ネコは宇宙と交信しているのか

ネコは宇宙と交信しているのではないか」という言い回しは、科学的主張というより、人間側の直観を言語化した比喩である。ネコが虚空を凝視したり、突然耳だけ動かしたり、誰もいない方向へ反応したりする。人間はその瞬間に「そこに何があるのか」と問う。しかし、この問いが生まれる根には、より一般的で、しかも論理的に整理できる事実がある。すなわち、同じ物理世界を共有していても、生き物ごとに受信できる情報帯域も、意味として立ち上がる単位も、行動の基準も異なるという事実である。

人間が「見えているはず」「聞こえているはず」と思うことは、人間の感覚と認知の仕様の範囲内での話にすぎない。ネコが何かを察知しているように見えるのは、ネコが超常的だからではなく、人間が捨てている情報をネコが拾っている可能性があるからだ。ここで重要なのは、ネコが拾っている情報が「人間にとって存在しない」かのように扱われてしまう点である。原因が見えないまま結果(ネコの反応)だけを見ると、神秘的解釈が入り込む余地が生まれる。

本稿は、超常現象の仮説を置かず、環世界(Umwelt)という枠組みを中心に、ネコの行動がなぜ「宇宙っぽく」見えるのかを、誰でも追える形で丁寧に論理展開する。その上で、ネコに限らず、視覚がない動物や、触覚や化学感覚が支配的な動物、あるいは電気や水流や熱や超音波といった人間には馴染みの薄い情報層で世界を構成する動物を例示し、「生き物ごとに現実が分岐する」とはどういう意味かを具体化する。最後に、環世界を「更新され続ける世界」という見方へ接続し、環世界が単なる生物学用語にとどまらず、世界が意味を持つ構造そのものに関わることを整理する。


1. 結論を先に確定する

まず結論を明確にする。ネコが「宇宙」や「異次元」と通信していることを支持する科学的証拠はない。一方で、ネコが人間には知覚できない刺激に反応し、ネコ同士では人間がそのまま理解できない様式で情報をやり取りしていることは、多数の研究知見と整合する。したがって本稿の答えは次の形になる。ネコが特別な超常能力を持つのではなく、ネコと人間で「世界の切り出し方」が違うために、同じ出来事が別の現実として立ち上がり、そのズレが神秘に見える。

ここでいう「世界の切り出し方」とは、単なる主観や性格の差ではない。感覚器官が受け取れる入力、身体が取り得る行為、そして生存戦略(捕食、回避、探索、休息、社会的距離の調整)が、物理世界の情報を強烈に圧縮し、「意味のあるもの」だけを抽出する。その抽出結果が各生物の環世界である。ネコが虚空を見るように見えるとき、ネコの環世界では既に「何かが起きている」。しかし人間の環世界では、その原因が入力段階で削除されている。原因が消えたまま結果だけが残る。その非対称が「交信」に見える。


2. 環世界(Umwelt)とは何か

環世界(Umwelt)は、生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの議論に代表される概念であり、世界そのものではなく「その生物にとって意味を持つ世界」を指す[1]。環世界は主観的幻想ではない。むしろ、物理世界から必然的に切り出される「意味の地図」である。ユクスキュルの視点では、生物は環境を中立なデータとして受け取るのではなく、感覚と運動の回路を通じて、特定のものだけを手掛かり(sign)として扱い、それに反応する。手掛かりとして扱われないものは、その生物にとって存在しないに等しい。環世界という概念を理解する最短の道は、「世界の全情報は無限に近いが、生物は有限の帯域しか扱えない」という前提を置くことである。

ここで「世界は一つなのに、現実が複数ある」という言い回しが成立する。同じ部屋に人間とネコがいるとき、物理的には同じ空気、同じ光、同じ音波、同じ床面がある。しかし「何が出来事として立ち上がるか」は一致しない。人間にとっては家具の配置や文字情報が主要である一方、ネコにとっては通路、跳躍点、隠れ場、匂いの履歴、微細な気配の変化が主要になる。どちらも「同じ世界」を生きているが、意味の分節が違うために、実際に生きられる現実が違う。

さらに踏み込むなら、環世界は「感じ方の違い」ではなく、行為可能性(アフォーダンス)の違いとして立ち上がる。環境が生物に提供する行為可能性という観点は、ギブソンの生態学的心理学の枠組みとも整合する[2]。同じ段差が、人間には障害でも、ネコには跳躍点でも、昆虫には崖でもある。環世界は対象の一覧ではなく、行為の地図である。ここまでを押さえると、ネコの不可解な挙動は「宇宙の謎」ではなく、環世界のズレの可視化として理解できる。


3. 「人間の認知の外側」とは具体的に何か

本稿で繰り返し出てくる「人間の認知の外側」は、神秘領域ではない。人間という生物の仕様により、入力や解釈の段階で切り捨てられる情報領域を指す。これを曖昧な表現のままにすると、すぐに超常解釈へ滑るので、ここで明確に分解する。

3.1 感覚器レベルの外側(そもそも入力されない)

第 1 に、感覚器レベルの制約がある。人間は可視光のごく狭い帯域だけを見ている。可視域はおおむね 400 nm から 700 nm とされ、可視光の定義を含む解説でもこの範囲が示される[3]。同様に聴覚はおおむね 20 Hz から 20 kHz に制約され、それより高い周波数や低い周波数は入力されない。入力されないものは意識に上がりようがない。つまり人間は、世界のごく薄い断面だけを受信している。

ここで「人間が見えない・聞こえない」は、世界側の欠如ではなく、人間側の帯域制限である。人間が「そこには何もない」と結論するとき、それは「その帯域では何も検出できない」という意味に縮退している。ネコの反応が不可解に見えるのは、この縮退が無自覚に起きるためである。

3.2 注意と前処理の外側(入力されても意識に上がらない)

第 2 に、入力があっても注意と前処理で捨てられる。注意を向けないものは「見えているのに見えない」ことがある。動的事象に対する注意の欠落(inattentional blindness)は古典的実験で示されている[4]。同様に、視野内の大きな変化であっても、条件によっては気づきにくい(change blindness)ことが示され、注意が知覚に必須であることが論じられている[5][6]

重要なのは、これらが「うっかり」ではなく、脳の基本仕様である点である。人間の脳は、入ってくる情報をすべて処理すると破綻するので、常に「重要そうなもの」だけを選び取る。つまり人間が世界を見ているとき、実際には「世界全体」ではなく「必要だと判断した差分の集約」だけを見ている。その判断から漏れたものは、存在していても存在しない扱いになる。

3.3 時間解像度の外側(高速な更新が統合される)

第 3 に、時間解像度の制約がある。人間の意識は連続入力をそのまま保持せず、意味のある単位に統合する。高速・微小な変化は同一視され、因果が取り逃される。結果として「突然そうなった」「理由なく起きた」と感じる出来事が生じる。ここで重要なのは、突然に見えるだけで、世界側の更新は連続であるという点である。人間の側が粗く統合するために、連続性が断たれて見える。

3.4 言語化と分類の外側(名前がないものは掴めない)

第 4 に、言語化と分類の制約がある。人間は「名前のあるもの」「分類できるもの」を理解として扱いやすい。逆に言語化できない差異は「気のせい」「よく分からない」に落ちやすい。ここで「理解」とは、世界を写し取ることではなく、世界を意味の箱へ押し込む処理である。箱に入らないものは見落とされる。ネコの行動が不可解に見える場面では、原因が言語の箱に入らないまま処理され、結果だけが残っている。

3.5 予測モデルの外側(単純因果で説明できない過程)

第 5 に、予測モデルの制約がある。人間は無意識に「原因→結果」「意図→行動」というモデルで世界を理解する。しかし原因が複雑で非線形だったり、影響が遅延したりすると、単純な因果で説明できない。すると説明可能性が崩れ、「不可解」や「神秘」に分類されやすい。脳の働きを予測と誤差最小化として統一的に捉える枠組み(自由エネルギー原理)は、この「予測に基づく理解」の方向性を理論化したものとして参照できる[7]

3.1〜3.5 一覧表:人間の認知の外側(層別)

層(どこで外れるか) 具体的に何が起きるか 日常での見え方 ネコ等の他生物との関係
3.1 感覚器レベル 入力帯域の外はそもそも受信されない(可視光・可聴域などの制約) 「そこには何もない」と断定しやすい 別帯域を受信できる生物は、人間が空白とする層に反応する
3.2 注意・前処理レベル 入力されても注意されなければ意識に上がらない(見ているのに見えない) 「気づかなかった」「見落とした」 人間が気づけない小さな兆候が、他生物では行動の引き金になり得る
3.3 時間解像度レベル 高速・微小な変化が統合され、因果が取り逃される 「突然そうなった」「理由なく起きた」と感じやすい 短い時間窓で評価・反応する生物では、先行する兆候がより明確に扱われる
3.4 言語化・分類レベル 名前・カテゴリーに乗らない差異が「分からない」に落ちる 「気のせい」「説明できない」 非言語・連続信号中心の生物の行動は、言語中心の理解から外れやすい
3.5 予測モデルレベル 単純因果で説明できない過程は神秘化・不可解化される 「理由が分からない」「不思議だ」 複雑な入力→短時間評価→解除のループは、人間側の説明枠から漏れやすい

以上をまとめると、人間の認知の外側とは「入力帯域から漏れた情報」「注意に上がらない刺激」「高速・連続の変化」「言語化できない差異」「単純な因果で説明できない過程」の総体である。ネコの挙動が不可解に見えるのは、ネコがその領域に反応し得るためであり、人間がその領域を原因として扱えないためである。


4. ネコの環世界は何を中心に組み立てられるか

ネコの環世界を一言で言うなら、「物体の一覧」ではなく「差分と兆候の地図」である。ネコにとって重要なのは「それが何か」より「いま変化が起きているか」「それにどう関われるか」だ。ここで「関われるか」は、捕食や回避だけではない。安全に休めるか、通れるか、隠れられるか、距離を保てるか、といった行為可能性の総体として立ち上がる。

この中心原理を押さえると、ネコが虚空を見つめる場面の見え方が変わる。人間にとっては「空白」に見えるが、ネコにとっては「何かが変わった」という兆候が既に存在する。ネコはそれを評価するために視線を固定し、耳の向きを微調整し、筋緊張を変える。人間は兆候を知覚できないので、行動だけが残り、「何かと通信している」印象になる。つまり「宇宙と交信」という印象は、ネコ側の行動ではなく、人間側の欠落(原因の不可視化)が作っている。


5. ネコは何を感じ取っているのか

5.1 聴覚:人間より広い帯域で兆候を拾う

ネコの聴覚は高周波側に強く拡張されている。行動実験に基づく古典的研究では、一定音圧条件での可聴域が人間より高周波側へ広いことが示されている[8]。人間が聞き取れない微音は、ネコにとって「何かが動いている」という直接的な兆候になり得る。無音に見える室内でも、配管の微振動、昆虫の微音、電気機器の高周波ノイズなどは、ネコの環世界では出来事として立ち上がる可能性がある。

ここで注意すべきは、ネコが「音を聞く」だけではなく、音を空間の出来事として読む点である。音源の方向、距離、反射の具合が、空間の内部状態として推定される。人間は視覚優位なので、音は補助情報に落ちやすいが、ネコでは音が世界の骨格の一部になる場合がある。

5.2 視覚:細部の文字より、薄暗さと運動

ネコの視覚は、人間のような細部の判読ではなく、薄暗い環境での感度や運動の検出に適応している。ネコの眼の光学的特徴(タペタムなど)が低照度環境での感度に関わることは広く知られ、工学的にネコの眼を参照して低照度視覚の設計を議論する研究もある[9]。人間には「何もない壁」に見える場所でも、わずかな影の揺れや反射の変化が、ネコには十分な情報になる。

この差は「ネコの目は夜に強い」という一般論で終わらない。薄暗い環境では、人間の視覚が情報を落とし、ネコの視覚が情報を残す。その結果、同じ部屋でも「世界の密度」が変わる。人間の環世界では空白に見える領域が、ネコの環世界では出来事の場として埋まっている。

5.3 ヒゲ(触覚):不可視の地形を読む

ネコのヒゲは触覚器官であり、空間の形状だけでなく、微細な気流や振動に関連する情報を拾う可能性がある。哺乳類の振動毛(vibrissae)が気流刺激に機械的に応答し得ることは、流体刺激に対する機械応答を扱う研究で示されている[10]。また、振動毛に関わる神経系活動の研究から、触覚入力が高速に行動へ結びつく基盤が示唆される[11]

人間が「空間」と呼ぶものが、ネコには「触れる前から読める地形」として立ち上がる。たとえば狭い隙間に入れるかどうかは、目測だけでなく、ヒゲが返す微細な空気の変化や接触情報で確定される。ネコが身体をくねらせながら進むとき、それは「空間の情報を取りに行く」行為でもある。人間が見落としやすい空気と接触の層が、ネコの環世界では骨格を作る。

5.1〜5.3 一覧表:ネコが拾う主要モダリティ

モダリティ 人間より強い点(要点) 環世界で「何として」立ち上がるか 人間側の誤解の典型
5.1 聴覚 高周波側に強く、微音が兆候として意味を持つ 空間の内部変動(動き・接近・反射) 「無音なのに反応している」→原因が不可視
5.2 視覚 薄暗さでの感度、微小運動の検出が中心 影・反射・揺らぎなどの差分地図 「何もない壁を見ている」→微差分の見落とし
5.3 触覚(ヒゲ) 接触前から空気の変化や狭さの情報を拾う 不可視の地形(通路・境界・接近予兆) 「急に避けた/止まった」→空間の別層を見落とす

6. 「宇宙と交信」に見える行動の内部構造

ネコが虚空を凝視する場面を、超常的に解釈する必要はない。より単純に、次のループとして理解できる。1) 人間が知覚できない差分(高周波の微音、微小運動、匂いの変化、気流など)を検出する。2) それが危険か機会かを短時間で評価する。3) 不要なら解除し、必要なら接近・回避・停止などの行動へ移る。このループは短く、高速で、しかも言語化されない。したがって人間は「原因」を見落とし、結果である行動だけを見て「なぜ」と感じる。

ここで「高速である」ことが重要である。人間の注意は、意識的に追える速度に制約される。ネコは微差分に反応し、評価して解除するまでを短い時間窓で完結させる。人間はその一部しか観測できず、観測できた部分(凝視や耳の動き)を説明しようとして、原因を外部の神秘へ置きがちになる。つまり「宇宙と交信」という物語は、観測可能性のギャップを物語で埋める行為として生じる。

この構造は、人間の側の注意と見落としの研究と整合する。人間は、視野内に巨大で目立つ対象があっても、課題に注意が拘束されると気づかないことがある[4]。また変化が起きても注意が向いていなければ気づかないことがある[5][6]。つまり、人間の「理解できない」は、世界の側の不可思議さではなく、人間の環世界の編集仕様が作る空白でもある。


7. ネコ同士で人間が理解できない通信はあるのか

ある。ただし「未知の言語」ではなく、通信モードの差である。人間は通信を言語(単語・文法・明示的意味)の枠で捉えやすい。しかしネコの通信は、状態を同期し、距離や緊張を調整するための連続的信号が中心になる。言語のように「何を言ったか」を復元しようとすると失敗するが、「場の状態をどう調整しているか」を見ると見えてくる。

7.1 視覚的マイクロシグナル

ネコの視覚信号として、耳と尾の配置などが相互作用に関与することは分析研究がある[12]。人間から見ると「何もしていない」時間でも、ネコ同士は微細な姿勢変化を読み合い、接近・停止・回避の選択を事前に調整している可能性がある。人間が「急にケンカが始まった」と感じる場面でも、ネコの環世界では既に多数の信号交換が行われ、閾値を超えたときに行動が表面化しているだけ、という見方が成立する。

人間が見落としやすいのは、信号が「離散的な単語」ではなく「連続的な状態量」になっている点である。耳の角度、尾の高さ、身体の硬さ、視線の固定と逸らし、歩幅の変化などは、単独では曖昧でも、組み合わせると場の状態が表現される。ネコの通信は、意味の伝達というより、相互の行動可能性を調整するための状態同期に近い。

7.2 嗅覚通信(化学的な履歴メッセージ)

ネコは化学コミュニケーションを強く用い、縄張り、個体識別、繁殖、緊張の調整に関与する。フェロモン療法など臨床的観点を含めて整理したレビューがあり[13]、ストレスと嗅覚系の関係を扱う整理もある[14]。尿や糞便に由来するセミオケミカルが行動に影響し得ることを扱う研究も報告されている[15]

人間にとって匂いは「匂うか匂わないか」に圧縮されやすいが、ネコにとっては「誰が、いつ、どの状態で、どこを通ったか」を含む持続的メッセージになり得る。ここでは「通信」は瞬間的な対話ではなく、空間に残る履歴の読み書きとして成立する。だから人間には「黙っているのに通じ合っている」ように見える。ネコが壁や家具に擦り付ける行為も、単なる癖ではなく、環世界の中で空間を再記述している可能性がある。

7.3 音声(成猫同士では少なく、人間に対して増える)

ネコの音声コミュニケーションを整理したレビューでは、文脈に応じた多様な発声が扱われている[16]。ネコ同士では音声が必須でない場面が多い一方、人間に対しては鳴き声が増えることが知られている。ここから素直に推論すると、人間が嗅覚やマイクロシグナルを十分に読めないため、ネコ側が届きやすいチャンネル(音声)へ寄せている可能性が高い。また、ネコと人間の間で肯定的シグナルとしての眼の動き(いわゆる slow blink)を実験的に検討した研究は、種間コミュニケーションが成立し得ることを示す[17]

7.4 同期行動(行動そのものが通信になる)

ネコ同士では、同時に視線を逸らす、同時に毛づくろいをやめる、同時に距離を取るといった同期が観察されることがある。これは「言語メッセージ」としては表現しづらいが、場の緊張と距離の調整としては機能する。つまり通信は「音声」だけではなく、行動のタイミングと整合性として成立する。人間が見落としがちな「場の調律」が、ネコの通信の中核になり得る。

7.1〜7.4 一覧表:ネコ同士の通信モード

通信モード 主な信号 機能(何を調整するか) 人間にはどう見えるか
7.1 視覚的マイクロシグナル 耳・尾・姿勢・視線・筋緊張の微変化 距離・緊張・接近可否の調整(状態同期) 「何もしていないのに急変した」
7.2 嗅覚通信(履歴メッセージ) 擦り付け・尿・糞便・フェロモン等の化学署名 縄張り・個体識別・情動状態・行動履歴の共有 「黙っているのに通じ合っている」
7.3 音声(状況依存) 鳴き声・短い発声・微音(人間の可聴域外含む可能性) 要求・警告・距離調整、種間では伝達手段の補強 「人間にはよく鳴く/猫同士は静か」
7.4 同期行動 同時の視線逸らし、移動、停止、毛づくろい中断など 緊張緩和・合意・距離調整(場の調律) 「以心伝心」「無言の合図」

8. ネコだけではない:環世界の多様性を動物で例示する

ここまでで「ネコが宇宙と交信しているように見える」理由は、環世界のズレとして説明できる。しかし環世界の多様性はネコに限らない。むしろ、感覚モダリティが人間と大きく異なる動物ほど、世界の立ち上がり方の違いが分かりやすくなる。以下では「視覚がない」「触覚が主」「匂いが主」「電気が主」「水流が主」「熱が主」というように、世界の骨格を作る情報層が変わる例を丁寧に列挙し、環世界の意味を具体化する。

8.1 視覚が中心ではない世界:コウモリ(反響定位)

反響定位(echolocation)を用いるコウモリでは、空間は「見える」ものではなく「反響として返ってくる」ものとして立ち上がる。反響遅延を用いて距離や構造を推定する神経基盤についてはレビューがある[18]。また、出生直後から反響定位に適応した聴覚皮質の性質が示される研究もある[19]。この世界では、壁は光学的境界ではなく、反響の時間構造として存在する。人間が「暗闇で見えない」と感じる場面が、コウモリには「反響の密度が上がる」として立ち上がる。視覚が弱いのではなく、そもそも空間の表現形式が違う。

8.2 人間に見えない色が骨格になる世界:ハチ(紫外線パターン)

花の多くは、人間の可視域の色だけでなく紫外線反射パターンを持ち、それが送粉者に対する信号として機能する。ハチの花認識における色とパターンの役割を扱う総説は、この点を具体的に論じている[20]。この世界では、同じ花が人間の目には単色に見えても、ハチには「標識付きの看板」として見える可能性がある。人間の環世界の「見えない」は、ここでも帯域の制約である。

8.3 匂いが空間の主層になる世界:イヌ(嗅覚優位)

イヌは嗅覚に強く依存し、匂いは対象の属性ではなく環境を構成する主要な情報層になる。イヌの嗅覚の生理と行動、応用可能性を整理したレビューは、匂いが意思決定や学習に直結することをまとめている[21]。この世界では、同じ公園が人間には「景色」として立ち上がるのに対し、イヌには「時間を含んだ履歴の層」として立ち上がる。匂いは残留と拡散によって時間軸を持つため、イヌの環世界は「過去が空間に貼り付いた世界」になりやすい。

8.4 電気が輪郭になる世界:弱電気魚(能動電気感覚)

弱電気魚は自ら弱い電場を発し、その歪みから周囲を知覚する(能動感覚)。電気感覚と電気信号の進化・機能を整理するレビューは、電気の発生と受容が生態に深く結びつくことを示す[22]。また、群れにおける能動感覚が個体の知覚を強化し得ることを示す研究もある[23]。この世界では、障害物は視覚的輪郭ではなく電場の歪みとして「触れずに触れる」形で立ち上がる。しかも周囲に同種個体がいると、その電場が環境側の一部になり、世界の見え方が変わる。

8.5 触覚だけで世界を高速に読む:スターノーズ・モグラ(触覚中心窩)

スターノーズ・モグラは鼻先の触覚器官(スター)で極めて高速に環境を探索し、触覚の「中心窩」に相当する特化部位を持つことが示されている[24]。触覚が中心になる世界では、対象はまず「触れたときの形状と質感」として立ち上がる。ここでは視覚の「遠くからの全体像」は必要条件ではない。世界は近接と接触の連続として成立する。視覚を持つか否かではなく、「世界の主層が接触情報になる」という点が本質である。

8.6 視覚がなくても壁が分かる:盲洞窟魚(側線と水流)

視覚を失った洞窟魚では、側線系(lateral line)の感度が高まり、水流の情報を用いて環境を捉えることが研究されている。洞窟魚の側線受容器の感度向上と行動の関係を検討した研究がある[25]。また、盲洞窟魚のレオタキシス(流れに向かう定位)に側線が必要であることを扱う研究もある[26]。この世界では、壁や障害物は「水流の乱れ」として先に現れる。人間にとっては見えない流体の地形が、世界の骨格になる。

8.7 触覚が行動を直結規定する:線虫(C. elegans)

視覚が中心ではない世界の極端な例として、触覚回路が行動を強く規定するモデル生物がある。線虫 C. elegans の触覚回路や感覚チャネルを扱う研究は、触覚入力が行動へ直結する回路構造を示す[27]。ここでは世界は「触れたか、触れないか」「刺激が強いか弱いか」として立ち上がり、分類は極めて行為直結的になる。複雑な視覚空間がなくても、環世界は成立することが分かる。

8.8 「触って味わう」世界:タコ(化学触覚)

タコは吸盤で「触って味わう」化学触覚(chemotactile)を持ち、腕の局所回路が探索行動を支えることが示されている[28]。この世界では、対象は「触れた表面の化学的性質」として立ち上がり、視覚的形状よりも「触れて確かめる」ことが認識の中心になる。人間の「見る」中心の世界観からすると、対象は遠くから眺めて分類するものだが、タコの世界では対象は接触しながら同定される。

8.9 暗闇で「熱の像」が立ち上がる:ヘビ(赤外線感覚)

人間にとって赤外線は見えないが、ピット器官を持つヘビは赤外線(熱)情報を利用して獲物や捕食者を検出できる。赤外線検出の分子基盤として TRPA1 が関与することを示した研究は、熱の情報が体性感覚系を通じて像として成立し得ることを示す[29]。この世界では、暗闇であっても「熱いもの」は明確に浮き上がる。人間が「見えない」と感じる場面が、ヘビには「熱のコントラスト」として成立する。

8.1〜8.9 一覧表:環世界の多様性(動物例)

動物例 主な情報層(支配的モダリティ) 世界の立ち上がり方(骨格) 人間とのズレが示すもの
8.1 コウモリ 聴覚(反響定位) 壁や距離が反響遅延として表現される 視覚なしでも空間は成立し、表現形式が違うだけ
8.2 ハチ 視覚(紫外線パターン) 花が紫外線の標識として立ち上がる 人間の「見えない」は帯域制約に過ぎない
8.3 イヌ 嗅覚(化学的地図) 空間が履歴と個体情報の層として構成される 世界は「対象」ではなく「痕跡の時間」になり得る
8.4 弱電気魚 電気感覚(能動センシング) 物体が電場の歪みとして輪郭化される 人間にない感覚層でも、環世界の骨格になり得る
8.5 スターノーズ・モグラ 触覚(触覚中心窩) 対象が接触で高速同定される 視覚中心でない世界が成立し、近接が基本になる
8.6 盲洞窟魚 側線(流体・水流) 壁が水流の乱れとして先に現れる 流体の地形が空間の骨格になり得る
8.7 線虫(C. elegans) 触覚回路(単純・直結) 刺激の有無・強弱が行動を直結規定する 極小の神経系でも環世界は成立する
8.8 タコ 化学触覚(触って味わう) 対象が表面の化学性として同定される 「見る」より「触れて確かめる」が中心になり得る
8.9 ヘビ 赤外線(熱) 熱が像として立ち上がり暗闇でもコントラストがある 不可視(人間)でも主要情報層(他生物)になり得る

9. ここまでの例から分かる「世界が違う」の意味

上の例示は、単に「感覚がすごい」という話ではない。ポイントは、感覚帯域と行為可能性が違うと、同じ物理世界のうち「意味として立ち上がる部分」が変わり、結果として現実の骨格が変わる、ということである。コウモリの世界では距離が反響遅延として立ち上がり、ハチの世界では花が紫外線パターンとして立ち上がり、イヌの世界では過去が匂いとして空間に残る。弱電気魚の世界では電場の歪みが輪郭になり、洞窟魚の世界では水流の乱れが壁になる。スターノーズ・モグラでは触覚が中心窩を持つほど強化され、タコでは触覚と化学感覚が統合され、ヘビでは熱が像になる。

ここで「世界が違う」とは、物理法則が違うという意味ではない。同じ物理世界に対して、入力帯域と行為可能性と意味化規則が違うために、「出来事として立ち上がる現実」が異なるという意味である。環世界は完全に分離してはいない。ネコと人間は同じ部屋を共有し、同じ床を踏む。しかし一致もしない。人間が「家具」として扱うものが、ネコには「隠れられる」「跳べる」「通れる」といった行為可能性の地図として立ち上がる。両者は同じ空間にいても、問いの形式自体が違う。

したがって「ネコは宇宙を見ている」という言い回しは、ネコが別宇宙を知覚しているという意味ではなく、「人間の環世界では削除された層が、ネコの環世界では残っている」という意味で捉えるのが妥当である。人間にとっての空白は、世界の空白ではなく、人間の編集の空白である。


10. 環世界を「更新」と結びつけて捉えると何が見えるか

ここまでの議論をさらに一般化するために、世界を固定的実体ではなく「更新され続ける構造」として捉える立場を導入する。この立場では、世界は物の集合ではなく、不可逆に進む差分の連鎖である。すると環世界は、単に「感じ方が違う」という話を超えて、「更新が生命を通して意味として結晶化する局所断面」として理解できる。

無生物にも変化はある。しかし無生物の変化は、それ自体としては「意味」を持たない。岩が風化する、川が流れる、温度が変わる。そこには差分はあるが、その差分が「危険」「資源」「機会」として区別されるわけではない。生命は、自分の自己維持に関係する更新を区別し、それを行為へ接続する。この区別が成立した瞬間、環世界が立ち上がる。言い換えると、環世界は生命の付随物ではなく、生命が自己維持を実現するための基本構造である。

この見方を人間へ適用すると、人間の特異性が見える。人間も生物として環世界を生きるが、それに加えて、言語や抽象モデルによって環世界を再構成し、「なぜそう見えるのか」「世界はどう更新されているのか」を問う。ここで科学的世界像は「環世界を超越した神の視点」ではなく、多数の環世界を計測器と数理で束ねたメタ環世界として理解できる。メタ環世界は有効だが、日常の生存に必要な環世界そのものを置き換えるわけではない。人間は二重化された環世界を持ち、「生きるための意味」と「説明するためのモデル」を往復しながら世界を扱っている。

ここまでをまとめると、環世界とは「更新され続ける世界」が生命によって意味化された局所現実である。ネコの環世界も、人間の環世界も、コウモリの環世界も、同じ更新の連鎖の中から異なるルールで抽出された結果として理解できる。環世界は「現実が複数ある」という主張を、神秘ではなく構造として支える概念になる。


11. まとめ

「ネコは宇宙と交信しているのか」という問いに、超常仮説を置かずに答えるなら次の通りである。ネコが宇宙と交信している証拠はない。しかしネコは、人間が知覚しにくい情報帯域や微細な差分を拾い、それを兆候として評価し、行動へ結びつける。その結果、人間の環世界からは原因が欠落し、行動だけが残って神秘に見える。また、ネコ同士は視覚的マイクロシグナル、嗅覚の履歴メッセージ、文脈依存の音声、行動の同期などを組み合わせて通信し、その多くは人間の言語中心の理解様式に一致しない。だから人間には「理解できない通信」が存在する。

さらに、ネコ以外の動物に目を向けると、環世界の多様性は一層はっきりする。視覚が中心ではない世界、触覚や匂い、電気、水流、熱が中心になる世界が実際に存在し、それぞれが同じ物理世界から別の現実を立ち上げている。つまり「生き物が違えば世界が違う」とは比喩ではなく、環世界としての構造的な事実である。ネコが宇宙的に見える瞬間とは、ネコが特別なのではなく、人間の環世界が限定されているという事実が、同一空間内で露呈する瞬間である。


参考文献

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