる。この閉鎖は感情を伴わずに実行されるため、当事者の側では「誰にも殴られていないのに、殴られ続けている」感覚として現れ得る。
9. AI とアルゴリズム:外部化の最終段階としての自動化
AI は怒らず、憎まず、ためらわないが、分類し、選別し、切り捨てる。採用で不採用を出し、福祉で支給停止を出し、保険で条件を変え、監視でリスク人物を抽出し、プラットフォームで可視性を上下させる。これらは「最適化」や「効率化」「安全」という名で正当化されやすい。外部化仮説から見れば、AI は能動的攻撃性を完全に外部化し、自律化する装置になり得る。ここで核心になるのは、悪意の有無ではない。悪意がなくても排除が起き、しかも抗議先が見えにくいことが問題である。
AI による意思決定が持つ特有の問題は、説明責任と救済の回路が弱いまま、意思決定のスケールと速度だけが増幅される点にある。開発者は「要件通り」と言い、運用者は「指標に従った」と言い、組織は「規程に合致する」と言う。この責任の消失は、技術の問題であると同時に、制度設計の問題でもある。ブラックボックス化した意思決定と説明責任の問題は法学・政策論でも議論されてきた[19][20]。また、AI のリスク管理やガバナンスの枠組みは公的にも整備が進んでいる[26][27]。外部化仮説が強調するのは、倫理宣言の有無ではなく、具体的に誰が説明し、誰が監査し、誰が救済するのかという責任回路である。
9.1 プラットフォームの可視性操作:見えなくすることは攻撃になり得る
プラットフォームは、発信の見え方を操作する。推薦、ランキング、フィード、検索結果、通知は情報の流通を決定し、個人や団体の発言力と収益を左右する。このとき可視性の増減は、運営者個人の意図ではなく、最適化されたシステムの結果として現れやすい。当事者は突然リーチが落ち、収益が下がり、社会的影響力が弱まっても、「規約違反ではないが推薦されない」という状況に置かれ得る。この作用が暴力と連続するのは、身体に触れずに機会と関係性を切断し得る点である。
可視性操作は、単なる技術的バグではなく、目標関数の政治性と結びつく。滞在時間を最大化する、炎上を抑える、広告効率を上げる、法的リスクを避ける、という目標は合理的に見えるが、その副産物として、特定の言説や活動が体系的に見えなくなる可能性がある。当事者に残るのは「突然見えなくなった」という経験であり、説明がなければ自己責任の物語へ回収される。プラットフォームのモデレーションと可視性の政治性は研究対象として整理されている[21][22][23]。外部化仮説の観点では、可視性操作は能動的攻撃性が「秩序維持」や「品質向上」として外部化され、しかも分散的に実行される典型例である。
さらに可視性操作は、コミュニティ内部の対人関係にも波及する。見えなくなることで誤解が生まれ、関係が薄れ、当事者は孤立する。孤立は社会的死の一部であり、暴力の核心が身体の破壊ではなく関係の破壊だとするなら、可視性操作は現代的暴力の重要な実装形態である。怒りがなくても、誰も加害者だと思っていなくても、生活と関係性が損なわれる。ここに、文明が衝動的暴力を抑えてきた装置が、別の様式の攻撃を可能にするという外部化仮説の骨格がそのまま現れている。
10. 競合理論への応答:暴力低下論、道徳進歩論、技術決定論批判
外部化仮説に対する第一の反論は、暴力低下論である。身体的暴力が長期的に低下しているという主張は、反応的攻撃性の抑制について説得力を持つ[1]。しかし外部化仮説は、そこで扱われる暴力の定義が、制度的排除や社会的死を十分に捉えないと指摘する。測定可能な暴力が減ったとき、測定されにくい害が同時に増えていないかを問う必要がある。外部化仮説は暴力低下論を否定するのではなく、暴力が「測られやすい形態」から「測られにくい形態」へ移動した可能性を扱う補完枠である。
第二の反論は、道徳進歩論である。人権の拡張や福祉の整備、差別撤廃の運動は社会を改善してきた。外部化仮説もこの点を否定しない。ただし、道徳的進歩は同時に排除基準の更新を伴う。露骨な暴力が禁じられるほど、排除はより洗練された形式へ移り、婉曲語と手続きに埋め込まれやすくなる。この両義性を前提にしないと、「なぜ善意が害を生むのか」という現象が説明できない。外部化仮説は、道徳の進歩が攻撃性の消滅を意味するとは限らず、攻撃性が別の器に移ることで社会が自分を非暴力的だと感じやすくなる点を強調する。
第三の反論は、技術決定論批判である。外部化仮説が AI やアルゴリズムを扱うと、技術が社会を規定しているかのように読まれやすい。しかし外部化仮説の因果は逆である。技術が攻撃性を生むのではなく、人間が引き受けられなくなった能動的攻撃性を、制度や技術が引き受けている。技術は原因ではなく容器であり、媒介である。社会が何を最適化し、何を正当化し、どこで責任を消すかを設計するから、技術はその設計に従って攻撃性を運ぶ。この見方は、国家が情報を可視化し管理するために抽象化を行うという議論とも整合する[25]。
11. 想定反論と再反論:理論の射程、反証条件、改善の入口
外部化仮説に対する強い批判として「比喩にすぎず実証不可能ではないか」がある。外部化仮説は自然科学の単純な操作的仮説ではなく、社会現象を統一的に説明する理論仮説であるため、厳密な意味で単一の実験で検証する類ではない。ただし反証可能性は持つ。制度化や自動化が進むほど、排除の責任主体が明確になり、被害が可視化され、救済が容易になる社会設計が一般化するなら、外部化仮説は弱まる。また、社会的死や機会剥奪が身体的暴力と同様に長期的に減少していることが、独立の指標で十分に示されれば、仮説は修正を迫られる。
次に「悲観主義で政治的改善を放棄している」という反論がある。外部化仮説が否定するのは完全解決の幻想であって、改善の可能性ではない。むしろ外部化仮説は、改善の焦点を誤らないための理論である。怒りを抑える教育だけでは不十分で、制度・言語・技術に埋め込まれた能動的攻撃性を可視化し、責任と救済の回路を設計し直す必要がある。このとき最低要件になるのは、透明性、説明責任、異議申し立て、監査可能性である。公的枠組みとしては、AI リスク管理や原則が提示されているが[26][27]、本稿の立場では、原則の提示だけでなく、責任の所在と救済の時間を具体的に設計することが核心になる。
さらに「すべてを同一視しすぎではないか」という反論がある。外部化仮説は現象の同一性ではなく構造的同型性を主張している。処刑と採用 AI は同じではないが、目的合理性、責任分散、婉曲語、統計化が共通する限り、同じ骨格で理解できる。骨格が分かれば、どの条件で害が拡大しやすいかも特定できる。具体的には、説明の欠落、異議申し立ての困難、監査不能、例外処理の遅延が重なると、外部化された能動的攻撃性は、怒りなしに人を追い詰める装置になる。
12. 結論:人間と暴力の再定義
人間は暴力を克服したのではない。衝動的で可視的な暴力を抑制することで文明を築いたが、その代償として、計画的で不可視な攻撃性を制度、言語、技術へと委ねてきた。処刑、戦争、社会的排除はその古典的形態であり、福祉審査の自動化、採用のスコア化、信用スコア、プラットフォームの可視性操作はその現代的形態である。暴力が危険になるのは、怒りが強いときだけではなく、怒りが不要になったときである。正義、合理、最適化という語彙が整備され、責任が分散され、被害が数値に置き換わるとき、攻撃性は静かに最大化し得る。
外部化仮説が要求するのは、楽観でも悲観でもない。問うべきは、ある制度や技術が「誰を」「どの手続きで」「どの速度で」排除し、そのとき説明と救済がどれだけ確保されているかである。暴力の問題は道徳だけではなく、制度設計と技術設計の問題である。見える暴力を減らした社会ほど、見えない暴力を止めるための監査と救済の回路を、より強く必要とする。
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