本稿の主題は「性自認(gender identity)が、何によって、どのような発達過程を経て決まるのか」を、現在の学術知見の到達点として整理することである。先に結論を述べると、性自認は単一の原因で説明できる現象ではなく、出生前から出生後までの複数因子が相互作用し、発達の中で安定化する「多因子・発達的な統合結果」であると考えられている[1][2][3]。一方で、個人単位で「なぜこの人はこの性自認になったのか」を物理指標だけで一意に予測・証明する段階には到達していない[4][5]。
本文では、用語として「性自認」「性別違和(gender dysphoria)」「性別不合(gender incongruence)」を区別して扱う。医療分類上、ICD-11 では「性別不合」が精神疾患カテゴリから外され「性の健康に関連する状態」へ移された[6]。DSM-5-TR では「性別違和」は“苦痛・機能障害を伴う不一致”として定義される[7]。つまり、医療分類が扱うのは「性自認そのもの」ではなく、主として「不一致がもたらす苦痛や困難」である[7][8]。
1. まず定義を揃える:何を「決まる」と呼ぶのか
「性自認が決まる」という言い方には、少なくとも3つのレベルが混在しやすい。
第一に、本人の自己理解としての「私は女性(あるいは男性、ノンバイナリー等)である」という自己同一性が形成され、安定すること。
第二に、社会的相互作用の中で、その自己理解を言語化し、ラベルとして運用できること。
第三に、医療や法制度の文脈で、支援や手続の対象として扱われること。
本稿が扱うのは主に第一の「自己同一性としての性自認」の形成と安定化である[2][3][9]。
| 概念 | 何を指すか | 科学が扱えるデータ | 注意点 |
|---|---|---|---|
| 性自認(gender identity) | 自分をどの性別として経験・理解するか | 自己報告、縦断調査、心理尺度 | 「検査で確定」よりも本人の持続的体験が中心 |
| 性別違和(gender dysphoria) | 性自認と出生時に割り当てられた性との不一致に伴う苦痛 | 診断基準、臨床記録、症状の持続と生活影響 | DSM-5-TR は「苦痛/障害」を要件にする[7] |
| 性別不合(gender incongruence) | 経験される性別と割り当てられた性の持続的な不一致 | 自己報告、医療アクセス上の分類 | ICD-11 では精神疾患分類から移動し、スティグマ低減を意図[6] |
2. 現在わかっていること:単因子ではなく、多因子・発達過程で安定化する
性自認の形成について、現代の主要ガイドラインと総説が共有する骨格は「多因子モデル」である。具体的には、遺伝・出生前ホルモン・脳発達・身体表象・心理発達・社会環境が、異なるタイミングと重みで相互作用し、個人ごとに異なる経路で性自認が安定化するという見取り図である[1][10][11][12]。
2.1 遺伝要因:寄与は示唆されるが「性自認遺伝子」は存在しない
双生児研究や総説では、性別違和やジェンダー多様性に遺伝的寄与がある可能性が示唆されている。ただし推定値には研究間でばらつきがあり、決定論的に語れる水準ではない[13][14][15]。現時点で支持されるのは「性自認は多遺伝子(polygenic)で、環境との相互作用を含む複雑形質である」という整理であり、単一遺伝子で説明できるわけではない[15]。
2.2 出生前ホルモンと性分化:影響の方向性は示唆されるが、決定因ではない
出生前の性ホルモン環境が、性別に関連する行動傾向や嗜好に影響し得ることは、発達研究で繰り返し議論されてきた。ただし性自認そのものを一意に決める証拠はなく、影響があったとしても「感受性を変える」程度に留まる可能性が高い[13][15][16]。
例として、先天性副腎過形成(CAH)など性分化に関わる医学的条件の研究では、出生前アンドロゲン曝露が性別関連行動に影響する可能性が示唆される一方、出生時女性として育てられたCAH当事者の大多数は成人後も女性としての性自認を持つという知見がある[17][18][19]。これは「出生前ホルモン=性自認の決定」ではないことを、強い形で示す材料になる。
2.3 脳の構造・機能:群差は研究されているが、個人診断のマーカーにはならない
近年は神経画像研究の蓄積が進み、トランスジェンダー/ジェンダー多様な人々における脳構造・機能の群差や、ホルモン治療後の変化が報告されている[4][5][20]。ただしレビューが繰り返し指摘する通り、研究間の不一致、サンプルサイズ、交絡(年齢、精神健康、治療歴など)の問題が残り、これを「中枢が女性/男性」といった二分法で確定することはできない[21][22]。
さらに一般論として、脳は「男性脳/女性脳」という二分類にはならず、個人ごとに性差特徴が混在するモザイクとして理解する立場が強い[23]。したがって、「性自認が女性なら脳が女性型であるはず」といった単純対応は、現代の神経科学の理解と整合しない。
2.4 身体表象(ボディマップ)と自己帰属:性自認の“体感”を支える中枢過程
性自認を「内面の宣言」ではなく「身体をどう自分のものとして感じるか」という身体表象の問題として捉えると、議論が整理しやすい。性別違和の中核には、身体部位の配置や欠落感、あるいは“あるはずの部位”の体感といった自己帰属の問題が関与し得る。その一端として、出生時には存在しない性器の感覚を報告する「trans phantoms(トランス・ファントム)」に関する研究がある[24][25]。
もちろん、この現象だけで性自認が説明できるわけではないが、少なくとも「性自認は純粋に社会的ラベルではなく、身体表象と結びつく主観的実在である」という点を支持する材料にはなる。
2.5 発達の縦断:多くは安定だが、変化や流動性も存在する
性自認は一般に安定であるが、全員が同じ経路をたどるわけではない。近年の縦断研究では、青年期までの経路として「安定」が最頻である一方、変化や探索的経路も一定割合で観察されることが示されている[26]。また、ジェンダーアイデンティティの流動性(fluidity)と健康指標の関連を扱う研究も蓄積しつつある[27]。
3. ここまでの到達点を表にする:何が「確からしい」か
| 論点 | 現在の到達点 | 代表的根拠 | 限界 |
|---|---|---|---|
| 決定因は1つか | 単因子ではなく多因子モデルが主流 | [1][10][15] | 因子の重みづけは個人差が大きい |
| 遺伝の寄与 | 寄与は示唆されるが推定値は不安定 | [13][14][15] | 「遺伝子で確定」は不可能 |
| 出生前ホルモン | 影響の可能性はあるが決定因ではない | [17][18][19] | 効果は小さく、例外も多い |
| 脳の性差 | 二分法ではなくモザイク、群差は重なる | [23] | 個人診断マーカーにはならない |
| 神経画像(TGD) | 群差や治療後変化の報告はある | [4][5][20] | 交絡と不一致が残り、決定論は不可 |
| 身体表象 | 自己帰属の問題として理解が進む | [24][25] | 単独で性自認を説明できない |
| 発達の安定性 | 安定が多数派だが、変化・流動性もある | [26][27] | 測定・定義の違いで推定が揺れる |
4. 現在わからないこと:科学がまだ答えられていない問い
「多因子である」ことが分かった段階では、次の問いが残る。第一に、因子の“統合規則”である。どの因子がどの発達段階で効き、どのように相互作用して「私は女性(男性)である」という自己モデルに収束するのかは、一般理論として確立していない[15][21]。第二に、個人単位の予測可能性である。現時点の知見は群平均との差を示す研究が中心であり、個人の性自認を脳画像や遺伝子で判定できるほどの分離能はない[21][22][23]。第三に、変化や流動性の扱いである。安定が多数派であることと、変化する経路が存在することは両立するが、両者を統一的に説明する枠組みはまだ弱い[26][27]。第四に、文化・制度の役割である。社会はラベルや表明可能性を規定するが、その影響が「表現の形式」に留まるのか、「自己モデルの形成」にも構造的に寄与するのかは、測定が難しい。
| 未解明の論点 | なぜ難しいか | 研究が向かう方向 |
|---|---|---|
| 因子の統合規則 | 発達段階・個体差・相互作用が大きい | 縦断コホート、計算モデル、因果推論 |
| 個人単位の予測 | 群差が重なり、マーカーが特異的でない | 大規模データ、再現性強化、前登録研究 |
| 変化・流動性の機構 | 測定定義とラベルが時代・文化で変わる | 同一尺度の長期追跡、混合効果モデル |
| 社会・制度の寄与 | 倫理的制約で実験操作が困難 | 自然実験、政策変更の前後比較、質的研究 |
5. 仮説との整合的整理:性自認を「自己モデルの更新」として扱う
「クオリアとは何か」の仮説(意識=世界の更新構造、自己=体験を束ねる最小モデル、現在=主体が生成する局所現象)に接続すると、性自認は「自己モデルの中で、身体と社会的役割を説明するために採用される基準座標」として位置づけられる。ここで重要なのは、性自認を「宣言」ではなく「予測と誤差最小化の結果として安定化するモデル」として読む点である。
この枠組みにおいて、出生前ホルモンや遺伝は“初期条件”であり、身体表象は“観測モデル”であり、社会環境は“外部制約”として働く。それらが相互作用した結果として、自己モデルは「この身体で、この社会を生きる際に最も安定する性別座標」を採用する。こう考えると、単因子決定論を回避しつつ、性自認が主観的に強固である理由(自己モデルの基準座標は容易に書き換えられない)も説明しやすい。
| 要素 | 仮説上の位置づけ | 科学知見との対応 |
|---|---|---|
| 遺伝・出生前ホルモン | 初期条件(パラメータの分布) | 寄与は示唆されるが決定因ではない[13][15][19] |
| 脳発達 | 更新系の実装(学習の基盤) | 二分法ではなくモザイク、群差は重なる[23] |
| 身体表象 | 自己帰属の推定器(ボディマップ) | trans phantoms等が自己帰属の重要性を示す[24] |
| 社会・制度 | 制約条件(表現可能性、報酬・罰、可視性) | 支援ガイドラインは苦痛・生活困難の緩和を目的化[10][11] |
| 性自認 | 自己モデルの基準座標(安定解) | 多因子の統合結果としての安定化という主流理解[1][2][15] |
ただし、この整理は「仮説としての整合性」を与える一方で、個人の性自認を物理的に“証明”するものではない。科学的に前進させるには、この枠組みから反証可能な予測を切り出し、縦断データや神経・心理指標と結びつける必要がある。例えば、身体表象の測定と、自己帰属の揺らぎ、苦痛の推移を同一個体で追跡し、介入(社会的支援や医療的支援)でどの変数が動くかを検証する、といった方向になる。
6. 実務的含意:なぜ「矯正」ではなく「支援」が中心になるのか
性自認の形成を単純な選択として扱うよりも、自己モデルの安定化として扱うほうが、臨床・倫理の文脈と整合する。現行の主要ガイドラインは、性自認を“変える”ことではなく、本人の持続的な性別経験と苦痛・生活困難の軽減を中心に据える[10][11][12]。また、性自認を変えることを目的化した介入(いわゆる GICE)が害を生むことへの懸念が専門団体の文書で示されている[28]。
7. まとめ
- 性自認は、遺伝・出生前ホルモン・脳発達・身体表象・心理発達・社会環境が相互作用し、発達の中で安定化する多因子現象である[1][10][15]。
- 双生児研究などから遺伝的寄与は示唆されるが、推定値は不安定で「遺伝子で確定」できる段階ではない[13][14]。
- 出生前ホルモン環境は影響し得るが決定因ではなく、医学的条件(CAH 等)の知見は単因子決定論を否定する材料になる[17][19]。
- 神経画像研究は群差を報告するが、脳は二分法ではなくモザイクであり、個人の性自認を物理的に“判定”する指標にはならない[21][23]。
- 仮説に即せば、性自認は自己モデルの基準座標として理解でき、多因子知見を整合的に束ねられるが、科学としては反証可能な予測へ落とす作業が必要である。
参考文献
- American Psychological Association, “Understanding transgender people, gender identity and gender expression” (2023). https://www.apa.org/topics/lgbtq/transgender-people-gender-identity-gender-expression
- WPATH, “Standards of Care Version 8 (SOC8)” (publication page). https://wpath.org/publications/soc8/
- Coleman E, et al. “Standards of Care for the Health of Transgender and Gender Diverse People, Version 8.” (2022) PubMed entry. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/36238954/
- Bonnekoh LM, et al. “Neuroimaging insights into transgender and gender diverse adolescents: a review.” (2025) PMC. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC12670818/
- Mueller SC, et al. “The Neuroanatomy of Transgender Identity: Mega-Analytic Findings…” (2021) PDF. https://juser.fz-juelich.de/record/905207/files/Kennis_2021_the_neuroanatomy_of_transgender_identity.pdf
- World Health Organization, “Gender incongruence and transgender health in the ICD” (FAQ). https://www.who.int/standards/classifications/frequently-asked-questions/gender-incongruence-and-transgender-health-in-the-icd
- American Psychiatric Association, “What is Gender Dysphoria?” (DSM-5-TR overview). https://www.psychiatry.org/patients-families/gender-dysphoria/what-is-gender-dysphoria
- MSD Manuals (Professional), “Gender Incongruence and Gender Dysphoria.” https://www.msdmanuals.com/professional/psychiatric-disorders/gender-incongruence-and-gender-dysphoria/gender-incongruence-and-gender-dysphoria
- National Academies, “Understanding the Well-Being of LGBTQI+ Populations” (interactive). https://nap.nationalacademies.org/resource/25877/interactive/
- Endocrine Society, “Gender Dysphoria/Gender Incongruence Guideline Resources” (updated resource page). https://www.endocrine.org/clinical-practice-guidelines/gender-dysphoria-gender-incongruence
- Hembree WC, et al. “Endocrine Treatment of Gender-Dysphoric/Gender-Incongruent Persons: An Endocrine Society Clinical Practice Guideline.” (2017) PubMed. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28945902/
- Hembree WC, et al. (2017) full text (JCEM). https://academic.oup.com/jcem/article/102/11/3869/4157558
- Conabere W, et al. “Genetic and Environmental Contributions To Gender Diversity.” (2025) PMC. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC12494644/
- Conabere W, et al. “Using twin data to examine heritable and intrauterine hormonal influences on transgender and gender diverse identities.” (2025) Scientific Reports. https://www.nature.com/articles/s41598-025-06265-6
- Polderman TJC, et al. “The Biological Contributions to Gender Identity and Gender Diversity: Bringing Data to the Table.” (2018) PubMed. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/29460079/
- Batista RL, et al. “The genetics and hormonal basis of human gender identity.” (2024) SciELO. https://www.scielo.br/j/aem/a/qxfCShBRHsxtpL7H49Xjt8q/?lang=en
- Dessens AB, et al. “Gender dysphoria and gender change in chromosomal females with congenital adrenal hyperplasia.” (2005) Archives of Sexual Behavior. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/16010462/
- Ercan O, et al. “Gender Identity and Gender Role in DSD Patients Raised as Females…” (2013) PMC. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3711069/
- Fernández NS, et al. “Is there a biological component in gender identity?” (2025) Anales de Pediatría. https://www.analesdepediatria.org/en-is-there-biological-component-in-articulo-S2341287925002108
- Mueller SC, et al. “The Neuroanatomy of Transgender Identity: Mega-Analytic Findings From the ENIGMA Transgender Persons Working Group.” (2021) PubMed. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34030966/
- Bonnekoh LM, et al. “Neuroimaging insights into transgender and gender diverse adolescents: a review.” (2025) PubMed. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/41299748/
- WPATH SOC8 open access link (Taylor & Francis). https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/26895269.2022.2100644
- Joel D, et al. “Sex beyond the genitalia: The human brain mosaic.” PNAS (2015). https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.1509654112
- Langer SJ, et al. “Examining the prevalence of trans phantoms among transgender, nonbinary, and gender diverse individuals.” (2023) PMC. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10128397/
- Langer SJ, et al. (2023) PubMed entry. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/37114107/
- Benjamin EM, et al. “Stability and Change in Gender Identity and Sexual Orientation…” (2025) PMC monograph. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC12260785/
- Ocasio MA, et al. “The association between gender identity fluidity and health …” (2024) PMC. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11059450/
- American Psychological Association, “Resolution on Gender Identity Change Efforts” (PDF). https://lobbying.wi.gov/Data/PositionFileUploads/10092023_102035_APA%20Resolution.pdf