宇宙を構造として再定義する

宇宙について語るとき、多くの場合は「何があるか」という語り方が選ばれる。素粒子があり、原子があり、惑星があり、恒星があり、銀河がある、という列挙である。しかし、この語り方だけでは、なぜそのようなものだけが存在し、なぜ別のものは存在しないのかが見えない。本稿の立場はそこにある。宇宙は、個別の物体を並べた百科事典としてよりも、量子論的下限、重力崩壊の上限、因果構造、初期条件、観測制約が重なり合うことで、許された構造だけが立ち上がる場として読む方が本質に近い[1][2]

この視点の出発点として非常に優れているのが、オーストラリア国立大学の Charles H. Lineweaver と Vihan M. Patel が示した図である。そこでは、宇宙に存在する諸対象が質量とサイズの平面上に置かれ、宇宙史における出現順序とも結びつけて整理されている[1]。ただし、本稿の目的はこの図の紹介にとどまらない。図を入口として、標準宇宙論、初期宇宙論、量子重力、原始ブラックホール観測までを一つの読解原理へ束ねることにある。

用語一覧:本稿で扱う主要概念

本稿では複数の専門用語が連続して登場するため、ここで主要概念を整理しておく。これらは後の議論で相互に結びつき、宇宙を構造として読むための要素となる。

用語 定義 本稿での役割
コンプトン限界 粒子を局在化しようとすると量子効果によりそれ以上の局在が意味を持たなくなるスケール。 極小側の存在制約を与える。
シュワルツシルト半径 ある質量をその半径内に閉じ込めるとブラックホールになる境界。 極大側の重力的制約を与える。
ハッブル半径 宇宙膨張のもとで因果的に相互作用できる範囲の代表的スケール。 構造が意味を持つ因果範囲を決める。
ΛCDM モデル 暗黒エネルギーと冷たい暗黒物質で宇宙を記述する標準宇宙論。 宇宙の時間発展を記述する。
インスタントン 量子トンネル過程を記述する解で、宇宙の初期状態のモデルにも用いられる。 初期条件の別の記述方法を与える。
因果構造 どの出来事がどの出来事に影響を与えうるかを定める関係。 宇宙の基本制約を与える。
因果集合理論 時空を連続体ではなく因果関係の集合として扱う理論。 時空の基盤を再定義する。
原始ブラックホール(PBH) 初期宇宙の密度揺らぎから形成されたブラックホール。 初期条件が観測にどう現れるかを示す。
すばる望遠鏡 重力レンズなどを用いて天体を観測する大型望遠鏡。 PBH の存在量を制約する。
LIGO-Virgo-KAGRA 重力波を観測する装置群。 ブラックホールの起源を検証する。

1. 出発点:ANU の「宇宙の全物体」図は何か

ANU の図が興味深いのは、「宇宙の全物体」という言い回しに反して、それが個別対象の網羅的カタログではないからである。論文が実際に示しているのは、陽子、原子、惑星、恒星、銀河といった異なるスケールの対象を、共通の座標系、つまり質量とサイズの対数平面に並べることによって、宇宙における構造の全域を一望させる試みである[1]。同時に、論文は宇宙の熱史、すなわち高温高密度の背景からどのような構造が順に凝縮して現れたかも示している[1]

この図の価値は、地図のように「どこに何があるか」を示す点にあるのではない。むしろ、「どのサイズと質量の組み合わせが、そもそも宇宙において成立可能なのか」を見せる点にある。ここで重要なのは、宇宙が最初から星や銀河に満ちていたのではなく、膨張と冷却の中で条件が整ったときにだけ個々の構造が現れたという理解である[1][3]。この意味で、この図は宇宙の百科事典ではなく、存在可能性の位相図として読むべきである。

見方 内容
素朴な見方 宇宙のさまざまな物体を一枚に並べた図。
本稿の見方 どのような構造が、どの条件のもとで存在しうるかを示す存在可能性の図。
重要な転換 「何があるか」から「何が存在できるか」へ視点を移す。

2. 図の核心:存在可能領域と禁止領域

この図を本当に読むためには、描かれている点ではなく、描かれていない空白に注目しなければならない。宇宙では、任意の質量と任意のサイズの組み合わせが自由に許されるわけではない。ある領域では量子論が単一粒子としての局在を禁じ、別の領域では一般相対論が重力崩壊を強制し、さらに因果性が内部構造の持ち方に上限を与える。その結果として、物体が存在しない帯域、すなわち forbidden region が現れる[1][4][5]

この禁止領域の存在は、宇宙が単なる物体の陳列棚ではなく、厳しく制約された構造空間であることを意味する。極小側では量子的な揺らぎや対生成が支配し、極大側ではシュワルツシルト半径を下回る圧縮がブラックホール化へ向かう。したがって、私たちが通常「物体」と呼んでいるものは、何でも置ける連続空間の中に偶然配置されたのではなく、制約が交差した狭い帯域の中にだけ安定解として現れているにすぎない[1][6]

制約 禁止するもの
量子論的制約 極端に小さな領域への古典的局在。
一般相対論的制約 大きな質量を小さな半径へ押し込めた状態。
因果的制約 情報伝播の限界を超える内部構造。
結果 宇宙は、存在可能領域と禁止領域を持つ構造空間として現れる。

3. コンプトン限界:ミクロ側の下限

極小側の境界を考えるうえで、最も基本になるのがコンプトン波長である。粒子を非常に狭い領域へ押し込めようとすると、不確定性原理により運動量の不確定性が大きくなり、必要なエネルギーが増大する。そのエネルギーが質量エネルギーに達すると、もはや「その粒子を一個だけ局在化している」とは言えず、対生成を含む場の量子論的描像へ移行する[4][7]

この意味で、コンプトン限界は「粒子の本当の大きさ」を表しているのではない。そうではなく、単一粒子描像が有効でいられる下限を示している。ここより下では、粒子を点として扱う素朴な絵は破綻し、構造そのものの概念が変わってしまう。ANU の図におけるミクロ側の空白は、まさにこの種の理論的制約を反映している[1]

観点 コンプトン限界の意味
古典的誤解 粒子の物理的半径。
量子論的意味 単一粒子描像が維持できる局在の下限。
宇宙論的意味 極小側で安定構造が成立する条件を決める境界。

4. シュワルツシルト半径:マクロ側の上限

極大側の境界として現れるのがシュワルツシルト半径である。一般相対論では、与えられた質量をある半径以下に押し込めると、その対象はブラックホールになる。これは単なる「とても重い星」の話ではない。安定した物体として存在できる範囲そのものに上限があり、それを超えると構造は事象の地平線の内側へ埋没するということである[6][8]

ANU の図が深いのは、コンプトン限界とシュワルツシルト半径を同じ平面に並べたとき、私たちが通常の物体として認識している領域が、その二つの境界に挟まれた帯域として浮かび上がる点である[1]。ここから直ちにわかるのは、宇宙の構造は本質的に「二つの禁止」の間に住んでいるということだ。下へ行きすぎれば量子論が崩し、上へ行きすぎれば重力が崩す。存在とは、その中間に成立するきわめて条件付きの現象なのである。

境界 意味
コンプトン限界 極小側で単一粒子描像が破綻する。
シュワルツシルト半径 極大側で重力崩壊が避けられなくなる。
両者の間 通常の安定構造が成立できる帯域。

5. ハッブル半径:因果構造のスケール

ここで視点をサイズと質量だけでなく、宇宙膨張へ広げる必要がある。ハッブル半径はしばしば「宇宙の端」のように誤解されるが、実際には因果的な長さスケールとして理解するのが正確である[9][10]。宇宙が膨張する中で、どのスケールのゆらぎがいつ因果的接触を持ち、いつ地平線の外へ出入りするかが、構造形成や初期条件の議論で決定的な役割を果たす。

この点は原始ブラックホールの形成にも直結する。原始ブラックホールの質量は、形成時の地平線スケール、すなわち当時のハッブル半径に対応する大きさでほぼ決まるからである。したがって、ハッブル半径は「どこまで見えるか」の問題ではなく、「どのスケールの構造が、どの時点で物理的意味を持つか」を決める量として読むべきである[17][18]

誤解されやすい意味 本来の意味
宇宙の端。 宇宙膨張下における因果的長さスケール。
観測可能宇宙そのもの。 構造形成や初期揺らぎのダイナミクスを特徴づける量。
単なる距離。 どのスケールの構造が物理的実体を持つかを決める基準。

6. インスタントン:初期宇宙を特異点ではなく滑らかに始める発想

宇宙の始まりをどのように理解するかという問題に進むと、単純な「特異点からすべてが始まった」という描像は十分ではなくなる。無境界提案では、宇宙の波動関数を、過去に境界を持たないコンパクトな幾何の和として与えることが考えられる。その際、ユークリッド時間で記述されるインスタントン的な幾何が、ローレンツ時空へ滑らかにつながることで、初期宇宙の特異点を直接的に前提せずに済む可能性が開かれる[11][12]

もちろん、これは現在の観測から確定した事実ではない。ここで重要なのは、宇宙の初期条件を考える方法が一つではないという点である。ANU の図が、宇宙にどのような対象が現れうるかを示すのに対し、インスタントンや無境界提案は「その宇宙そのものが、どのような初期条件から始まったと考えるべきか」を問う理論的枠組みを与える。この違いを踏まえると、構造の図と初期条件の理論が互いに補完的な位置にあることが見えてくる。

概念 本稿での位置づけ
特異点 宇宙の始まりを素朴に記述するが、理論的には不満が残る。
インスタントン 滑らかな初期条件を与えるための量子宇宙論的道具。
無境界提案 宇宙の始まりを境界のない幾何の和として捉える立場。

7. ΛCDM との関係:図は「状態空間」、ΛCDM は「その中の軌道」

ここまでの議論だけでは、ANU の図があたかも標準宇宙論に代わる新しい宇宙モデルであるかのような誤解を生むかもしれない。しかし、それは正しくない。現在もっとも強く支持されている標準宇宙論は、Planck による宇宙背景放射観測を含む広範な観測と整合する ΛCDM である[3][13]。ANU の図はそれを置き換えるものではなく、むしろ ΛCDM が辿る宇宙史の中で、どのような種類の構造がどの帯域に現れうるかを整理する、上位の見取り図として機能する。

この関係は、「図は状態空間、ΛCDM はその中の軌道」と表現すると理解しやすい。状態空間とは、どのような構造が物理法則のもとで許されるかを示す枠組みであり、軌道とは、その中を宇宙が時間発展としてどのように通過するかを示すものである。宇宙はまず高温高密度の背景として始まり、膨張と冷却に伴って、原子、恒星、銀河などの構造を順に形成していく。このダイナミクスを記述するのが ΛCDM であり、その結果として立ち上がる構造の全体配置を一望させるのが ANU の図なのである[1][3]

要素 役割
ANU の図 どのような構造が存在可能かを示す静的な見取り図。
ΛCDM 宇宙がどのように時間発展するかを示す動的モデル。
両者の関係 対立ではなく、状態空間と軌道として補完し合う。

8. 5 次元ブラックホール仮説とシュワルツシルト宇宙論

ANU の図やブラックホール境界を見ていると、宇宙全体がブラックホール的構造として読めるのではないか、あるいは高次元ブラックホールの内部として私たちの宇宙が実現しているのではないか、という発想が自然に現れる。こうした系統は、しばしばシュワルツシルト宇宙論や高次元ブラックホール仮説として語られる。さらに、FLRW 背景の中に局所的な Schwarzschild 領域を埋め込む Einstein-Straus 型の Swiss-cheese モデルは、局所構造と宇宙膨張の関係を考える一つの教科書的枠組みとして知られている[14][15]

ただし、ここで重要なのは、これらを標準理論と同じ強さで扱わないことである。高次元ブラックホール仮説は発想として魅力的であり、ブラックホール境界と宇宙の大域構造の類似を強調するが、観測的に ΛCDM を置き換えるだけの力を持っているわけではない。一方、Swiss-cheese モデルは、主流宇宙論の内部で局所的非一様性を考える補助線として有効である。つまり、この章で語るべきことは、「宇宙全体を別の幾何で読む試みが存在する」という事実と、それが現在の主流的地位を持つわけではないという評価を分けて記すことである。

モデル 位置づけ
高次元ブラックホール仮説 宇宙全体を上位構造として読み替える大胆な仮説。
シュワルツシルト宇宙論 宇宙をブラックホール幾何で解釈する方向の総称的立場。
Swiss-cheese モデル FLRW 背景と局所的 Schwarzschild 領域の接続を考える補助的モデル。

9. 反証可能性:整理図・標準模型・上位仮説の科学性の差

ここで一度、科学理論としての強さを整理しておく必要がある。ANU の図は、物体群の配置や禁止領域を可視化する整理図として強力だが、それ自体が独立した予測装置ではない。ΛCDM は、宇宙背景放射、大規模構造、膨張史などに具体的な予測を与え、観測と照合できる。これに対し、宇宙全体を高次元ブラックホール内部として読むような仮説は、説明のスケールが大きい反面、独自に反証可能な予測を出しにくい。この違いを無視すると、概念的魅力と科学的強度を混同することになる[3][13]

したがって、本稿で取るべき態度は明確である。整理図は整理図として価値を認め、標準模型は観測的強度によって評価し、上位仮説は魅力と限界を同時に書く。科学的に強いとは、世界全体を語ることではなく、世界について間違いうること、すなわち反証可能であることだからである。

枠組み 強み 弱み
整理図 構造の全体像を見やすくする。 独立した予測装置ではない。
ΛCDM 観測と高精度で整合し、具体的予測を出せる。 初期条件や重力の量子化までは与えない。
上位構造仮説 広い説明像を与える。 独自予測が弱く、反証可能性が低くなりやすい。

10. 因果集合理論:時空を「幾何」ではなく「順序」から作る

量子重力の文脈で特に面白いのが、因果集合理論である。この理論では、時空は連続的な幾何として最初から与えられるのではなく、因果関係で順序づけられた離散的な事象の集合として与えられる。スローガンとしてよく使われるのが Order + Number = Geometry であり、因果順序と要素数があれば、幾何は派生的に再構成できるという発想である[16][17]

この視点の意味は大きい。通常、私たちはまず滑らかな時空があり、その中に物体が置かれていると考える。しかし因果集合理論では、むしろ「何が何に先行し、何が何に影響できるか」という順序構造こそが先であり、連続幾何はその粗視化として現れる。この読み替えは、本稿の中心命題、すなわち宇宙を物体の一覧ではなく構造として読むという姿勢と非常に相性がよい。物体は舞台の上の登場人物ではなく、因果順序から立ち上がる安定パターンとして捉え直されるからである。

通常の見方 因果集合理論の見方
滑らかな時空が先にある。 因果順序の離散構造が先にある。
幾何が基本で、因果はその上に乗る。 因果が基本で、幾何はそこから再構成される。
物体は時空の中に置かれる。 物体は因果構造の安定パターンとして現れる。

11. 因果集合理論と宇宙定数 Λ

因果集合理論が注目される理由の一つは、宇宙定数問題に対して独自の見方を与える点にある。要素がポアソン的に散布される離散構造を考えると、体積には統計的ゆらぎが生じる。この体積ゆらぎが、有効的な宇宙定数の小ささやゆらぎと関係するのではないかという考え方が、因果集合理論の内部で長く議論されてきた[16]。これは Λ を単なる自由パラメータとして受け取るのではなく、時空の離散性と因果構造の側から再解釈しようとする試みである。

もちろん、これだけで宇宙定数問題が解決したわけではない。標準模型との結合、低エネルギー有効理論との整合、観測的検証の道筋など、未解決の論点は多い。しかし重要なのは、宇宙定数を「大域幾何の定数」ではなく、「因果構造に由来する統計的量としても読めるかもしれない」と見ることができる点にある。この発想は、宇宙を構造として読むという本稿の軸に、さらに深い基盤を与える。

論点 因果集合的な見方
宇宙定数 Λ 単なる与えられた定数ではなく、離散的時空構造に由来する量としても読める。
体積 連続量ではなく、要素数に基づく統計的量として現れる。
課題 完成理論ではなく、観測的・理論的に未解決部分が多い。

12. 原始ブラックホール:初期宇宙の密度揺らぎの化石

ここから議論は観測へ近づく。原始ブラックホールは、恒星の崩壊によって後から形成される通常のブラックホールとは異なり、初期宇宙の高密度揺らぎが直接重力崩壊して生まれたブラックホールである[18][19]。この仮説が重要なのは、原始ブラックホールの質量が形成時の地平線スケール、すなわち当時のハッブル半径と強く結びついているためである。したがって、その質量分布や存在量は、初期宇宙のゆらぎと因果構造に関する情報を現在まで保存している可能性がある。

原始ブラックホールは、単なるブラックホール候補ではない。もし十分量存在すれば、ダークマターを新粒子ではなくコンパクト天体の集団として説明できる可能性がある。その一方で、存在量が小さくても、初期宇宙の高シグマ揺らぎ、インフレーション模型、パワースペクトルの形に対して強い制約を与える。つまり、原始ブラックホールは「あるかないか」だけが問題なのではなく、「どの質量帯で、どれほど許されるか」が初期宇宙論全体に効いてくる対象なのである。

観点 原始ブラックホールの意味
形成機構 恒星崩壊ではなく、初期宇宙の過密揺らぎによる直接形成。
宇宙論的価値 形成時の地平線スケールを現在へ運ぶ化石。
観測的意義 ダークマター候補であると同時に、初期ゆらぎへの制約源になる。

13. すばる望遠鏡:PBH を重力マイクロレンズで絞り込む

原始ブラックホール仮説を思弁で終わらせないために重要なのが、すばる望遠鏡と Hyper Suprime-Cam による重力マイクロレンズ観測である。Hiroko Niikura らは、アンドロメダ銀河の膨大な数の星を高頻度で監視し、前景を通過する小質量原始ブラックホールによる一時的増光を探索した。その結果、特定の質量帯では、原始ブラックホールがダークマターの大半を占める可能性が強く制限された[20][21][22]

この観測が重要なのは、理論が許す「可能性の広がり」を、現実のデータが実際に削っている点にある。原始ブラックホールは理論上ありうる。しかし、ありうることと、十分量存在してダークマターの主成分になりうることは別である。すばる望遠鏡の結果は、この二つをきちんと分ける決定的な役割を果たした。つまり、構造を読む宇宙論は、最後には観測装置によって裁定されるということである。

観測装置 役割
すばる望遠鏡 広視野・高感度の光学観測を行う。
Hyper Suprime-Cam 多数の星を短時間間隔で同時監視し、マイクロレンズ事象を探索する。
科学的帰結 小質量帯の原始ブラックホールがダークマターの大部分を占める可能性を強く制限した。

14. LIGO のブラックホールは PBH か

重力波観測の時代に入ると、原始ブラックホール論は別の窓を持つことになる。LIGO-Virgo-KAGRA が見ている連星ブラックホール合体の一部が、恒星起源ではなく原始ブラックホール起源ではないか、という問いである。これは単なる好奇心ではない。もし重力波で観測されるブラックホール人口の一定割合が原始ブラックホールで説明できるなら、ダークマター論と初期宇宙論の両方が大きく動くからである[23][24]

しかし現状では、主流の評価は慎重である。観測されている多くのブラックホール合体は、低金属量環境での大質量星進化や連星進化で十分に説明可能であり、原始ブラックホール成分が必要だとまでは言えない。一方で、重力波データを用いた近年の解析は、太陽質量オーダーから数百太陽質量程度の範囲で、原始ブラックホールがダークマターのごく一部しか占められないことを示している[24]。したがって、現在の整理は「LIGO のブラックホールが原始ブラックホールだと断言できないし、主成分でもなさそうだが、完全排除にも至っていない」というものである。

問い 現時点での整理
LIGO のブラックホールは PBH か。 大半は恒星起源で説明可能であり、PBH の寄与はあっても小さいと見るのが主流。
PBH は完全否定されたか。 いいえ。質量関数や生成シナリオに依存する余地はなお残る。
観測の意味 重力波データが PBH 存在量を新たに制約するようになった。

15. PBH が本当に存在すると何が変わるか

もし原始ブラックホールが無視できない量で存在するなら、変わるのは単なるブラックホール人口統計ではない。まず、ダークマター像が変わる。ダークマターを未発見の新粒子として考えるのではなく、重力的コンパクト天体の集団として扱う必要が出てくる。次に、初期宇宙の揺らぎの理解が変わる。原始ブラックホールを作るには、通常のほぼスケール不変なゆらぎよりも、はるかに強い過密領域が必要であり、インフレーション模型やパワースペクトルに強い特徴が要求される[18][19]

さらに重要なのは、PBH が「初期条件の化石」であるという点だ。形成時のハッブルスケールに対応した質量を持つということは、PBH の質量分布そのものが、初期宇宙の因果構造の記録だということである。つまり、PBH をめぐる議論は、ブラックホールの話に見えて、その実、ハッブル半径、禁止領域、初期揺らぎ、構造形成の全体を束ねる地点に位置している。ここで、これまで分散していた論点が一つにまとまり始める。

PBH が存在すると変わるもの 内容
ダークマター論 新粒子中心の絵から、コンパクト天体中心の絵へ一部または大きく移る。
インフレーション理解 初期揺らぎに強いピークや非ガウス性を要求する可能性が高まる。
初期宇宙の読解 PBH が形成時の因果スケールを現在へ運ぶ記録媒体になる。

16. 全体の統合:宇宙をどう読むべきか

ここまでの議論を統合すると、出発点となった ANU の図は、単に多様な天体や物体を一枚に並べた図ではなく、宇宙そのものの読み方を組み替える入口であったことがわかる。そこで本当に示されていたのは、「宇宙に何があるか」の一覧ではない。むしろ、「どのような条件のもとで、どのような構造だけが存在できるのか」という、存在可能性の全体像である。したがって、本稿を通して見えてきたのは、宇宙を個々の物体の集合として理解する見方の限界であり、それに代わる見方、すなわち宇宙を制約によって定義された構造空間として読む立場である。

この観点から振り返ると、各章で扱ってきた論点は、互いに独立した雑多な話題ではない。コンプトン限界は極小スケールにおいて単一粒子描像が破綻する境界を示し、シュワルツシルト半径は大きな質量を小さな半径へ押し込めたときに重力崩壊が避けられないことを示す。ハッブル半径は、宇宙膨張のもとでどのスケールの揺らぎが因果的意味を持つかを定め、インスタントンは宇宙の始まりを特異点ではなく滑らかな初期条件として読む可能性を開く。さらに、ΛCDM はその構造空間の中で宇宙が実際にどのような時間発展をたどるかを与え、因果集合理論は、そもそも時空そのものを連続幾何ではなく因果順序から再構成しようとする。そして原始ブラックホールとその観測は、そうした初期条件や因果構造が、現在の観測データの中でどこまで許されるかを検証する実証の場を与える[1][3][16][21][24]

したがって、本稿が最終的に主張したいことは明確である。宇宙とは、完成した物体が先に存在し、それらが後から並べられた世界ではない。宇宙とは、量子論的下限、重力的上限、因果構造、初期条件、宇宙膨張といった複数の制約によって定義された「存在可能領域」であり、観測されるすべての物体は、その中に立ち上がった安定解にすぎない。言い換えれば、宇宙の本質は「何が存在しているか」にあるのではなく、「何が存在可能か」、そして「どのような条件のもとで、どのような構造だけが実現されうるか」にある。この読み方に立つと、「宇宙に何があるか」という問いは、より根本的な問い、すなわち「宇宙はどのような制約構造によって形づくられているのか」へ置き換えられる。そして、その問いに対してこそ、現代宇宙論は最も深い水準で答え始めているのである[1][3][16][21][24]

全体像 本稿での整理
ANU の図 宇宙を物体一覧ではなく、存在可能領域として読むための入口。
量子限界と重力限界 構造が成立できる帯域を上下から制限する基本境界。
因果構造と初期条件 どの構造が、どの時点で、どの条件のもとに立ち上がりうるかを決める層。
標準宇宙論と量子重力 宇宙の時間発展と、その基盤となる時空構造をそれぞれ記述する枠組み。
PBH と観測 初期宇宙の構造や揺らぎが、現在のデータの中でどこまで許されるかを示す裁定装置。
結論 宇宙は物体の集合ではなく、制約によって定義された存在可能領域であり、観測される物体はその中の安定解である。

参考文献

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