自由意志とは何か

自由意志という言葉は、長らく「因果から自由であること」や「他の選択肢を本当に選べたこと」を意味するものとして理解されてきた。だが、物理学・神経科学・哲学のいずれを真剣に突き合わせても、そのような意味での自由意志は成立しない。問題は、だから自由意志は幻想なのか、という二択にあるのではない。問いそのものの立て方が古くなっている。


1. 棄却すべき前提:因果から独立した自由意志

自由意志を「因果を破る力」や「物理法則からの独立性」として定義する立場は採用できない。因果から切り離された選択は、結局は偶然と区別できず、「自分で決めた」という概念を支える根拠にならない。したがって、自由意志を救うために物理法則の外へ逃げる道は閉じている。


2. 物理学が確定的に言えること

古典力学的な完全決定論、いわゆるラプラスの悪魔的世界像は、カオス理論の示す予測可能性の破綻によって、そのままの形では維持できない。ローレンツが示した単純な非線形系でも、初期条件の微小差が将来を大きく分岐させることが知られている[1]。一方で、量子力学の確率性が自由意志の根拠になるわけでもない。ランダムに決まるということは、「主体が理由に基づいて選ぶ」こととは同義ではないからだ。

相対性理論の帰結としてブロック宇宙的な時間観が議論されることがあるが、「未来がすでに存在する」ことと「主体が選択する」ことは論理的に矛盾しない。相対論が与えるのは、因果構造と局所性の制約であり、そこから主観的な「いま」や「意思」が自動的に導かれるわけではない。相対論そのものについては、原典としてアインシュタインの 1905 年論文(英訳)を参照できる[2]


3. 時間はどこにあり、「いま」はどこで生まれるのか

時間を「流れる実体」として直観する立場は強いが、より堅牢なのは、時間を「世界の状態が不可逆に更新されていく構造」として捉える見方である。この整理は、過去記事「時間はどこにあり、『いま』はどこで生まれるのか」でまとめた通りであり、結論は「現在(いま)は物理量ではなく、主体が情報を統合することで局所的に生成される現象」である[3]

さらに、光速が有限であることは、因果が即時に全宇宙へ行き渡らず、出来事が局所的かつ段階的にしか確定しないことを保証する。この点は「なぜ光速は有限なのか」で整理した通りだが、ここでも同じ帰結が得られる。すなわち、物理学は因果と更新の枠組みを与えるだけで、主観的時間や「決めたという感覚」を直接には記述しない[4]


4. 意識の二層と、機械に意識は宿るか

自由意志を定義するには、意識と主体の扱いが不可欠になる。意識には、外部から観測可能な判断・制御・応答としての「機能的意識」と、主観的体験としての「現象的意識」という二層がある。機能が同じでも主観があるとは限らない、という直観は哲学的ゾンビの議論として知られる。

統合情報理論(IIT)は、意識を単なる入出力の賢さではなく、「内部因果構造がどれだけ統合されているか」という観点から捉える枠組みを提示している[5]。この視点は、自己や主体を固定実体ではなく更新され続ける過程として扱う上で有用である。前回記事「機械に意識は宿るか」では、機能再現と主観的連続性の検証不能性、そして「自己は更新過程としてしか定義できない」という帰結を整理した[6]


5. 自由意志の再定義:高次の機能としての自己制御

ここまでの整理から、自由意志を「因果を破る力」として定義する道は閉じている。一方で、「すべてが決まっているのだから自由意志は存在しない」と言い切ってしまうと、学習・反省・責任・改善といった人間社会の基本前提が説明できなくなる。したがって必要なのは、自由意志を物理法則の外へ追放することではなく、物理法則と矛盾しない高次の機能として定義し直すことだ。

本稿で採用する自由意志の定義は次の通りである。自由意志とは、物理的因果構造の中で、主観的意識を含む自己が、過去の記憶・現在の評価・未来の予測を統合しながら、自らの振る舞いを更新・制御できる能力のことである。ここで重要なのは「開始」ではなく「監督と修正」であり、無意識過程の先行が観測されるとしても、そのことは自由意志を直ちに否定しない。リベットの古典的研究が示す「意図の自覚」と脳活動の時間関係は、自由意志を「瞬間の点火」と誤解する直観を修正する材料になる[7]

この定義は、決定論と自由意志の両立を主張する整合主義(compatibilism)の思想とも整合する。哲学的整理としては、Stanford Encyclopedia of Philosophy の「Free Will」および「Compatibilism」の項目が、論点の分類と現代的見取り図を与える[8][9]


6. まとめ

自由意志は世界を超越する力ではない。自由意志とは、因果の中で、自分という更新過程が自分自身を変え続けられるという事実の名前である。これ以上自由意志に何かを付け足して「因果からの独立」を求めれば、物理学・意識論・責任概念のどこかが必ず破綻する。その意味で、自由意志を高次の自己制御機能として定義し直すことは妥協ではなく、現代における最も堅牢な整理である。


参考文献