AI 創薬は、薬づくりの探索を変える

生成 AI が新しい薬の候補を作り、人間の研究者がそれを試す。この説明だけを見ると、創薬では人間が候補を考えていた工程を AI が代替し、その延長として薬そのものまで AI が作るようになったと理解しやすい。しかし、創薬は一つの設計問題ではない。疾患のどこへ介入するかを決め、介入先に作用する分子を探し、その分子を実際に合成し、標的への作用、体内での安定性、安全性を測り、最後に患者で治療効果を確認するまで、異なる種類の不確実性を順番に減らしていく工程である。

最初の段階では、そもそも何を薬の標的にするかが確定していない。疾患に関連する遺伝子やタンパク質が多数見つかっても、そのすべてが治療介入に適しているわけではない。疾患との関連が強くても、低分子化合物で制御しにくい標的がある。標的を阻害できても、正常な生理機能まで損なえば治療には使えない。創薬の出発点には、既知の正解を探し当てる問題ではなく、多数の候補から次に実験する対象を選ぶ問題がある。

標的が決まった後にも、別の探索問題が現れる。一つのタンパク質へ結合できる化学構造は一つではなく、理論上検討可能な分子の数は実際に合成して総当たりできる規模をはるかに超える。そのため、標的へ作用しそうで、合成可能で、体内で一定時間維持され、他の分子へ過度に作用せず、薬として扱える物性を持つ候補へ探索範囲を絞らなければならない。AI が大きく関与できるのは、このように候補数が実験可能な数を大幅に上回る場面である。

AI は論文、オミクスデータ、分子間ネットワーク、タンパク質構造などを処理し、標的候補や分子候補へ順位を付けることができる。生成 AI を用いれば、既存化合物の一覧から選ぶだけでなく、指定された条件を満たしそうな新しい分子構造を生成することもできる。候補を一つずつ人間が考える場合に比べ、計算機上で検討できる範囲は広がる。その結果、限られた実験設備、研究者、時間を、より有望と予測された候補へ集中させられる可能性が生まれる。

ここで変わるのは、候補が正しいかどうかではなく、どの候補を先に確かめるかという順序である。AI があるタンパク質を治療標的の第 1 候補に置いても、その順位自体が疾患機序を証明するわけではない。生成された分子の計算上の評価が高くても、その構造を合成できるとは限らず、合成できても期待した活性を示すとは限らない。予測が優れているほど無駄な実験を減らせる可能性はあるが、予測値が実測値へ置き換わるわけではない。

AI 創薬に関するレビューでも、この区別は評価上の中心に置かれている。実用上の価値は、モデル単体の予測精度だけでは決まらない。疾患の選択、治療標的の選択、候補分子の設計、前臨床試験、臨床試験という連続した意思決定の中で、より適切な候補を次工程へ送れるか、その結果として失敗する候補へ投入する実験資源を減らせるかまで確認する必要がある[1]

2026 年 8 月に Nature Reviews Drug Discovery が公表した Perspective も、AI 創薬では多数のモデルと開発事例が報告されている一方、患者へ届く薬を従来より安全に、短期間で、より高い成功率で生み出せることを示す臨床的証拠はまだ限定的だと整理している[2]。計算上の候補生成が改善したことと、創薬全体の成功率が改善したことの間には、前臨床試験と複数段階の臨床試験が存在するためである。

AI 創薬を理解するには、AI が何を生成できるかだけを見るのでは足りない。AI の出力によって、どの候補が次の実験へ進み、どの候補が捨てられ、その判断が最終的な臨床成績へどうつながったかを見る必要がある。候補を作る能力と、候補を薬として確定する能力を分けると、AI が創薬のどこを変えつつあり、どこには依然として実験と人間の判断が必要なのかを具体的に評価できる。


1. AI 創薬で変わるのは、答えではなく探索である

創薬の初期工程を、探索と検証に分けて考える。探索では、実験可能な数を大幅に超える候補の中から、次に調べる対象を絞る。検証では、絞り込んだ候補について、予測された性質が現実にも存在するかを測る。この二つは連続しているが、処理している情報は異なる。探索は既存データとモデルから候補間の優先順位を作る工程であり、検証は新しい実測データを得て、その順位付けの前提が正しかったかを確かめる工程である。

標的探索では、疾患との関連が疑われるタンパク質が多数存在する。遺伝子発現の変化が大きいこと、患者組織で特定の経路が活性化していること、既存研究で疾患との関連が報告されていることは、それぞれ標的候補を支持する情報になる。しかし、関連があることだけでは、そこへ薬で介入すれば患者の状態が改善するとは限らない。AI は異なる種類の情報をまとめて候補を順位付けできるが、順位が高いという結果は治療効果そのものではなく、限られた検証資源をどこへ配分するかを決める材料になる。

分子生成でも構造は同じである。標的となるタンパク質の結合部位が分かれば、そこへ適合する分子構造を計算機上で探索できる。生成 AI を使えば、既知の化合物を検索するだけでなく、結合様式、分子量、脂溶性、合成可能性などの条件を与えて新しい構造を作ることもできる。生成できる候補数が増えるほど探索範囲は広がるが、実際に合成して測定できる数は同じ割合では増えない。そのため、生成能力が高まるほど、どの候補を実験へ送るかという選別が次の制約になる。

この制約は、分子が標的へ結合するかだけを確認しても解消しない。ある化合物が試験管内で目的の酵素を強く阻害しても、体内で短時間に分解されれば必要な濃度を維持できない。代謝されにくくても、水に溶けにくければ投与方法や吸収に制約が生じる。目的の標的へ作用しても、別の酵素や受容体まで阻害すれば有害事象につながる可能性がある。活性、選択性、代謝安定性、溶解性、安全性は別々の条件であり、一つの予測値だけで薬としての成立を判断できない。

さらに、細胞試験で期待した作用が確認されても、個体では薬物の吸収、分布、代謝、排泄が加わる。動物で有効でも、人間では同じ投与量と血中濃度の関係にならない場合がある。人間へ投与できても、安全に投与できる量では治療効果に必要な濃度へ届かない可能性がある。このように、一つの検証を通過するたびに次の不確実性が現れるため、創薬では候補生成から臨床まで複数の評価段階が連結されている。

工程 探索または判断の対象 AI が担える役割 AI の出力だけでは確定しないこと 次の検証
標的探索 疾患のどの分子や経路へ介入するかを選ぶ。 オミクスデータ、文献、分子間ネットワークなどを統合し、候補を順位付けできる。 その標的へ介入すれば患者の病態が改善することは、順位だけでは確定しない。 細胞や動物などで標的と病態の関係を検証する。
分子生成 標的へ作用し、薬として望ましい性質を持つ構造を探す。 指定された結合様式や物性条件に基づき、多数の新規構造を生成できる。 合成可能性、実際の活性、選択性、代謝安定性、溶解性は計算結果だけでは確定しない。 化合物を合成し、各種アッセイで実測する。
前臨床 候補が生体内で期待する作用を示し、許容できる安全性を持つかを調べる。 候補選択、毒性予測、薬物動態予測などを補助できる。 個体内での有効性と安全性は、予測だけでは確定しない。 細胞試験、動物試験、薬物動態試験などを行う。
臨床 人間へ投与したときの安全性、有効性、適切な投与量を確認する。 患者選択、試験設計、データ解析などを補助できる。 患者に臨床的利益があるかは、モデルや前臨床成績だけでは確定しない。 段階的な臨床試験で実際の参加者からデータを得る。

この工程では、前段の結果が後段の入力になる。標的探索の順位が高ければ、その標的を検証する実験へ資源を投入する。実験で妥当性が確認されれば、その標的に作用する分子の生成へ進む。生成された分子のうち、計算上の評価が高いものを合成し、実測値が悪ければ捨てるか構造を修正する。前臨床で残った候補だけが臨床へ進む。AI が一つの工程を高速化すると、その成果は次工程で処理すべき候補として現れるため、創薬全体の速度は最も速い工程ではなく、連結された工程全体によって決まる。

この関係から、AI の導入によって起きる変化をもう一段具体化できる。候補を考える費用が高い状態では、探索そのものが制約になる。AI によって標的候補や分子候補を大量に生成できるようになると、探索の制約は緩む。その結果、今度は合成設備、実験時間、臨床試験へ投入できる患者数のような検証資源が相対的な制約になる。生成の能力が高まったことによって、選別と検証の必要性が低下するのではなく、どの候補へ有限の検証資源を使うかという判断の比重が上がる。

AI 創薬で起きている変化は、この制約の移動として捉えると分かりやすい。AI は正解を宣言する装置ではなく、実験する価値がある候補を探す範囲と順序を変える。候補の質が高まれば、失敗する実験を減らし、同じ研究資源からより多くの有望な候補を検証できる可能性がある。一方、その効果を確認するには、生成された候補数ではなく、実際にどれだけの候補が後続の実験を通過し、最終的に患者で安全性と有効性を示したかまで追う必要がある。

この区別を置くことで、AI 創薬の成果を「AI が薬を作った」という一文へ縮めずに評価できる。次に確認すべきなのは、実際の AI 創薬事例で、標的探索、分子生成、候補選択、合成、実験の各工程を誰が担当し、AI の出力がどのように現実の候補薬へ変換されたかである。


2. rentosertib では AI と人間が何をしたのか

前章で分けた「探索」と「検証」が、実際の創薬でどのように連結されているかを確認できる事例が、Insilico Medicine の特発性肺線維症向け候補薬 rentosertib である。開発段階では INS018_055、ISM001-055 という名称も使われてきた。中心となる一次研究は 2024 年 3 月にオンライン公開され、2025 年の Nature Biotechnology に掲載された[3]。この研究は、AI を用いた治療標的の探索、候補分子の生成、実験による候補選別、構造最適化、前臨床試験、Phase I までを一つの開発過程として報告している。

rentosertib の事例で確認すべきなのは、「AI が使われたか」という有無ではない。標的の候補を絞る工程、分子構造を生成する工程、生成した候補を捨てる工程、残った候補を改良する工程で、AI、人間、実験結果がそれぞれ何を担ったかである。この分担を追うと、「AI が薬を設計した」という短い説明では省略される判断過程が見えてくる。

2.1 PandaOmics は TNIK をどう選んだのか

特発性肺線維症は、肺胞周辺の組織に線維化が進み、肺が硬くなることで呼吸機能が低下していく疾患である。薬を作るには、最初に病態へ介入する場所を決めなければならない。疾患患者の組織で発現量が変化している遺伝子やタンパク質が見つかっても、その中のどれを抑制または活性化すれば病態を改善できるかは別の問題である。疾患との関連、因果的な関与、薬で制御できる可能性、安全性まで含めると、候補は段階的に絞る必要がある。

研究チームはこの標的探索に PandaOmics を用いた。PandaOmics は、患者由来のオミクスデータ、既存文献、分子間相互作用やシグナル伝達のネットワークなど、異なる種類の情報から疾患に関連する標的候補を順位付けする。rentosertib の研究では、その計算結果に加えて、キナーゼであること、低分子化合物で介入できる可能性、新規性などの条件を適用し、TRAF2- and NCK-interacting kinase、TNIK を有力候補として選択した[3]

この段階で AI が行ったのは、TNIK という未知のタンパク質を発見することではない。TNIK 自体は既知の分子であり、他の生物学的機能や疾患との関係も以前から研究されていた。AI が変えたのは、特発性肺線維症という特定の疾患について、多数の既知分子の中から TNIK を治療標的候補として高く順位付けし、次に検証する対象へ押し上げる工程である。

順位付けだけでは TNIK が適切な治療標的であることは確定しない。研究チームは患者由来組織の解析や線維化モデルを用い、TNIK の発現や活性と線維化の関係を調べ、TNIK を抑えることで線維化に関係する現象が変化するかを実験した[3]。計算による順位が高かったため次の実験が選ばれ、実験結果がその順位付けを支持したことで、初めて分子設計へ進む根拠が形成された。

この順序を省略して「AI が新しい創薬標的を発見した」とだけ表現すると、既知分子の存在、疾患ごとの優先順位付け、実験による標的妥当性の確認が一つの「発見」にまとめられてしまう。rentosertib の標的探索で新しかったのは TNIK の存在ではなく、特発性肺線維症に対する治療標的として TNIK を選び、その選択を実験へ接続したことである。

2.2 Chemistry42 は何を生成したのか

治療標的として TNIK を選んでも、それだけでは薬にならない。次に必要になるのは、TNIK の働きを十分に抑えながら、薬として必要な性質を持つ分子である。タンパク質へ強く結合するだけなら候補は作れても、合成できない構造、体内ですぐ分解される構造、他のタンパク質へ過度に作用する構造では開発を続けにくい。分子設計では、複数の条件を同時に満たす候補を広い化学空間から探す必要がある。

Insilico Medicine の Chemistry42 は、この探索を支援するために開発されたプラットフォームである。生成 AI によって新しい分子構造を作り、標的への結合に関係する条件だけでなく、物性、合成可能性、新規性など複数の評価条件を使って候補を最適化する[4]。ここで AI が行うのは、完成した薬を一度に出力することではなく、研究者が設定した目的関数や制約に応じて、実験対象になり得る構造を多数提示することである。

rentosertib の開発では、研究者が TNIK の構造から ATP 結合部位を設計対象として選び、必要な水素結合や疎水性相互作用など、分子が満たすべき条件を設定した[3]。AI はその条件を入力として候補構造を生成した。つまり、探索空間の中を機械が走査した一方で、どの部位を狙うか、どの相互作用を望ましいとみなすかという設計目標は人間側から与えられている。

生成された構造も、そのまま次工程へ進んだわけではない。候補は合成可能性、新規性、医薬化学上の性質などで選別され、その一部だけが実際に合成された[3]。合成された化合物については、TNIK をどの濃度で阻害できるか、他の標的への作用がどの程度あるか、細胞内でも期待した作用が得られるかを測定した。計算上の候補は、この時点で初めて実測値を持つ候補へ変わる。

この工程では、AI の生成能力が高いほど自動的に薬へ近づくわけではない。生成できる分子数が増えても、実際に合成し、測定できる候補数には物理的な上限がある。そのため Chemistry42 の価値は候補を大量に出すことだけではなく、有限の実験資源を投入する候補をどこまで有望な範囲へ絞れるかにある。分子生成も、前章で整理した探索と検証の分業の中に位置付ける必要がある。

2.3 合成と実験で何が落とされ、何が残ったのか

実際に合成して測定すると、計算段階では十分に見えなかった問題が現れる。初期候補には、代謝安定性、薬物代謝酵素との相互作用、溶解性など、薬として開発を進めるうえで改善が必要な性質が確認された。標的への阻害活性が高いことだけでは、体内で必要な濃度を維持できるとは限らず、薬物代謝酵素へ過度に作用すれば他の薬との相互作用や安全性の問題につながる。溶解性が低ければ、投与後に十分な量を体内へ届けること自体が難しくなる。

このため研究チームは、初期候補を採用するか廃棄するかだけでなく、実験で見つかった弱点を次の設計条件へ戻した。分子構造の一部を変更し、活性を維持しながら代謝安定性や物性を改善できるかを再評価する。新しい構造を合成して再び測定し、その結果から次の改変を決める。この反復によって、計算上の評価と実測値の差を少しずつ縮めていく。

2024 年の Journal of Medicinal Chemistry 論文は、この医薬化学上の最適化過程を詳細に報告している[5]。研究チームは TNIK への阻害活性だけでなく、選択性、薬物動態、代謝安定性、溶解性などを比較しながら候補を絞り、最終的に 化合物 4、すなわち INS018_055 を前臨床開発へ進める候補として選択した。候補の評価軸が一つではないため、一つの性能を最大化するのではなく、開発に必要な複数の条件を同時に満たす方向へ構造を調整している。

この過程では、AI、人間、実験の三者が異なる情報を提供している。AI は人間が一つずつ列挙できない数の構造を探索し、有望な候補を生成する。研究者は、何を改善すべきかという目的と制約を設定し、どの候補へ実験資源を投入するかを選ぶ。実験は、計算上の期待とは独立した実測値を返し、その結果によって候補を残すか、捨てるか、改変するかが決まる。

段階 AI の役割 人間の役割 実験から得られる情報 次の判断
標的探索 疾患関連データを統合し、TNIK を含む候補を順位付けする。 疾患、薬で狙える可能性、新規性などの条件から検証対象を選ぶ。 TNIK と線維化の関係、TNIK 抑制による病態関連現象の変化を測定する。 TNIK を分子設計の対象として進めるかを決める。
分子生成 指定された結合様式や物性条件に基づいて新規構造を生成する。 ATP 結合部位、必要な相互作用、選別条件を設定する。 生成候補を合成できるか、TNIK を実際に阻害するかを測定する。 残す候補と捨てる候補を分ける。
最適化 変更後の構造候補を探索し、複数条件に基づいて評価する。 実測値から改善対象を決め、次の構造変更を選択する。 活性、選択性、代謝安定性、溶解性、薬物動態などを再測定する。 前臨床開発へ進める候補を選ぶ。

この分担を見ると、AI と人間のどちらが薬を「作ったか」という二者択一では、実際の開発工程を正確に表せない。AI がなければ同じ探索を同じ速度と範囲で行えたとは限らず、AI は候補生成と順位付けに実質的な役割を持っている。一方、AI が生成した最初の候補だけで開発は完了せず、実験によって問題が発見され、人間が評価条件を更新し、再設計が繰り返されている。

rentosertib が示しているのは、AI が人間の研究者を一工程ずつ置き換えた構図ではなく、探索できる範囲を広げることで、人間の仕事が候補そのものを考える作業から、目的を設定し、実験結果を読み、次に検証する候補を選ぶ作業へ移っていることである。AI が生成した候補を現実の薬候補へ変えるには、計算結果を実測値へ接続し、その差を次の設計へ戻す反復が必要になる。

この事例を評価するときには、もう一つ区別が必要になる。Nature Biotechnology 論文は、標的探索から前臨床候補の指名までを約 18 か月で進めたと報告している[3]。これは開発工程として観測された時間である。しかし、約 18 か月で到達したという事実と、その期間が AI によってどれだけ短縮されたかという因果効果は同じ数字ではない。次に検討すべきなのは、AI を用いた事例の速さを、どこまで AI 自体の効果として評価できるかである。


3. 「18 か月で候補に到達した」と「AI が短縮した」は同じではない

rentosertib の開発では、標的探索から前臨床候補の指名までがおよそ 18 か月だったと Nature Biotechnology 論文に報告されている[3]。創薬には通常、標的選定、化合物探索、合成、活性評価、物性評価、構造最適化といった複数の工程が必要になるため、18 か月という期間は開発速度を論じるうえで意味のある実績値である。ただし、この数字が直接示しているのは、この開発プロジェクトが実際に約 18 か月で前臨床候補へ到達したという事実までである。

そこから「AI が創薬期間を短縮した」と評価するには、別の比較が必要になる。短縮とは、ある条件で必要だった時間が、AI を導入したことによってどれだけ減ったかという差を意味する。その差を測るには、AI 以外の条件をできるだけ揃えた比較対象が必要になる。疾患、標的の難易度、研究チームの経験、予算、実験設備、候補化合物の性質、利用できる既存知識が異なれば、開発期間も変わるからである。

rentosertib については、同じ研究チームが同じ時点から、同じ TNIK を対象に、同じ人数と設備を使い、一方では PandaOmics や Chemistry42 を利用し、もう一方では AI を利用せずに開発した並行対照は存在しない。観察できるのは AI を利用した一つの開発経路であり、「AI がなければ同じ候補へ何か月で到達したか」は観察されていない。そのため、18 か月という実績値から、AI による短縮幅を直接計算することはできない。

この違いは、速度に関する主張を三つに分けると明確になる。第一に、「前臨床候補まで約 18 か月だった」は観測事実である。第二に、「従来の創薬より速い」は比較対象を必要とする比較評価である。第三に、「AI が速くした」は、その差の原因を AI に帰属する因果評価である。後ろへ進むほど必要な証拠は増える。

主張 必要な根拠 rentosertib から確認できる範囲
前臨床候補まで約 18 か月だった 開発工程と期間の記録が必要になる。 Nature Biotechnology 論文から確認できる。
一般的な創薬より短期間だった 比較可能な従来型プロジェクトの期間分布が必要になる。 単一事例だけでは比較条件を揃えられない。
AI が期間を短縮した AI の有無以外の条件を揃えた比較か、それに準じる因果分析が必要になる。 この事例だけから短縮幅を確定することはできない。

もっとも、AI が速度へ寄与した可能性まで否定されるわけではない。前章で見たように、PandaOmics は多数の治療標的候補を順位付けし、Chemistry42 は研究者が設定した条件に基づいて多数の分子構造を生成している[3]。人間が同じ候補空間を一つずつ検討する場合に比べ、計算機が探索できる候補数は増える。この差は、実験する候補を絞るまでの探索工程を短縮する方向には作用する。

ただし、探索工程が速くなったとしても、創薬全体が同じ割合で速くなるとは限らない。生成された候補を合成する時間、酵素活性や選択性を測定する時間、動物で薬物動態や安全性を確認する時間は、候補生成速度だけでは短縮されない。AI が前段の探索を高速化すると、後段の合成能力や実験設備が新しい制約になる可能性もある。創薬期間は一つの工程だけで決まるのではなく、標的探索から臨床まで連結された工程の中で、時間を要する部分の組み合わせによって決まる。

そのため AI 創薬の速度を評価する場合は、全期間だけでなく、どの工程でどれだけの候補を検討し、何件を合成し、何件が次工程へ進んだかを見る必要がある。たとえば、標的候補の絞り込みが従来より短時間でも、生成された分子の多くが実験で脱落すれば、その効果は後段で失われる。反対に、候補数そのものを増やさなくても、後続試験を通過する割合が高まれば、同じ実験資源から前臨床候補へ到達する時間を短縮できる可能性がある。速度は探索量だけでなく、候補選別の精度と後続工程の通過率にも依存する。

単一の rentosertib 事例から離れ、AI を利用して発見された薬剤の臨床成績を集計しようとした研究もある。2024 年の Drug Discovery Today の分析では、AI を利用して発見された候補について、Phase I の成功率をおよそ 80 から 90 パーセントと推定し、歴史的な医薬品開発の平均より高い可能性を報告した[6]。一方、Phase II の成功率は約 40 パーセントで、著者ら自身が対象件数の少なさを制約として挙げている。

この集計も、AI の効果をそのまま測定した比較試験ではない。AI 創薬企業が選ぶ疾患領域や標的には偏りがあり得る。既知の生物学的根拠が豊富な標的を選ぶ企業と、新規性の高い標的へ挑戦する企業では、臨床成功率の前提条件が異なる。各社の資金、臨床開発能力、候補を臨床へ進める基準も同じではない。さらに、AI を利用した候補として公開される事例だけを集計すると、失敗した初期プロジェクトが観測されにくい可能性もある。集計値と AI そのものの因果効果の間には、こうした選択条件が残る。

2026 年の Nature Reviews Drug Discovery が、AI 創薬について臨床的な証拠はまだ限定的だと評価している背景にも、この測定上の難しさがある[2]。モデル性能、候補生成数、開発期間といった初期工程の指標が改善しても、それが承認率、安全性、治療効果、開発費の改善へどこまでつながるかは、十分な件数の候補が後期臨床試験まで進まなければ評価できない。創薬には年単位の時間が必要になるため、技術の導入が先行し、その最終的な臨床成績の測定が遅れて現れるという時間差もある。

評価対象 観測しやすい指標 評価上の制約 最終的に確認したいこと
探索速度 候補生成数、計算時間、標的選定までの期間を測定できる。 候補数が増えても、質が同じとは限らない。 有望な候補へより短時間で到達できるかを確認する。
候補の質 合成後の活性、選択性、物性、前臨床通過率を測定できる。 企業や標的ごとに採用基準が異なる。 後続工程で脱落する候補を減らせるかを確認する。
臨床成功率 Phase I、Phase II、Phase III の通過率を集計できる。 症例数が少なく、疾患や標的の選択差も影響する。 従来型の創薬より承認へ到達する割合が高いかを確認する。
開発全体 候補指名までの期間、臨床開発期間、開発費を追跡できる。 探索以外の工程が新しい制約になる可能性がある。 患者へ薬を届けるまでの時間と資源が実際に減るかを確認する。

rentosertib の約 18 か月という期間は、AI を利用した創薬が実際の開発工程でどの程度の速度を達成できたかを示す具体的な記録として価値がある。一方、その数字だけでは、AI が従来法に比べて何か月を削減したかまでは分からない。実績値と比較結果を分け、さらに比較結果と因果効果を分けることで、AI 創薬の成果を過小評価せず、同時に一つの成功事例へ技術全体の効果を過剰帰属することも避けられる。

速度だけで AI 創薬を評価できない理由は、次の工程へ進むとさらに明確になる。前臨床候補へ早く到達しても、その候補が人間で安全か、有効かは別に確かめなければならない。rentosertib が Phase I、Phase IIa を経て Phase III の検証段階へ進んだことは、探索速度とは異なる種類の証拠を与える。次に見るべきなのは、臨床試験へ進んだという事実が、薬の成功についてどこまでを意味するのかである。


4. 臨床試験へ進んだことは成功ではなく、検証が続いていることを意味する

前臨床候補へ早く到達しても、それだけでは薬としての価値は決まらない。前臨床までに確認できるのは、化合物が標的へ作用すること、細胞や動物で期待した反応を示すこと、薬物動態や安全性に重大な問題が見つかっていないことなどである。人間へ投与したときにも同じ性質が維持されるか、患者の病態を実際に改善できるかは、その後の臨床試験で初めて検証できる。

rentosertib の臨床開発も、この順序に従って進められている。Phase I では健康な参加者を対象に安全性、忍容性、薬物動態を確認し、Phase IIa では特発性肺線維症の患者へ投与して安全性を評価しながら肺機能などの変化を探索した。その結果を受けて、より多くの患者を長期間追跡する Phase III 試験が登録された。各段階で問われる内容が異なるため、「臨床試験へ進んだ」という一つの事実だけから、有効性が確立したと評価することはできない。

4.1 Phase I は何を確認したのか

rentosertib の Phase I 試験 NCT05154240 は、健康な参加者を対象とした無作為化二重盲検プラセボ対照試験である。ClinicalTrials.gov では 78 人が登録され、試験は完了している[7]。ここで中心となったのは、特発性肺線維症を治療できるかではなく、人間へ初めて投与する候補として許容できる安全性と薬物動態を持つかという問いだった。

薬物動態とは、投与した薬が体内へどの程度吸収され、どれほどの濃度に達し、どの程度の時間維持され、どのように排出されるかを扱う。前臨床試験で良好な活性が得られていても、人間の体内ですぐに分解されれば標的へ十分な量が届かない。反対に、体内へ過度に蓄積すれば有害事象の危険が高まる。Phase I では、投与量と血中濃度、安全性上の事象を対応させ、患者を対象とする次の試験へ進める範囲を確認する。

この段階で、人間への投与における安全性、忍容性、薬物動態に関するデータが得られ、患者を対象とする次の試験へ進む判断材料が得られた。一方、健康な参加者には特発性肺線維症そのものが存在しないため、病態を改善できるかは評価できない。安全に投与できることと、患者を治療できることは別の条件であり、Phase I で得られた結果は後者の証明ではなく、後者を検証する次の段階へ進む根拠になる。

4.2 Phase IIa で何が確認され、何が未確定なのか

次の Phase IIa 試験 NCT05938920 では、検証対象が健康な参加者から特発性肺線維症の患者へ移った[8]。Nature Medicine に掲載された試験結果では、71 人の患者がプラセボ群と複数の rentosertib 投与群に分けられ、12 週間治療された[9]。主要評価項目は、治療開始後に少なくとも 1 件の有害事象を経験した患者の割合であり、この試験の中心は依然として安全性と忍容性の確認に置かれていた。

一方、患者を対象にしたことで、肺機能がどの方向へ変化するかも観察できるようになった。特発性肺線維症では肺が硬くなり、十分な量の空気を吐き出せなくなるため、努力性肺活量は病状を評価する指標の一つになる。12 週時点では、1 日 1 回 60 mg 群で努力性肺活量の平均変化が +98.4 mL、95 パーセント信頼区間は 10.9 から 185.9 mL だった。プラセボ群では -20.3 mL、95 パーセント信頼区間は -116.1 から 75.6 mL だった[9]

この差は、rentosertib が肺機能へ有益な作用を持つ可能性を検討する根拠になる。ただし、数値の方向が良好であることと、有効性が確立したことは同じではない。試験全体が 71 人と小規模で、各投与群に分ければさらに人数は少なくなる。観察期間も 12 週間であり、長期間進行する特発性肺線維症について持続的な治療効果を確認するには短い。主要評価項目が安全性だったことも、試験設計上の位置付けを示している。

信頼区間にも不確実性が表れている。60 mg 群では平均値が増加方向を示しているが、効果の大きさには幅がある。プラセボ群についても平均値の周囲に広い範囲が存在する。小規模試験では、少数の患者の変化が群平均へ与える影響も大きくなる。Phase IIa の結果は「効いたか、効かなかったか」を最終判定する材料ではなく、より大規模な試験で確認する価値がある効果の候補を見つける段階として読む必要がある。

確認項目 Phase IIa から得られた情報 残る不確実性
安全性 患者へ 12 週間投与したときの有害事象を比較できた。 より多くの患者へ長期間投与した場合の安全性は追加確認が必要になる。
肺機能 60 mg 群で努力性肺活量が増加方向を示した。 小規模かつ短期間の試験であり、効果量の精度と持続性は確定していない。
用量 複数の投与量を比較し、次段階で検討する投与条件の材料が得られた。 有効性と安全性の最適な均衡を大規模集団で確認する必要がある。
治療効果 後続試験で検証する価値のある臨床的なシグナルが得られた。 確認的な Phase III 試験を経るまで有効性は確立しない。

ここまで進むと、AI 創薬の評価対象も変わる。標的探索の段階では、AI が TNIK をどのように順位付けしたかが焦点だった。分子生成では、どのような構造を探索できたかが焦点だった。Phase IIa では、AI の内部処理ではなく、AI を利用した一連の探索と選別の結果として残った一つの化合物が、患者でどのような測定値を示すかが評価対象になる。開発段階が進むほど、AI の計算上の性能から離れ、患者から得られる実測値の比重が高くなる。

4.3 Phase III は何をこれから確かめるのか

rentosertib の Phase III 試験 NCT07687459 は、52 週間の投与によって有効性と安全性を評価する無作為化二重盲検プラセボ対照試験として登録されている。予定登録数は 320 人で、2026 年 8 月 25 日時点では開始前の登録状態にあり、開始予定日は 2026 年 8 月 30 日である[10]。この時点では、Phase III の結果はまだ存在しない。確認できるのは、大規模な確認試験へ進む計画が具体化し、その試験が登録されたことまでである。

Phase III で人数と期間を増やす理由は、Phase IIa で残った不確実性を減らすためである。患者数が増えれば、個人差による変動の影響を抑えながら治療群と対照群を比較しやすくなる。観察期間を 52 週間へ延ばせば、12 週間では確認しにくい病気の進行、治療効果の持続性、長期投与時の有害事象を評価できる。つまり Phase III は、Phase IIa の良好なシグナルを繰り返すだけではなく、そのシグナルがより広い患者集団と長い時間軸でも維持されるかを検証する工程である。

ここには創薬の失敗条件も含まれている。Phase II まで有望だった薬剤が Phase III で十分な差を示せないことは珍しくない。小規模試験で観察された効果が偶然や患者構成の偏りによるものだった場合、対象人数を増やすと差が縮小することがある。長期間投与することで新しい安全性上の問題が現れる場合もある。前段階の成功は、後段階の成功確率を高める情報にはなっても、後段階の結果を保証しない。

このため、2026 年 8 月 25 日時点の rentosertib を「AI が開発した有効な肺線維症薬」と表現するのは早い。確認済みの事実は、AI を利用して標的を選び、生成 AI を利用して分子候補を設計し、前臨床と Phase I、Phase IIa を経て、Phase III 試験が登録される段階まで開発が進んだことである。薬としての最終的な臨床価値は、これから得られる Phase III の結果によってさらに検証される。

段階 主に減らす不確実性 通過しても残る問い
前臨床 標的への作用、生体内での薬理作用、基礎的な安全性を確認する。 人間へ安全に投与できるかは残る。
Phase I 人間での安全性、忍容性、薬物動態を確認する。 患者で治療効果を示すかは残る。
Phase IIa 患者での安全性を確認し、有効性のシグナルと用量を探索する。 効果の再現性、精度、長期持続性は残る。
Phase III より大規模で長期の患者集団における有効性と安全性を確認する。 試験完了までは結果自体が未確定である。

rentosertib の臨床開発を追うと、AI 創薬における「成功」という語が複数の意味を持つことが分かる。AI が標的候補を提示できたこと、分子を生成できたこと、前臨床候補を指名できたこと、Phase I を通過したこと、Phase IIa で臨床的なシグナルを得たことは、それぞれ異なる成功である。後ろの段階へ進むほど、実験対象は計算モデルから患者へ近づき、求められる証拠も厳しくなる。

この段階構造は、AI が創薬へ入ることで消えたのではなく、むしろ AI の寄与を正確に評価するために重要になっている。AI が探索空間を効率よく絞ったとしても、その価値は最終的には後続工程で候補がどれだけ生き残るかによって評価される。Phase III の登録まで到達したことは、rentosertib が計算上の候補から実際の臨床開発候補へ進んだことを示す。しかし、その候補が患者にとって有効な薬になるかという問いは、まだ開かれている。

この時点で、技術上の別の論点も現れる。標的探索と分子生成に AI が実質的に関与し、人間による実験と判断を経て一つの候補薬が成立した場合、その発明を誰に帰属させるのかという問題である。創薬工程における AI の寄与と、特許制度が定義する発明者は同じ尺度で決まらない。次章では、この技術的な役割分担が法制度上どのように扱われるかを確認する。


5. AI の技術的寄与と、特許法上の発明者は同じ概念ではない

rentosertib の開発工程では、AI が治療標的の順位付けと分子構造の生成に使われ、人間が設計条件を与え、候補を選び、合成と実験を行い、その結果を次の設計へ戻していた。ここまで役割を分解すると、「AI がどれだけ重要な仕事をしたか」と「誰を発明者として特許に記載するか」が別の問いであることが分かる。前者は創薬工程における技術的寄与を扱い、後者は特許法が権利の帰属主体をどのような基準で認定するかを扱う。

両者を同じ尺度で考えると、AI が分子構造の生成に大きく寄与した以上、AI も発明者として扱うべきだという議論へ進みやすい。しかし、特許法上の発明者は、研究工程への寄与率や作業量を測って決める概念ではない。誰がどの実験を担当したか、誰が最も多くの候補を生成したか、誰の処理がなければ開発期間が延びたかという事実だけでは決まらず、法が発明者性の要件として何を求めているかによって決まる。

5.1 米国法は誰を発明者とするのか

米国特許法 35 U.S.C. § 100(f) は inventor を、発明または発見の主題を発明または発見した individual と定義している[11]。この individual に AI が含まれるかが直接争われたのが、Stephen Thaler が AI システム DABUS を発明者として出願した事件である。

2022 年の Thaler v. Vidal で連邦巡回区控訴裁判所は、Patent Act における individual は自然人を意味すると解釈し、AI システムを発明者として記載することはできないと判断した[12]。裁判所が判断したのは、DABUS に創造能力があったか、生成物が新規だったか、AI が人間より多くの設計作業を行ったかではない。法令上の inventor という資格を、非人間のシステムが持ち得るかという問題である。

この区別によって、一見矛盾する二つの記述が同時に成立する。AI が分子候補の生成に技術的に不可欠だったとしても、現行米国法では AI を発明者として記載できない。反対に、人間が AI より少ない計算や候補生成しか行っていなくても、その人間が法的に必要な発明上の寄与をしていれば発明者になり得る。技術的な貢献量と発明者資格は、一方から他方を直接導ける関係ではない。

発明者性をさらに正確に考えるには、米国特許法で重視される発明の着想(conception)を区別する必要がある。これは、特許請求される発明について、後から通常の技術的作業によって実施へ移せる程度に具体化された着想を形成することを指す。発明を実際に作り、試験する発明の実施(reduction to practice)は創薬では不可欠な工程だが、実験を担当したという事実だけで当然に発明者になるわけではない。どの請求項について、誰が発明の着想へ寄与したかが発明者性の中心になる[13]

観点 問われること それだけでは発明者性を決めないもの
技術的寄与 創薬工程のどこで、どの程度の処理や判断に寄与したかを問う。 処理量や計算量が大きいことだけでは、法的な発明者資格は決まらない。
発明の着想 特許請求される発明の具体的な着想へ誰が寄与したかを問う。 周辺的な助言や既知の手順を実行しただけでは、通常は十分ではない。
実施と検証 化合物の合成、測定、動物試験などによって発明を現実に実施する。 実験を担当したという事実だけから、当然に発明者になるわけではない。
法的資格 Patent Act 上の inventor として記載できる主体かを問う。 AI が人間なら発明的と評価され得る処理を行ったとしても、現行法では AI 自体を発明者として記載できない。

5.2 AI 支援発明を USPTO は現在どう扱うのか

AI 支援発明について、米国特許商標庁は 2024 年に専用の発明者性ガイダンスを公表した。この文書では、AI システムが、人間が行えば発明者性へ関係し得る行為を実行する場合があることを認めたうえで、AI 自体は発明者にはなれず、人間の寄与を個別に評価するという枠組みを示していた[14]

この 2024 年ガイダンスは 2025 年 11 月に全面撤回され、USPTO は AI 支援発明だけに独自の発明者基準を設けない方針へ整理し直した。現在は、AI を使ったかどうかにかかわらず従来の発明者性の原則を適用し、生成 AI を含む AI システムを、人間の発明者が利用し得る道具として扱う[13]

方針の変化は、AI の技術的能力が 2025 年に低下したことを意味しない。変わったのは、AI 支援発明を説明するために特別な判定枠組みを設けるかどうかという行政上の整理である。2024 年の文書が存在したという歴史的事実と、2026 年時点でどのガイダンスが有効かという現在の制度状態は分けて扱う必要がある。

この時点差は、AI と発明者を論じる記事を読む際にも影響する。2024 年ガイダンスから正確に引用された文章であっても、それだけを現在の USPTO 方針として提示すれば制度の現状を誤る。反対に、後に撤回されたという理由だけで、当時その説明が公式に存在したことまで誤りとみなすこともできない。制度を扱う情報では、文章の内容だけでなく、その文書がいつ有効だったかという時間軸も根拠の一部になる。

5.3 rentosertib の特許では誰が記載されているのか

rentosertib の事例では、抽象的な AI 発明者論だけでなく、実際の特許資料を確認できる。Nature Biotechnology 論文は INS018_055 に関連する特許として WO2022179528A1 を挙げており、その特許ファミリーの米国特許 US11530197B2 は、TNIK や MAP4K4 を阻害する化合物を対象としている[15]

US11530197B2 に記載された発明者は、Aleksandrs Zavoronkovs、Aleksandr Aliper、Vladimir Aladinskiy、Andrey Kukharenko の 4 人である[15]。AI システムである PandaOmics や Chemistry42 は発明者欄には記載されていない。これは、前章までに確認した AI の技術的寄与が存在しなかったことを意味するのではなく、特許文書が技術工程の貢献者一覧ではなく、法的な発明者を記録する文書だからである。

人間の研究者についても、創薬プロジェクトへ参加した全員が発明者になるわけではない。たとえば、既に決められた化合物を指示どおり合成した人、決められた手順で動物試験を実施した人、測定装置を操作した人は、研究上欠かせない仕事をしていても、その作業だけで特許請求された発明の着想へ寄与したとは限らない。逆に、分子の具体的な構造、置換基、用途など、請求項の着想を形成する判断へ寄与した人は、実験作業の量が少なくても発明者性を持ち得る。

このため、AI と人間の役割を「AI が設計し、人間が合成したから人間を発明者にした」と整理すると、法的な因果関係を単純化しすぎる。合成や動物試験は発明を確認し、開発を進めるために必要でも、その作業を担当したこと自体が発明者性の根拠になるわけではない。誰を発明者として記載するかは、プロジェクト内の職務分担ではなく、特許で保護される各発明の着想へ誰が寄与したかによって判断される。

rentosertib 開発で確認できる行為 技術上の意味 発明者性との関係
AI が TNIK を標的候補として順位付けする 多数の候補から検証対象を絞る探索へ寄与する。 AI の技術的寄与が大きくても、現行米国法では AI 自体を発明者として記載できない。
AI が新しい分子構造を生成する 人間が逐一列挙しない広い化学空間を探索できる。 AI による生成という事実だけから、人間側の発明者を自動的に決定することはできない。
研究者が結合部位や設計条件を定める AI が探索する目的と制約を具体化する。 その寄与が特許請求された発明の着想へどこまで関係するかを個別に評価する必要がある。
研究者が化合物を合成し実験する 計算上の候補を現実の物質として検証する。 実施作業だけで当然に発明者になるわけではない。

rentosertib の事例から、AI 発明者問題を「AI と人間のどちらが本当の発明者か」という一つの問いへまとめることはできない。技術的には、AI が標的探索や分子生成に実質的な役割を持っている。法的には、現行米国法が発明者を自然人に限定し、その人間について特許請求された発明の着想への寄与を問う。この二つの分類軸が異なるため、AI の役割が拡大するほど両者の距離が目立つようになる。

この距離そのものが、MIT Technology Review の記事が取り上げた論点だった。AI 創薬企業が「AI が標的を発見した」「AI が薬を設計した」と説明する一方、特許には人間の発明者が記載される。この対比には実在する制度上の背景がある。しかし、誰が何人記載されているか、なぜその人物が発明者になるのかという個々の説明まで正しいとは限らない。次章では、記事中の記述を原著論文、特許、USPTO の資料へ戻し、中心論点と個別の事実関係を分けて確認する。


6. MIT Technology Review の説明を一次資料へ戻すと何が変わるか

本稿の発端となったのは、2026 年 8 月 21 日に MIT Technology Review へ掲載された Antonio Regalado の「When AI designs a drug, who gets the credit?」である[16]。記事は Insilico Medicine の AI 創薬を例に、AI が治療標的の探索や分子設計へ深く関与する一方、米国の特許制度では AI を発明者として記載できないという問題を扱っている。前章で確認した Thaler v. Vidal と現在の USPTO 方針に照らせば、この中心的な問題設定には根拠がある。

記事が有用なのは、創薬技術、企業の開発実務、特許制度という通常は別々に読まれる論点を一つにつないでいる点にある。rentosertib の開発では PandaOmics と Chemistry42 が実際に使われている。現行米国法では AI 自体を発明者にはできない。その二つを並べれば、技術工程で AI の役割が拡大したとき、法制度上の発明者をどのように考えるかという問いが生じる。記事はこの問いを短い文章で読者へ提示している。

ただし、記事の中心論点が妥当であることと、その論点を説明する個々の事実がすべて同じ精度であることは別である。前章までに確認した一次資料へ記事中の記述を戻すと、少なくとも四つの異なる状態が現れる。一次資料と数が一致しない記述、事実を一つの動詞へ圧縮した記述、企業側の説明としては理解できても法的説明としては不足する記述、過去の制度状態として正しく引用されている記述である。

これらをすべて「誤り」と一括すると、逆に記事のどこがどの程度不正確なのかが分からなくなる。数量の不一致は対応する記録を確認すれば判定できる。工程の圧縮は、原著論文に記載された実際の作業を展開して比較する必要がある。法律上の説明は、企業関係者の発言ではなく法令、判例、行政ガイダンスへ戻らなければ評価できない。同じ一つの記事でも、命題の種類によって確認すべき一次資料が異なる。

6.1 発明者の人数は一次資料から再現できない

最も単純に照合できるのが、特許に記載された発明者の人数である。MIT Technology Review の記事は、Insilico Medicine の肺線維症薬に関する特許について、同社 CEO を含む 5 人の人間が発明者として記載されていると説明している[16]。人数は解釈ではなく、対象となる特許文書を特定できれば直接確認できる事実である。

Nature Biotechnology 論文は、INS018_055 に関係する特許として WO2022179528A1 を明示している。この特許ファミリーの米国特許 US11530197B2 を確認すると、発明者として記載されているのは Aleksandrs Zavoronkovs、Aleksandr Aliper、Vladimir Aladinskiy、Andrey Kukharenko の 4 人である[15]。少なくとも、原著論文から直接たどれる特許資料では、記事にある 5 人という数字を再現できない。

この不一致を評価する際には、確認できた範囲も明示する必要がある。MIT Technology Review の記事本文には、5 人という記述がどの特許番号を指しているのかが示されていない。Insilico Medicine が関連する別の出願を行い、そこでは異なる発明者構成になっている可能性までは、この記述だけから排除できない。そのため、「存在するすべての関連特許で発明者は 4 人であり、5 人という記述は絶対にあり得ない」とまでは言えない。

一方、記事で扱われている rentosertib について、原著論文が直接示す特許へ戻ると 4 人であるという事実は確認できる。記事側が別の特許を念頭に置いているのであれば、その特許を特定しなければ読者は記述を検証できない。現状では、記事の「5 人」という具体的な数量は、提示された情報と主要な一次資料の間で対応が取れていない。

この種の不一致では、媒体全体の信頼性を議論する前に、対象となる一つの命題を切り出す方がよい。「MIT Technology Review は正しいか」という問いでは範囲が広すぎる。「rentosertib に対応する特許の発明者は 5 人か」という問いに変えれば、必要な資料は特許公報に限定できる。検証単位を記事から命題へ下げることで、誤りの所在も限定できる。

6.2 「AI が薬を設計した」は何を省略しているのか

発明者数とは異なり、「AI が薬を設計した」という表現は真偽を一語で判定しにくい。Chemistry42 が TNIK に対する新しい分子構造の生成に使われたことは Nature Biotechnology 論文で確認できる[3]。その意味では、AI が分子設計に関与したという記事の説明には事実上の根拠がある。

一方、原著論文まで戻ると、「設計」という一語の内部に複数の工程が存在する。研究者が TNIK の ATP 結合部位を対象として選び、どの水素結合や疎水性相互作用を必要とするかを指定する。Chemistry42 がその条件を使って候補構造を生成する。生成された候補から合成可能性、新規性、医薬化学上の性質を考慮して一部を選ぶ。実際に合成し、TNIK 阻害活性や細胞での作用を測る。代謝安定性や溶解性に問題があれば構造を変更し、再び測定する[3]

この連鎖を一つの「AI が設計した」へ縮めると、AI が担った処理と、人間が設定した条件、実験によって得られた情報の境界が消える。特に、AI が出力した最初の分子がそのまま INS018_055 になったように読めば、実際の開発過程とは異なる。生成された候補は後続の実験で評価され、問題が見つかり、その結果を受けた構造最適化を経て開発候補へ到達している。

この場合、記事の表現を発明者数と同じ種類の事実誤認として扱うのは適切ではない。「AI が分子を生成した」という中心事実は確認できるからである。ずれが生じるのは、複数主体が関わる一連の工程を、一つの主体と一つの動詞で表したときである。圧縮された文章は短時間で概要を伝えられるが、その文章から発明者性のような細かな帰属問題まで論じると、省略された工程が結論へ影響する。

圧縮した表現 一次資料で確認できる工程 省略によって生じる差
AI が標的を発見した 既知の TNIK を多数の候補から特発性肺線維症の治療標的として順位付けし、その後に実験で妥当性を検証した。 TNIK 自体を AI が未知の分子として発見したように読める。
AI が薬を設計した 人間が設計対象と条件を設定し、AI が候補構造を生成し、人間が選別、合成、測定、構造最適化を行った。 設計条件の設定と実験結果を受けた再設計が見えなくなる。
AI が薬を作った AI が関与した探索工程の後に、前臨床、Phase I、Phase IIa、Phase III という独立した検証工程が続く。 候補生成と臨床的に有効な薬としての成立が同一視される。

二次記事が研究工程を短縮して説明すること自体は避けられない。すべての医薬化学上の判断や試験結果を一般向けの記事へ再現すれば、記事は原著論文と同じ長さになる。精度上の分岐は、どこまで省略したかより、その省略された部分が後続の主張に影響するかにある。AI と人間のどちらが何を発明したかを論じる記事では、人間と AI の作業境界そのものが論点になるため、「AI が設計した」という圧縮の影響が大きくなる。

6.3 実験を担当したことと発明者になることは直結しない

MIT Technology Review の記事では、Insilico Medicine の CEO の説明として、人間の化学者が薬剤を合成し、変異体を作り、動物で試すため、その人物が特許に記載されるという趣旨の説明が紹介されている[16]。AI だけで創薬工程を完結させず、人間を研究開発工程へ関与させているという企業側の実務を説明する文脈では理解できる。

しかし、この説明を米国特許法上の発明者性の理由として読むと、前章で確認した基準との間にずれが生じる。米国の発明者性で中心になるのは、誰が実験作業を担当したかではなく、特許請求される発明の着想へ誰が寄与したかである[13]。既に具体化された化合物を決められた手順で合成しただけであれば、その作業が研究上不可欠でも、合成したという事実だけで発明者性が生じるわけではない。

動物試験についても同じである。候補化合物が生体内で期待した作用を示すかを確認することは、薬として開発できるかを判断するために欠かせない。しかし、既に決められた試験計画を実施し、その結果を記録したことと、特許請求された化合物や用途の着想を形成したことは別に評価される。実験結果を受けて新しい構造や用途を着想したのであれば発明者性に関係し得るが、実験担当という職務名だけからは判定できない。

ここでは、企業が人間を開発工程へ残している理由と、特許法がその人間を発明者として認定する理由を分ける必要がある。前者は研究開発の運用設計であり、後者は請求項ごとの法的評価である。企業側の説明をそのまま法的因果関係へ変換すると、「AI が設計しても人間が実験すれば、その人間を発明者にできる」という理解につながるが、現在の USPTO 方針はそのような単純な代替関係を示していない[13]

この差は AI 創薬に特有の細かな法律論ではない。AI による生成処理が増えるほど、「実際に作業した主体」「技術的に大きく寄与した主体」「権利制度が発明者と認定する主体」という三つが一致しない場面が増える。記事がこの境界を扱うのであれば、企業内の作業分担を説明する言葉と、法的資格を説明する言葉を分けなければならない。

6.4 2024 年の USPTO ガイダンスは誤引用ではない

一次資料との違いを探すときには、現在と異なる説明が出てきたという理由だけで、過去の記述を誤りに分類しないことも必要になる。MIT Technology Review の記事は、2024 年の USPTO ガイダンスにあった、AI システムが、人間が行えば発明者性に関係し得る行為を実行する場合があるという趣旨の記述を紹介している[16]

対応する説明は 2024 年の旧ガイダンスに実際に存在する[14]。このため、その文言を 2024 年時点の USPTO の説明として引用すること自体に事実上の問題はない。一方、そのガイダンスは 2025 年 11 月に全面撤回され、現在は AI 支援発明だけに特別な発明者基準を設けず、AI を人間が利用する道具として従来の発明者性の原則を適用する方針になっている[13]

MIT Technology Review の記事も、この方針転換を後段で説明している[16]。そのため、2024 年ガイダンスを引用していること自体を記事の誤りとして数えると、記事が実際に記述している時間軸を失う。正確に評価するには、「2024 年に USPTO が何を述べたか」と「2026 年現在の USPTO が何を有効な方針としているか」を別々に確認する必要がある。

制度情報では、この時間軸が研究結果以上に重要になる場合がある。論文は後に新しい研究で評価が変わっても、公開当時にその実験結果が報告された事実は残る。行政ガイダンスは、後から撤回されれば現在の判断基準としては使えなくなる。文章そのものが真正であることと、現在も規範として有効であることが別の条件になっている。

記事中の記述 確認すべき一次資料 照合結果 評価
特許には 5 人の人間発明者が記載されている INS018_055 に対応する特許公報を確認する。 原著論文から直接たどれる主要特許資料では 4 人を確認でき、5 人という記述を再現できない。 対象特許が記事で特定されておらず、具体的な数量と一次資料の対応が取れていない。
AI が薬を設計した 標的探索と分子設計を報告した原著論文を確認する。 AI による分子生成は確認できるが、人間による条件設定、選別、合成、測定、最適化も含まれる。 中心事実には根拠があるが、発明者論では無視できない工程を圧縮している。
人間の化学者が実験するため特許に名前が載る Patent Act、判例、USPTO の発明者性ガイダンスを確認する。 実験を担当したという事実だけでは発明者性は決まらず、発明の着想への寄与が必要になる。 企業の研究運用を説明する発言としては理解できるが、法的な発明者性の説明としては条件が不足している。
2024 年の USPTO は AI が発明者性に関係し得る行為を行う場合があると説明した 2024 年ガイダンスと現在のガイダンスを時系列で確認する。 旧ガイダンスに対応する記述が実在し、2025 年に全面撤回された。 過去の方針を示す記述として確認でき、現在の方針とは区別する必要がある。

この照合で明らかになるのは、MIT Technology Review の記事が全体として誤っているということではない。AI の技術的寄与と、人間しか発明者になれない現行制度とのずれを指摘する中心論点には根拠がある。その一方で、発明者数という単純な数量では一次資料との対応が取れず、AI の設計という表現では複数工程が圧縮され、発明者性の説明では企業内の作業分担と法的要件の境界が曖昧になっている。

この違いは、二次情報の精度を一つの点数で評価しにくい理由でもある。一つの記事の中に、一次資料でそのまま確認できる記述、背景を展開すれば妥当な要約、条件を補わなければ誤解を生む説明、一次資料から再現できない具体的事実が同居する。媒体名だけから各命題の確度を決めることはできない。

一方、すべての記事について全文を原著論文、特許、法令まで遡って検査する運用も現実的ではない。今回のように、記事からさらに「AI は発明者になれるのか」「AI 創薬はどこまで自律化しているのか」という結論を導く場合には、その結論を左右する部分だけを一次資料へ戻せばよい。発明者数なら特許、AI の役割なら原著論文、法的資格なら判例と USPTO 文書というように、主張の種類から確認先を決められる。

MIT Technology Review の記事は、rentosertib、AI 創薬、DABUS、USPTO という複数の論点を一つの入口へ集約した。その入口としての価値と、個別事実を確定する資料としての精度は別に評価できる。次章では、この区別を MIT Technology Review だけの問題として終わらせず、技術報道や二次情報をどの段階で利用し、どの地点から一次資料へ戻るべきかという情報収集の設計へ広げる。


7. 二次情報は捨てるのではなく、情報探索の入口として使う

MIT Technology Review は、自らの役割を、急速に増える技術情報を理解するための明瞭で権威あるフィルターを提供し、正確性と独立性を重視したジャーナリズムを行うことだと説明している[17]。この役割は、査読論文、特許公報、判決、行政文書とは異なる。原著論文が一つの研究で実際に行った方法と結果を記録し、特許が発明者や請求範囲を記録し、行政文書が制度上の方針を示すのに対して、技術報道は複数の情報源を横断し、何が起きているのか、なぜ注目する価値があるのかを短時間で理解できる形へ再構成する。

この再構成には固有の価値がある。AI 創薬だけを追っていれば、TNIK の選定、Chemistry42、Phase IIa の結果まではたどれても、そこから DABUS 訴訟や USPTO の発明者性ガイダンスへ直接調査を広げる理由は見えにくい。反対に、特許法だけを調べていても、AI が実際の創薬工程でどこまで標的探索や分子生成へ入り込んでいるかは見えにくい。MIT Technology Review の記事は、Insilico Medicine、rentosertib、AI による分子生成、DABUS、USPTO という異なる対象を一つの問いへ接続した。そのため、調査の開始点としては効率が高い。

前章で見つかった不正確さは、この役割を失わせるものではない。むしろ、二次情報をどこまで使い、どの時点で一次資料へ移るかという境界を具体化している。記事にある「発明者は 5 人」という記述は、特許公報を確認すれば検証できる。「AI が薬を設計した」という記述は、原著論文へ戻って AI、人間、実験の役割を分解すれば射程を確定できる。「実験を担当した人間が発明者になる」という説明は、USPTO 文書や判例へ戻らなければ法的意味を評価できない。二次記事の各文を同じ資料で検証するのではなく、命題の種類によって確認先を変える必要がある。

この関係から、情報源を上下関係だけで並べる方法には限界がある。「一次情報だから常に正しい」「二次情報だから信用できない」という分類では、情報源が何を直接記録しているのかを見落とす。原著論文はその研究で測定された結果については一次資料だが、AI 創薬産業全体の成功率については一つの事例にすぎない。ClinicalTrials.gov は試験計画や登録状態を確認する資料として有効だが、まだ実施されていない Phase III の結果を教えることはできない。企業のプレスリリースも、自社が何を発表したかについては一次情報だが、その薬の有効性を独立して証明する資料ではない。

情報源を評価するときは、媒体の名称だけでなく、「何についての一次情報か」という対応関係を見る必要がある。今回であれば、rentosertib の標的探索と分子設計を確認するには Nature Biotechnology の原著論文が近い。Phase IIa の測定結果には Nature Medicine の試験報告が近い。Phase III の募集状態には ClinicalTrials.gov が近い。US11530197B2 の発明者数には特許公報そのものが近い。現行の USPTO 方針には USPTO の 2025 年文書が近い。一つの資料を記事全体の根拠として使うのではなく、命題ごとに最も直接的な資料を割り当てる。

確認する命題 適した情報源 直接確認できること そこから先に残る判断
AI が創薬工程で何をしたか 原著論文 使用したデータ、モデル、条件、実験、測定結果を確認できる。 AI が従来法より優れているかという一般化には比較資料が別に必要になる。
臨床試験がどの段階にあるか 臨床試験登録 試験設計、予定症例数、評価項目、募集状態を確認できる。 試験が成功するか、承認されるかは登録情報からは確定できない。
特許に誰が発明者として記載されているか 特許公報 発明者名、出願情報、請求項を確認できる。 個々の発明者がどの工程へどう寄与したかは公報だけでは分からない場合がある。
AI を発明者として扱えるか 法令、判例、USPTO 文書 現行制度と公式な解釈を確認できる。 個別案件で誰が発明者になるかは具体的な寄与関係の評価が必要になる。
なぜこの技術が社会的な論点になるのか 技術報道 研究、企業、制度、研究者の見解を横断して論点を把握できる。 記事内の個別事実は、それぞれ対応する一次資料で確認する必要がある。

この使い分けは、AI を利用するときの判断構造とも共通する。既稿「AI に任せる前に、人間が残すべき判断」では、AI が短時間で案や文章を生成できることと、何を問題として設定し、どの基準で採用するかという判断を分けて整理した[18]。二次情報を読む場合も同じく、記事から理解可能な説明を得ることと、その説明を自分の結論の根拠として採用することは別の処理になる。

採用判断を分けても、すべての命題を一次資料まで検証することは現実的ではない。技術報道を 1 本読むたびに、引用されたすべての論文、特許、法令、企業資料を全文確認すれば、二次情報を使って探索時間を短縮する利点がなくなる。検証できる量には、読む時間、専門知識、原典へのアクセス、制度文書を解釈する能力という上限がある。そのため情報収集では、誤りが存在する可能性をゼロにすることより、どの誤りが結論へ影響するかを先に選別する方が実用的である。

既稿「この物量の文章を、一体誰が検証できるのか」で扱ったのも、この生成量と検証量の非対称性だった[19]。文章を生成し、転載し、要約し、共有する費用は下がっている。一方、原著論文を読み、統計条件を確認し、特許公報を照合し、制度文書の有効時点を確認する作業は同じ速度では自動化されない。情報量が増えるほど、全文検証よりも検証対象の選定が先に制約になる。

今回の AI 創薬記事であれば、検証対象の優先順位は比較的明確だった。「5 人」という人数は記事の発明者論を具体化する事実なので確認する価値が高い。「AI が設計した」という表現は記事の中心命題そのものに関わるため、原著論文まで戻る必要がある。USPTO の方針は法的結論を左右するため、現在有効な公式文書を確認しなければならない。一方、記事中の周辺的な人物紹介や一般的な背景説明まで同じ深さで調べなくても、本稿の結論は変わらない。

検証優先度 該当する主張 優先する理由
結論を左右する数値、主体、因果関係、法律上の地位、臨床成績 誤っていると記事全体の判断や一般化が変わる。
研究工程の要約、企業の説明、歴史的背景 中心命題を直接崩さなくても、解釈の範囲や意味を変える可能性がある。
周辺的な人物紹介、記事の展開に使われる補助的な事実 本稿の結論へ影響しない限り、同じ深さの確認を行う必要性は低い。

この考え方は、既稿で紹介した web-digest の設計ともつながる。web-digest は長い Web ページを要約するが、要約結果を原文そのものへ置き換えることを目的としていない。長文の構造を把握し、どの部分を原文で詳しく読む必要があるかを判断するための処理層として使う[20]。二次記事も同じ位置に置ける。最終的な根拠を代替するのではなく、読むべき一次資料と検証すべき命題を絞るために使う。

この運用では、MIT Technology Review に発明者数の不一致があったことから、以後の記事を信用しないという結論にはならない。反対に、MIT の名称や長年の媒体実績を理由として、記事中の数値や法的説明を確認なしで採用することにもならない。媒体の評判は、限られた時間の中で最初に何を読むかを決めるための選択基準になる。そこから得た具体的な命題を採用する段階では、その命題に対応する根拠へ評価単位を切り替える。

この二段階の運用によって、二次情報の利点と限界を同時に扱える。探索段階では、専門分野を横断して重要な研究や制度問題を見つける能力を利用する。判断段階では、結論を左右する部分だけを原著論文、臨床試験登録、特許、法令へ戻す。二次情報を排除すると探索範囲が狭まり、二次情報だけで確定すると圧縮や誤記を引き継ぐ。その間に、発見と確定を別工程として配置する。


8. 生成が速くなるほど、確定する仕事は残る

rentosertib の開発と MIT Technology Review の検証は、対象も目的も異なる。しかし、両者には同じ順序がある。最初に多数の候補や説明が提示され、その中から次に調べる対象を選び、現実の測定結果や一次資料へ接続して確定していく。AI 創薬では、標的候補や分子候補を生成する工程と、合成、前臨床、臨床試験によって有効性と安全性を確認する工程が分かれている。情報収集では、二次記事や要約から論点を見つける工程と、原著論文、特許、法令へ戻って事実を確定する工程が分かれている。

この二つを同じ構造として扱える理由は、どちらも候補を作る費用と候補を確かめる費用が一致していないからである。分子構造は計算機上で大量に生成できても、実際に合成し、活性や選択性を測り、動物や患者で確認できる件数には上限がある。文章や要約も大量に生成できるが、引用元を読み、数値を照合し、制度文書の有効時点を確認できる量には時間と専門知識の制約がある。生成能力が拡大しても、検証能力が同じ割合で拡大するとは限らない。

rentosertib では、この制約の移動が具体的に表れている。PandaOmics によって治療標的候補を順位付けし、Chemistry42 によって多数の分子構造を探索できても、そのすべてを実験することはできない。実際には候補を絞り、合成し、TNIK 阻害活性、選択性、代謝安定性、溶解性などを測定し、問題があれば構造を変更した。前臨床候補へ到達した後も、人間での安全性を Phase I で確認し、患者での臨床的なシグナルを Phase IIa で確認し、さらに Phase III で大規模かつ長期の検証を行う必要がある。

この連鎖では、前段の高速化によって後段の仕事が消えるわけではない。標的候補を大幅に速く順位付けできても、候補化合物を同じ割合で速く合成できるとは限らない。分子を大幅に多く生成できても、臨床試験へ参加できる患者数や観察期間を同じ割合で増やすことはできない。前段の探索能力が高まると、合成能力、実験設備、試験参加者、観察時間といった検証資源が相対的な制約になり得る。

2026 年の Nature Reviews Drug Discovery が、AI 創薬の価値をモデル単体の性能や初期工程の代理指標だけで評価せず、実際の意思決定と臨床成果へどこまで結び付くかで見る必要があると指摘しているのも、この制約構造と対応する[2]。候補生成数や予測精度が上がっても、後続工程で多数の候補が脱落すれば、創薬全体の成功率は同じ割合では改善しない。AI の価値は、候補を増やした数ではなく、限られた実験資源をより適切な候補へ配分できたかという結果まで追わなければ測れない。

対象 生成または探索で増えるもの 後段で不足するもの 最終的に確定する方法
AI 創薬 治療標的候補、分子候補、予測値を短時間で多数得られる。 合成設備、実験時間、前臨床資源、患者数、臨床試験期間が制約になる。 実測値と段階的な臨床試験によって有効性と安全性を確認する。
技術情報の収集 記事、要約、検索結果から多数の論点へ短時間で到達できる。 原典を読む時間、専門知識、制度文書を解釈する能力が制約になる。 主張ごとに原著論文、特許、法令、公式記録へ戻って確認する。

情報収集でも同じ制約が現れる。二次記事や生成 AI を使えば、関連する研究、企業、制度、論争へ短時間で到達できる。今回も、一つの MIT Technology Review の記事から rentosertib、Nature Biotechnology 論文、特許、DABUS、USPTO へ調査対象を広げることができた。一方、その記事中のすべての文を一次資料まで遡って確認すれば、探索を効率化した利点の多くを失う。

そのため、検証資源の配分が必要になる。発明者数のように記事の中心論点を具体化する数量は特許公報へ戻る。AI が何を設計したかという主体の帰属は原著論文へ戻る。現在の法制度を決める記述は最新の USPTO 文書へ戻る。一方、本稿の結論へ影響しない周辺的な人物紹介まで同じ深さで調査する必要はない。既稿「この物量の文章を、一体誰が検証できるのか」で扱った生成量と検証量の非対称性は、この選別が必要になる理由でもある[19]

既稿で紹介した web-digest も、この制約を前提としている。長文を要約する目的は、原文を読まなくてもよい状態を作ることではなく、文書全体の構造を把握し、どの部分を原文まで戻って読むべきかを絞ることにある[20]。探索層を追加することで検証を省略するのではなく、検証対象を減らして限られた注意を重要な箇所へ集中させる。

この観点から見ると、rentosertib の約 18 か月という開発期間と、MIT Technology Review の記事に含まれていた不一致も、別々の話ではなくなる。18 か月という数字は、AI を利用した探索工程が実際に前臨床候補へ到達した時間として確認できる。しかし、その数字だけでは AI が何か月を短縮したかは分からない。MIT Technology Review の記事も、AI 創薬と発明者制度という有用な論点を短時間で提示したが、その記事だけでは発明者数や法的基準を確定できなかった。どちらでも、入口として得られた情報と、そこから最終的に確定できることの間に追加の検証工程がある。

rentosertib は、AI 創薬が計算上のデモにとどまっていることを示す事例ではない。AI を用いて選ばれた標的と生成された分子候補が、合成、前臨床、Phase I、Phase IIa を経て、Phase III の確認試験が登録される段階まで進んでいる。この到達点は、AI による探索が現実の創薬工程へ接続できることを示している。一方、Phase III の結果がまだ存在しない以上、薬としての有効性や AI 創薬全体の優越性まで確定したわけではない。

この事例から得られる帰結は、AI が人間の判断を残すという一般論だけではない。候補生成の費用が大きく下がると、研究や情報収集の制約は後段へ移る。創薬では合成、実験、臨床試験が制約になり、情報収集では原典確認と判断が制約になる。その結果、価値を持つのは候補を最も多く作れる能力ではなく、限られた検証資源をどの候補へ投入するかを決める能力になる。

AI 創薬で変わるのは、答えを確定する原理ではなく、答えへ到達するまでの探索範囲と探索速度である。rentosertib が薬として成立するかを最後に決めるのは、生成モデルの評価値ではなく患者から得られる臨床データである。MIT Technology Review の記事にある主張を採用できるかを決めるのも、媒体名ではなく、その主張に対応する一次資料である。生成が高速化した後に残る仕事は、候補をさらに増やすことではない。何を検証するかを選び、結果を根拠へ接続し、どこまで確定したかを区別することである。


参考文献

  1. Catrin Hasselgren, Tudor I. Oprea, Artificial Intelligence for Drug Discovery: Are We There Yet?, Annual Review of Pharmacology and Toxicology 64, 527-550 (2024).
  2. Andreas Bender, Morgan C. Thomas, Jack W. Scannell, David A. Shaywitz, Gian Marco Ghiandoni, Joe G. Greener, Lavinia-Lorena Pruteanu, Rachel DeVay Jacobson, Koichi Handa, Mariko Hirano, Srijit Seal, Manas Mahale, Marco F. Schmidt, Tim Ahfeldt, Francesca Grisoni, Isidro Cortes-Ciriano, Artificial intelligence in drug discovery: what it is, where we stand and the path forward, Nature Reviews Drug Discovery (2026).
  3. Feng Ren et al., A small-molecule TNIK inhibitor targets fibrosis in preclinical and clinical models, Nature Biotechnology 43, 63-75 (2025), online published 2024-03-08.
  4. Yan A. Ivanenkov et al., Chemistry42: An AI-Driven Platform for Molecular Design and Optimization, Journal of Chemical Information and Modeling 63, 695-701 (2023).
  5. Vladimir Aladinskiy et al., Discovery of Bis-imidazolecarboxamide Derivatives as Novel, Potent, and Selective TNIK Inhibitors for the Treatment of Idiopathic Pulmonary Fibrosis, Journal of Medicinal Chemistry 67, 19121-19142 (2024).
  6. Madura KP Jayatunga, Margaret Ayers, Lotte Bruens, Dhruv Jayanth, Christoph Meier, How successful are AI-discovered drugs in clinical trials? A first analysis and emerging lessons, Drug Discovery Today 29, 104009 (2024).
  7. ClinicalTrials.gov, NCT05154240: A Phase 1, Evaluate the Safety, Tolerability, and Pharmacokinetics of INS018_055 in Healthy Subjects.
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  10. ClinicalTrials.gov, NCT07687459: Study Evaluation Rentosertib (INS018_055) Administered Orally in Patients With Idiopathic Pulmonary Fibrosis.
  11. 35 U.S.C. § 100, Definitions.
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  14. United States Patent and Trademark Office, Inventorship Guidance for AI-Assisted Inventions, 89 FR 10043 (2024-02-13).
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  16. Antonio Regalado, When AI designs a drug, who gets the credit?, MIT Technology Review (2026-08-21).
  17. MIT Technology Review, What we do / Who we are.
  18. id774, AI に任せる前に、人間が残すべき判断(2026-06-21). https://blog.id774.net/entry/2026/06/21/4912/
  19. id774, この物量の文章を、一体誰が検証できるのか(2026-07-30). https://blog.id774.net/entry/2026/07/30/5160/
  20. id774, 長い Web ページを構造に沿って要約する Chrome 拡張 web-digest を作った(2026-08-17). https://blog.id774.net/entry/2026/08/17/5517/