複雑な現象を扱うとき、微視的な状態をすべて追い続ける必要はない。気体の圧力や温度を求めるために、一個一個の分子の位置と速度を記録し続ける必要はなく、流体の運動を記述するために、構成する全原子の軌道を計算する必要もない。多数の自由度から、目的に必要な少数の量を取り出すことで、微視的には複雑な運動を巨視的な法則として記述できる。
ただし、変数を減らせば、それまで追跡していた情報の一部は記述から外れる。記述から外した情報が、その後の運動にも影響しないのであれば、少数の変数だけで時間発展を閉じることができる。反対に、外した自由度が後の状態へ影響を返すなら、現在の少数変数だけから次の状態を決める近似は、その影響をどこかで失う。この違いは、一回の予測誤差だけを測っても必ずしも見えない。
この関係を模式的に表すと、次のようになる。
\[
\text{高次相関を含む微視的な時間発展}
\longrightarrow
\text{低次方程式に残る記憶}
\longrightarrow
\text{長時間での輸送係数}
\]
三つは同じ情報をそのまま別名で呼んでいるわけではない。最初の段階では、多数の自由度が具体的な相関として時間発展している。低次変数だけへ縮約すると、それらを経由した作用が過去への依存として現れる。さらに時間尺度を粗くすると、個々の履歴の形ではなく、それらが長時間の輸送へ与えた総効果だけが拡散係数に残る。段階を進むごとに記述する情報量は減るが、後の運動を決める効果まで無条件に消しているわけではない。
1. rule 26R は巻き戻せるのに拡散する
rule 26R は、0 と 1 の二つの状態を取るセルが一列に並び、近傍の状態に応じて時間発展するセルオートマトンである。通常のセルオートマトンが現在の配置から次の配置を決めるのに対し、rule 26R では一時刻前の状態も更新に組み込まれている。現在と一時刻前の配置を一組の状態として扱えば、その組から次の状態を計算できるだけでなく、現在と次の状態から一時刻前の状態も一意に復元できる。有限の周期系では、完全な状態を保持している限り、時間発展そのものを逆向きにたどれる。
この可逆性と、統計力学でいう拡散や熱伝導は矛盾しない。可逆なセルオートマトンから統計力学的な振る舞いが現れることは以前から研究されている。武末真二氏は 1987 年に、可逆セルオートマトンの加法保存量をエネルギーとして扱い、平衡状態でカノニカル分布に対応する統計的性質が現れる条件を数値的に調べた[1]。1990 年には、セルオートマトン模型の熱輸送について、温度勾配と熱流を結び付ける Fourier 則と、平衡状態の時間相関から輸送係数を求める Green–Kubo 公式を比較している[2]。さらに 1997 年には、可逆セルオートマトンの確率分布を低次の分布だけで記述する Boltzmann 型方程式を導入している[3]。
ここでは、可逆な微視的規則から拡散が生じるという事実だけでなく、その拡散をどの変数で記述するかが論点になる。セル全体の配置を保持すれば、過去を復元するための情報も状態の中に残っている。一方、各位置の平均的なエネルギーや、隣接する二サイトの確率分布だけを取り出せば、それ以外のセルとの相関はその変数には直接含まれない。元の力学が可逆であることは、そのように縮約した変数だけでも過去を一意に復元できることを意味しない。
| 記述 | 保持する情報 | 時間発展で起きること |
|---|---|---|
| 完全な微視的状態 | 全セルの状態と可逆更新に必要な時刻間の情報を保持する。 | 完全な状態を使えば、未来だけでなく過去の状態も復元できる。 |
| 巨視的な低次変数 | エネルギー密度など、目的とする少数の量だけを保持する。 | 異なる微視的状態が同じ巨視的状態として表されるため、巨視的な状態だけから微視的な過去を特定できない。 |
| 二サイト閉包 | 隣接する二サイトの確率分布を保持し、それより高次の相関を低次分布から近似する。 | 短時間の予測はよく合っても、切り落とした高次相関の影響が時間をまたいで残る場合には、反復によって長時間の輸送を誤る可能性がある。 |
保存量の存在は、この区別を定量的に調べるための基準になる。Hattori と Takesue は、離散時間の格子力学系について、複数のセルに分布した量の総和が時間発展によって保存されるための条件を整理した[4]。保存量があると、局所的な偏りが移動しても系全体の総量は変わらないため、その偏りが時間とともにどのように広がるかを輸送や拡散として追跡できる。決定論的で相互作用する格子系において、こうした拡散を厳密に扱える例も、その後の可逆セルオートマトン研究で示されている[5]。
rule 26R では、完全な状態の可逆性を保ったまま、その内部で保存量がどのように移動し、低次の統計量としては拡散して見えるかを同じ模型の中で比較できる。ここで生じているのは、微視的な情報が物理法則から消えることではない。完全な状態には残っている情報の一部が、選んだ少数の変数には現れなくなることである。
この違いが、長時間の記述で効いてくる。二サイト分布だけを見れば、ある時刻の状態から次の状態をかなり正確に予測できる。しかし、完全な系では二サイトより広い範囲に相関が形成され、その相関も次の時間発展へ参加する。二サイト閉包を毎時刻適用すれば、そのたびに高次相関を低次分布から作り直すことになる。一回では小さく見えるこの処理の差が、時間を重ねたときに拡散係数の差として現れる。
深津卓弥氏は、一次元可逆セルオートマトン rule 26R に対して、Yu Deng、Zaher Hani、Xiao Ma が硬球力学からボルツマン方程式を長時間導出した研究の考え方を移し、低次の閉包、長時間相関、記憶を同じ模型の中で比較している[6]。ここでいう閉包とは、本来はより多くのセルの組み合わせに依存する時間発展を、隣接する二サイトの確率分布だけで記述できる形へ近似することである。
この検討で特徴的なのは、二サイト閉包が一歩先の状態についてはかなりよい近似になる一方、その近似を繰り返すと長時間の拡散速度を大きく見誤ることである。近似が各時刻で大きく外れているから長時間予測が失敗するのではない。各時刻では小さく見える差の中に、後の時間発展へ影響する相関が含まれており、それを毎回切り落とす操作が長時間では無視できなくなる。この模型は、短期予測の精度と、そこから得られる巨視的な法則の精度を分けて考える必要があることを、具体的な計算で示す題材になっている。
2. 一歩先は当たるのに、長時間では外れる
深津氏の構成では、隣接する二つのサイトが取り得る 16 状態の確率分布を、低次の記述に使う基本変数としている。ところが、26R の厳密な時間発展では、二サイトの次の分布を求めるために、その周囲を含む四サイトの同時分布が必要になる。さらに四サイト分布の発展を厳密に追えば、より広い範囲の分布が必要になる。この依存関係をそのまま追跡すると、扱う変数は空間範囲とともに増え続ける。
そこで、四サイトの分布を二サイト分布の組み合わせから再構成し、それより高次の相関を独立なものとして追わない近似を導入する。これが二サイト閉包である。閉包を使えば、本来はより広い範囲の状態に依存する時間発展を、16 状態の確率分布だけで繰り返し計算できる。計算対象を有限個の変数に縮められる代わりに、二サイト分布だけからは復元できない高次相関を各時刻で切り落とすことになる。
この近似は、一回の時間発展だけを見ればかなりよく働く。深津氏の数値計算では、最小二サイト閉包による一ステップ予測の平均誤差は約 2.45 % に収まり、保存量や平衡状態も適切に扱われる[6]。少なくとも「次の一歩を予測する」という評価だけなら、二サイトより広い相関を明示的に保持しなくても大きな破綻は見えない。
ところが、この閉包を時間発展のたびに適用すると、巨視的な輸送速度は大きくずれる。エネルギーの広がる速さを表す拡散係数は、二サイト閉包を反復した場合には 1.3223 となる。一方、平衡状態でのカレントの時間相関から求める Green–Kubo 法では 0.55870 ± 0.00926、長い波長を持つエネルギー分布の減衰から独立に求める方法では 0.53233 ± 0.01603 である[6]。後者の二つは誤差の範囲を考慮すれば近い値を与えるのに対し、二サイト閉包は拡散を二倍以上速く見積もっている。
| 評価方法 | 得られた拡散係数 | 計算に残しているもの |
|---|---|---|
| 二サイト閉包の反復 | 1.3223 | 現在の二サイト分布を使い、各時刻でそれより高次の相関を再因子化する。 |
| Green–Kubo 法 | 0.55870 ± 0.00926 | 平衡状態で生じたカレントが後の時刻のカレントとどのように相関するかを、正負を含めて時間方向に積み上げる。 |
| 長波長モード | 0.53233 ± 0.01603 | 大きな空間尺度に作ったエネルギーの偏りが、実際の時間発展でどの速さで減衰するかを測る。 |
三つの値の差は、単に「近似には誤差がある」と言うだけでは捉えにくい。二サイト閉包は拡散という現象自体を失っておらず、一ステップの予測も大きく外していない。それでも長時間では輸送係数を大幅に過大評価する。各時刻で生じる誤差が無関係な乱数のように加算されるだけなら、なぜ一貫して速い拡散へ偏るのかを説明できない。
二サイト閉包で毎時刻行っている操作を見ると、ずれが生じる場所が絞られる。実際の 26R では、ある時刻に作られた四サイト以上の相関は、その次の時刻にも状態の一部として残り、さらに後の運動へ影響できる。二サイト閉包では、その相関を保持せず、次の時刻になるたびに現在の二サイト分布から高次分布を作り直す。一回の更新では小さく見えた差でも、この操作を繰り返せば、本来なら複数時刻にまたがって作用する相関の経路が毎回途中で切られる。
この違いによって、短期予測の精度と長期法則の精度を同じ指標では評価できなくなる。前者が問うのは、現在の低次分布から直後の状態をどれだけ近く再現できるかである。後者が問うのは、時間発展の途中で生成された相関を含め、長い時間にわたる輸送の総効果を正しく残せるかである。26R では、一歩先については高次相関を切り落としても差が小さい一方、その影響を毎時刻捨て続けると、最終的な拡散係数に大きな差が現れる。
このずれを追うには、現在の二サイト分布だけを見るのでは足りない。低次の記述から外した高次相関が、消去されたあとも後続の時間発展へどのような作用を返すのかを含めて記述する必要がある。その作用は、低次変数だけの方程式へ射影すると、過去の状態に依存する「記憶」として現れる。
3. 捨てた高次相関は、方程式では記憶になる
二サイト閉包が長時間でずれる理由を調べるには、まず厳密な時間発展が何を必要としているかを見る必要がある。rule 26R では、ある二つの隣接サイトの次の状態は、その二サイトだけから決まるわけではない。更新に使われる近傍まで含めると、次の二サイト分布を正確に計算するためには、現在の四サイトがどのような組み合わせで現れているかを知る必要がある。
たとえば、時刻 \(t\) に隣接する二サイトが特定の状態を取る確率を \(p_t\) とする。次の時刻 \(t+1\) の二サイト分布を求めようとすると、現在の四サイト分布が必要になる。ところが、その四サイト分布の次の状態を正確に求めるには、さらに広い範囲の分布が必要になる。二サイト、四サイト、さらに長いブロックというように、厳密な記述では依存関係が高次へ連なっていく。
この構造をそのまま計算すれば、低次の変数だけで時間発展を完結させることはできない。そこで二サイト閉包では、四サイト分布を独立した変数として保持する代わりに、既知の二サイト分布から近似的に再構成する。前章で見たように、この近似は一ステップではよく働く。しかし、厳密な四サイト分布には、二サイト分布の組み合わせだけからは決まらない成分が含まれている。
その違いを理解するには、「相関」が何を表しているかを具体的に見るとよい。仮に四サイトの左半分と右半分が完全に独立なら、四サイトがある組み合わせで現れる確率は、それぞれの二サイト分布の確率を組み合わせれば求められる。実際には、過去の更新によって左右の二サイトの間に依存関係が作られることがある。そのとき、左側の状態を知ることで右側の状態について得られる情報が増える。この、低次分布を単純に組み合わせただけでは表せない部分が高次相関である。
深津氏は、二サイト分布だけから求められる変化と、高次相関に依存する変化を分離している[6]。その関係を模式的に書くと、次のようになる。
\[
p_{t+1}-p_t
=
Q^{\mathrm B}[p_t]
+
\mathcal R_t
\]
左辺の \(p_{t+1}-p_t\) は、二サイト分布が一時刻の間にどれだけ変化したかを表す。\(p_t\) は時刻 \(t\) の二サイト分布であり、一つの数ではなく、二サイトが取り得る各状態の確率を並べたものである。\(Q^{\mathrm B}[p_t]\) は、その二サイト分布だけを材料として計算できる変化である。上付きの \(\mathrm B\) は Boltzmann 型の閉包に対応している。
残る \(\mathcal R_t\) が、二サイト分布だけでは決まらない部分である。四サイト以上に形成された連結相関が、次の二サイト分布へ及ぼす影響がここに入る。もし \(\mathcal R_t=0\) なら、現在の \(p_t\) だけを知れば次の \(p_{t+1}\) を正確に求められる。二サイト分布だけで時間発展が閉じていることになる。
実際の 26R では、一般に \(\mathcal R_t\) はゼロではない。二サイト閉包は、この項を独立には追跡せず、現在の低次分布から高次分布を再構成することで時間発展を続ける。そのため、一回の更新では小さかった \(\mathcal R_t\) の影響が、後の時刻へどのように伝わるかを直接保持しない。前章で一ステップ予測と長時間の拡散係数に大きな差が生じたのは、この高次側の自由度を毎時刻処理し直していることと対応する。
では、高次相関を主変数から外しながら、その影響だけを残すことはできるのか。この問いを体系的に扱うのが射影演算子法である。Nakajima は輸送現象の記述に射影の考え方を導入し[7]、Zwanzig は観測する変数以外の自由度を消去したときに現れる記憶効果を扱った[8]。Mori はこの考えを発展させ、多数の自由度を持つ力学を、選んだ少数の変数だけの方程式へ変換したとき、現在の状態だけではなく過去の履歴に依存する項が現れることを示した[9]。
ここで使う「射影」は、元の状態を物理的に消去する操作ではない。完全な状態に含まれる情報のうち、追跡したい成分だけを取り出して記述する操作である。二サイト分布を追跡対象にするなら、それを残す部分を \(\mathcal P\)、それ以外の高次相関を含む部分を \(\mathcal Q\) と考える。ここでは、確率分布 \(p_t\) と混同しないように、射影を表す記号には \(\mathcal P\) と \(\mathcal Q\) を使う。
完全な時間発展の途中では、\(\mathcal P\) に含まれる低次の状態から \(\mathcal Q\) 側へ相関が作られ、その相関がさらに時間発展し、後になって再び \(\mathcal P\) 側の変数へ影響することがある。流れを模式的に書けば、次のようになる。
\[
\mathcal P
\longrightarrow
\mathcal Q
\longrightarrow
\mathcal Q
\longrightarrow
\cdots
\longrightarrow
\mathcal P
\]
最初の \(\mathcal P\rightarrow\mathcal Q\) は、二サイト分布だけでは表せない高次相関が時間発展によって生成されることを表す。その後の \(\mathcal Q\rightarrow\mathcal Q\) は、その高次相関が観測対象の外側で時間発展し続けることに対応する。最後の \(\mathcal Q\rightarrow\mathcal P\) で、その相関が二サイト分布やエネルギー輸送へ再び影響する。
この経路を完全な系の中で追うなら、特別な「記憶」という項を導入する必要はない。全自由度をそのまま計算しているからである。しかし、\(\mathcal Q\) 側を変数として明示的に持たず、\(\mathcal P\) だけの方程式へ書き直すと事情が変わる。\(\mathcal Q\) の内部で何が起きたかを現在の \(\mathcal P\) だけからは復元できないため、その影響を表すには、過去の \(\mathcal P\) がどのような状態だったかを参照する必要が生じる。
Mori–Zwanzig 型の縮約では、この関係は模式的に次の形になる。
\[
\text{現在の変化}
=
\text{現在の低次状態から決まる項}
+
\sum_{s=1}^{t}
\text{記憶核}(s)\,
\text{過去の低次状態}
+
\text{残余項}
\]
第 1 項は、現在の二サイト分布だけから直ちに計算できる部分である。第 2 項では、\(s\) 時刻前の状態が現在にどれだけ影響するかを「記憶核」が重みとして与える。1 時刻前の影響と 100 時刻前の影響が同じとは限らない。記憶核の重みは一般に正とは限らない。26R で実際に観測される負のカレント相関との具体的な対応については、後で両者を区別して検討する。
この数式で注目すべきなのは、過去の状態を保存すること自体が目的ではない点である。完全な系では高次相関を経由して伝わっていた作用を、二サイト分布だけの記述へ移し替えると、同じ作用が時間方向の依存関係として表現される。空間的・統計的に多数の自由度を持つ記述を減らした代わりに、時間方向の履歴を引き受けている。
Chorin、Hald、Kupferman は、この Mori–Zwanzig 表現を、解像しない変数を含む力学系から少数変数の予測モデルを作る問題として整理している[10]。ここでも、未解像自由度を単純に消した Markov 型の近似と、その自由度を経由した過去の影響まで含める縮約は区別される。また、実際の計算では無限に長い履歴をそのまま保持できないため、記憶をどの時間まで残せば十分か、途中で打ち切ったときにどの程度の誤差が生じるか自体が研究対象になる[11]。
| 記述 | 保持する変数 | 高次相関の影響 | 時間方向の特徴 |
|---|---|---|---|
| 完全な微視的力学 | 全セルの状態を保持する。 | 高次相関も完全な状態の一部として直接時間発展する。 | 現在の完全な状態から次の完全な状態が決まり、別の記憶項を導入する必要はない。 |
| 二サイト閉包 | 二サイト分布だけを保持する。 | 四サイト以上の分布を低次分布から再構成し、独立な高次相関を毎時刻保持しない。 | 現在の二サイト分布だけから次の状態を決める Markov 型の記述になる。 |
| 記憶付き縮約 | 二サイト分布などの低次変数を主変数として保持する。 | 除外した自由度を経由した作用を、記憶核を通じて低次変数へ戻す。 | 現在だけでなく過去の低次状態にも依存する非 Markov 型の記述になる。 |
ここまでの関係を整理すると、高次相関を「捨てる」には二つの異なる意味がある。二サイト閉包では、高次相関を独立した状態としても、その後の履歴としても保持しない。記憶付き縮約では、高次相関そのものを主変数から外す点は同じだが、その相関を経由して後から低次変数へ戻る作用は残す。両者は、保持する変数の数だけを見れば似ていても、長時間の力学としては異なる。
rule 26R の二サイト閉包が一歩先ではよく当たりながら、長時間の拡散係数を過大評価するという結果は、この違いを調べる具体的な入口になる。高次相関の影響が時間をまたいで残るなら、その瞬間の低次状態だけから次を決める近似では、後続する作用の一部が欠ける。次に見る Green–Kubo の時間相関では、その長時間効果が実際に正負の符号を持って現れる。
4. 負の時間相関が、短時間の輸送を押し戻す
前章では、高次相関を主変数から外しても、その自由度を経由した作用が後の時刻へ残る場合には、低次変数だけの方程式に「記憶」が現れることを見た。では、その記憶は実際の輸送量にどのように現れるのか。rule 26R では、平衡状態におけるカレントの時間相関を調べることで、その一部を直接数値として見ることができる。
ここでいうカレントとは、保存されている量がある場所から隣へどれだけ移動したかを表す流れである。熱伝導ならエネルギーの流れに対応する。ある時刻に右向きのカレントが生じたとして、その後も右向きの流れが起こりやすければ、二つの時刻のカレントには正の相関がある。反対に、後になって左向きの流れが起こりやすくなれば、相関は負になる。
輸送係数をこの時間相関から求める考え方は、Green と Kubo によって統計力学の基礎として定式化された[12][13]。Helfand は、同じ輸送係数を平衡状態での保存量の揺らぎから求める別の表現を与えている[14]。輸送の速さは、ある瞬間の流れの大きさだけではなく、その流れが後の時刻までどのような影響を残すかを含めて決まる。
その関係を模式的に書くと、拡散係数 \(D\) は次のような形で表される。
\[
D
\propto
\sum_{s=0}^{\infty}
\langle J_0 J_s \rangle
\]
\(J_0\) は基準となる時刻のカレント、\(J_s\) はそこから \(s\) 時刻後のカレントである。山括弧 \(\langle\cdots\rangle\) は、平衡状態で多数の初期条件や時刻について平均を取ることを表す。比例係数には系の大きさや平衡状態での揺らぎなどが入り、具体的な形は模型によって異なる。本稿で必要なのは、その係数の詳細ではなく、拡散係数が各時刻の相関 \(\langle J_0J_s\rangle\) を時間方向に足し合わせた量で決まるという点である。
この総和では、各時刻の寄与を絶対値で足すわけではない。\(J_0\) と \(J_s\) が同じ向きに対応しやすければ \(\langle J_0J_s\rangle\) は正になり、初期の流れを持続させる方向に寄与する。逆向きの流れが起こりやすければ負となり、それ以前の正の寄与を差し引く。拡散係数は、正と負の両方を含む時間履歴の総和として決まる。
時間相関が数時刻ですぐ消えるとは限らないことは、流体の研究でも古くから知られている。Alder と Wainwright は、粒子の速度が長時間後まで相関を残す「長時間尾」を数値的に示した[15]。Dorfman と Cohen は二次元・三次元の流体について、この長時間相関を理論的に解析している[16]。Wainwright、Alder、Gass も二次元系で相関がどのように減衰するかを詳しく調べている[17]。現在の状態だけでは見えない過去の影響が輸送係数へ残ること自体は、rule 26R に特有の仕組みではない。
rule 26R で特徴的なのは、その時間相関に大きな符号の変化が見えることである。深津氏の数値計算では、時刻 0 から 5 までの相関を足した部分だけなら、拡散係数への寄与は約 1.818 になる[6]。この範囲だけを見ると、初期の流れはかなり強く持続している。
ところが、時刻 6 から 100 までを加えると、約 −1.259 の寄与が現れる[6]。後半の相関は、前半までに積み上がった輸送をさらに増やすのではなく、その一部を差し引く方向へ働いている。正負を合わせた結果、Green–Kubo 法から得られる拡散係数は約 0.559 まで下がる。
| 時間範囲 | 拡散係数への寄与 | 輸送上の意味 |
|---|---|---|
| 時刻 0 から 5 | 約 1.818 | 初期のカレントと同じ向きの相関が強く、輸送を増やす方向へ寄与する。 |
| 時刻 6 から 100 | 約 −1.259 | 後続する負の相関が、それまでの正の輸送を部分的に打ち消す。 |
| 正負を含む総和 | 約 0.559 | 短時間の流れだけではなく、その後に生じる逆向きの相関まで含めた長時間の輸送速度になる。 |
この数値から、前章で二サイト閉包が拡散を速く見積もった理由を考える手掛かりが得られる。二サイト閉包では、その時刻の低次分布から次の状態を計算するたびに、それより高次の相関を独立な状態として保持しない。実際の 26R では、過去の運動によって作られた相関が数時刻後にも残り、その一部は初期の流れを打ち消す方向へ作用している。現在だけを使う閉包では、この時間をまたいだ負の効果を十分に表現できない可能性がある。
ただし、ここで二つの数値を直接差し引いて原因を確定することはできない。二サイト閉包が与える拡散係数 1.3223 と、Green–Kubo 相関の後半に現れる約 −1.259 は、それぞれ異なる計算から得られた量である[6]。後者をそのまま二サイト閉包の「失われた成分」とみなし、各時刻の負の相関が閉包で捨てた高次相関と一対一に対応すると考えるには、さらに数学的な同定が必要になる。
この区別は、前章の Mori–Zwanzig の記憶項との関係でも必要になる。有限波数の縮約から厳密に定まる Mori の記憶核と、Green–Kubo 公式で測るカレントの時間相関は、どちらも過去の影響を含むが、26R について各時刻の項が同じ量であることまで証明されているわけではない[6]。両者が近い拡散係数を与え、数値的にも似た履歴を示すことと、数学的に同一の核であることは別の主張である。
それでも、Green–Kubo の結果から確実に言えることはある。26R の長時間輸送は、最初の数時刻に見える正の流れだけでは決まっていない。後の時刻に現れる負の相関が大きな割合で初期の寄与を打ち消し、その符号付き総和によって最終的な拡散係数が決まっている。短時間だけを見れば強く見える輸送が、長い履歴まで含めると遅くなるという構造が、実際の数値として現れている。
次に問うべきなのは、この長時間効果を縮約された模型の中に残したとき、拡散係数の予測がどう変わるかである。深津氏の計算では、高次相関の履歴を保持する時間幅を長くするにつれて、二サイト閉包の 1.3223 から離れ、Green–Kubo 法で得られた値へ近づいていく。
5. 履歴を長く残すと、輸送係数は 26R の値へ近づく
前章では、rule 26R の Green–Kubo 相関に、初期の正の寄与を後から打ち消す負の時間相関が現れることを見た。次に必要なのは、その履歴を縮約された模型の中でどこまで保持すれば、実際の長時間輸送を再現できるかという確認である。この問いは rule 26R だけに特有ではなく、微視的な粒子力学から巨視的な運動方程式を導く研究でも繰り返し現れる。
代表例が、硬球力学からボルツマン方程式を導く問題である。硬球模型では、多数の粒子が直線運動し、接触したときだけ弾性衝突する。微視的には各粒子の位置と速度を追跡できるが、ボルツマン方程式では、それらを一個ずつ記述する代わりに、ある位置と速度を持つ粒子がどの程度存在するかという一粒子分布を時間発展させる。
この縮約が成立するには、粒子同士の相関を適切に制御する必要がある。Lanford は、粒子径を小さくしながら粒子数を増やす Boltzmann–Grad 極限で、硬球力学からボルツマン方程式が導かれることを証明した[18]。ただし、その証明が直接扱える時間は短い。時間が長くなるほど、一度衝突した粒子が別の粒子との衝突を経て再び関係を持つなど、過去の衝突履歴によって生成された相関を無視できなくなるからである。
短時間なら、「衝突する直前の粒子はほぼ独立している」という近似を保ちやすい。ところが時間が進むと、ある衝突が次の衝突条件を変え、その結果がさらに後の衝突へ伝わる。粒子の現在位置だけを見ても、その配置がどの衝突経路を経て作られたかによって、その後の統計的な振る舞いが変わり得る。長時間導出では、この履歴をどこまで追い、どの部分を小さい誤差として捨てられるかが証明の中心になる。
Pulvirenti と Simonella は、Boltzmann–Grad 極限で粒子の統計的独立性から生じるずれを「相関誤差」として取り出し、その高次構造を解析した[19]。Bodineau、Gallagher、Saint-Raymond、Simonella は、希薄硬球系で生じる揺らぎを動的な相関として記述し[20]、さらに平衡近傍では長時間相関を線形化 Boltzmann 方程式の時間発展へ結び付けている[21]。同じ著者らによるクラスター展開では、複数の粒子が衝突履歴によって一つの依存構造を作る過程そのものが解析対象になる[22]。
Deng、Hani、Ma は、この長時間問題をさらに進めた。彼らの方法では、ある時刻の低次分布だけを使って相関を毎回消すのではなく、長時間キュムラントの中に、それまでに形成された完全な衝突履歴を保持する[23]。ただし、履歴をそのまま残せば組み合わせの数が急激に増えるため、衝突履歴を構造化し、危険な再衝突を含む部分を切り分けながら評価する。これによって、硬球力学からボルツマン方程式を、ボルツマン方程式の解が存在する時間範囲まで導出している。
この方法の意味は、「長時間ではすべての過去を保存しなければならない」ということではない。必要なのは、過去に生成された相関を、現在の低次分布だけでは不要だと判断して早い段階で消してしまわないことである。相関が後の運動へ影響を返す時間までは履歴を保持し、その効果を評価した後で、巨視的な記述へまとめる必要がある。
深津氏が rule 26R へ移しているのも、この考え方である[6]。硬球系では履歴を作るのは粒子同士の衝突だが、rule 26R ではセルの更新によって生成される高次相関がその役割を持つ。両者の微視的力学は異なるため、硬球の衝突幾何や Deng らの証明手法をそのまま使うことはできない。それでも、短い時間区間ごとに生成された相関を直ちにリセットせず、次の時間層へ受け渡すという設計原理は共通している。
rule 26R の計算では、その違いを時間層幅 \(\tau\) を変えることで調べている。ここで \(\tau\) は、一度の縮約で過去の相関をどの長さまで保持するかを表す。小さな \(\tau\) では、相関を短時間で打ち切る。大きな \(\tau\) では、より後の時刻まで続く正負の効果を残してから次の縮約へ進む。
結果は、保持する履歴の長さによって大きく変わる。時間層幅が 8 の場合、推定される拡散係数は 1.4464 であり、Green–Kubo 法の 0.5587 より大幅に大きい。時間層幅を 64 にすると 0.8581、384 では 0.5873、1200 では 0.5526 となり、履歴を長く保持するにつれて Green–Kubo 値の近傍へ移る[6]。
| 時間層幅 | 推定拡散係数 | その時間幅で残る効果 |
|---|---|---|
| 8 | 1.4464 | 初期の正の相関を強く受ける一方、その後に現れる負の相関の多くを取り込む前に履歴を打ち切る。 |
| 64 | 0.8581 | 後続する負の相関が計算に入り始め、短時間だけを見たときの輸送の過大評価が縮小する。 |
| 384 | 0.5873 | 長時間側の相関までかなり取り込み、Green–Kubo 法で得られる輸送係数へ近づく。 |
| 1200 | 0.5526 | さらに長い履歴を保持した結果、Green–Kubo 値 0.5587 の近傍に達する。 |
この表を「変数を多く残せば精度が上がる」と読むと、計算で何が変わっているのかを取り違える。主変数として使っているのは、どの時間層でも同じ二サイト分布である。変えているのは空間方向の変数の数ではなく、主変数から外した高次相関の影響を、時間方向にどこまで保持するかである。
時間層幅が短いと、各区間の終わりで相関を早く切り落とすため、次の区間では現在の低次分布から新たに時間発展を始めることになる。その時点までに形成された相関のうち、さらに後の時刻へ作用する成分は十分に引き継がれない。rule 26R では前章で見たように、初期には輸送を強める正の相関があり、その後にそれを打ち消す負の相関が続く。短い時間層だけを使えば前者を多く取り込み、後者を取り込む前に履歴を切るため、拡散を速く見積もりやすい。
時間層を長くすると、この非対称が小さくなる。初期の正の応答だけでなく、その後に生じる負の相関まで同じ履歴の中で評価されるため、輸送への正負の寄与が相殺される。時間層幅を 8 から 1200 へ伸ばしたときに拡散係数が 1.4464 から 0.5526 へ下がることは、長時間側の効果を取り込むほど、短時間の応答だけから予測した過大な輸送が修正されることを示している[6]。
ただし、この数値列だけから「時間層幅を無限にすれば必ず厳密な拡散係数になる」と結論することはできない。どの程度の時間で記憶が十分に減衰するか、その減衰を系の大きさや波数に対して一様に制御できるかは、別途示す必要がある。有限の時間層で値が Green–Kubo 法へ近づくという数値的事実と、長時間極限の数学的収束証明は区別される。
それでも、この計算から得られる構造は明確である。二サイト分布という同じ低次変数を使っていても、除外した高次相関の効果をどこまで時間方向に残すかによって、得られる巨視的な輸送係数は大きく変わる。低次モデルの精度は、保持する変数の種類だけでは決まらず、捨てた自由度が後続する時間発展へ作用する範囲も含めて決まる。
十分に長い時間がたち、過去の相関が現在へ及ぼす効果が小さくなれば、個々の履歴をいつまでも保持する必要はなくなる。その段階では、正負を含む履歴全体の効果を一つの拡散係数へまとめ、現在の巨視的な状態だけで時間発展を記述できる。単純な拡散方程式が成り立つとすれば、それは微視的な履歴が最初から不要だったからではなく、履歴の効果を輸送係数へ織り込んだ後に、その詳細を省けるようになったからである。
6. 厳密に言えることと、まだ仮説であること
ここまでを見ると、複数の計算が同じ方向を示している。二サイト閉包だけでは拡散係数を大きく見積もる一方、Green–Kubo 法と長波長モードは近い値を与える。さらに、高次相関の履歴を長く保持すると、その推定値も Green–Kubo 法の値へ近づいていく。この整合は、長時間の相関を無視できないという解釈を強く支持する。
ただし、複数の数値が一致することと、その間を結ぶ数理的な関係が証明されていることは同じではない。深津氏の最新版では、rule 26R について厳密に導かれた部分、数値計算によって支持されている部分、追加の仮定を必要とする部分が分けて整理されている[6]。この境界を確認しておくと、前章までの結果をどこまで一般化できるかが明確になる。
6.1 高次相関を落とすと何が残るかは厳密に書ける
最初に厳密なのは、rule 26R の完全な力学から低次の記述を取り出すまでの部分である。局所的な保存則を表す連続方程式、長さの異なるブロック分布が順に結び付く BBGKY 型階層、二サイト分布だけから計算する Boltzmann 型の項と高次相関から来る剰余への分解が、元の更新則から導かれている[6]。
前章までに使った式でいえば、
\[
p_{t+1}-p_t
=
Q^{\mathrm B}[p_t]
+
\mathcal R_t
\]
という分解そのものが、この段階に属する。現在の二サイト分布 \(p_t\) だけから計算できる変化を \(Q^{\mathrm B}[p_t]\) として取り出すと、それだけでは表せない高次相関の効果が \(\mathcal R_t\) として残る。つまり、「二サイトだけの記述へ縮めると、本来の力学との差がどこかに現れる」という点は、拡散係数の数値を見て推測したものではない。
さらに、平衡状態の近くで時間発展を線形化し、観測したい低次変数とそれ以外の自由度に分けると、離散時間の Mori–Zwanzig 型記憶方程式が厳密に得られる[6]。高次自由度を主変数から外した結果、その影響が過去の低次状態に依存する項として方程式へ戻る。この「縮約すると記憶項が現れる」という構造も、数値計算の形に合わせて後から付け加えた説明ではない。
ここまでで確定しているのは、除外した高次相関が存在することと、その自由度を消去した低次方程式には時間方向の記憶が現れることである。一方、その記憶核が実際の長時間輸送をどの値まで運ぶかは、ここから先の問題になる。
6.2 異なる計算方法が近い長時間輸送を示す
数値計算から得られる証拠は、一つの評価方法だけに依存していない。Green–Kubo 法では拡散係数が 0.55870 ± 0.00926、長波長のエネルギーモードの減衰からは 0.53233 ± 0.01603 と評価されている[6]。一方は平衡状態でのカレントの時間相関を積み上げる方法であり、もう一方は空間的にゆっくり変化するエネルギー分布が実際にどの速さで緩和するかを見る方法である。計算の入口が異なるにもかかわらず、両者は近い輸送係数を与える。
時間相関の中身にも、閉包では表しにくい長時間構造が見える。初期の正の寄与だけを足せば拡散係数に相当する値は約 1.818 まで上がるが、その後には約 −1.259 の負の寄与が続き、総和は約 0.559 まで下がる[6]。長時間輸送が短時間の流れをそのまま延長した結果ではなく、後続する相関による大きな打ち消しを含んでいることは、Green–Kubo 計算から直接確認できる。
さらに、履歴を保持する時間幅を延ばす計算では、推定拡散係数が 1.4464、0.8581、0.5873、0.5526 と変化し、Green–Kubo 法の値へ近づいていく[6]。現在の二サイト分布だけで閉じる記述より、長時間の履歴を取り込む記述の方が実系の輸送をよく再現するという傾向が、時間層幅を変えた計算からも現れている。
記憶の形そのものについても数値的な対応がある。有限波数のエネルギーモードの応答から逆算した記憶核と、平衡カレント相関から作った Green–Kubo 履歴核は近い振る舞いを示す。また、履歴核を時間ごとの形のまま使った方程式は、その総和だけを最初から一つの拡散係数として使う Markov 型の拡散方程式より、特に緩和の初期過程を高い精度で再現する[6]。
これらの結果は互いに同じ計算を繰り返しているわけではない。時間相関、長波長モード、時間層を変えた閉包、有限波数での記憶核という異なる観測方法が、長時間の履歴を残す必要があるという方向で整合している。そのため、「二サイト閉包で失われる長時間効果が輸送係数の過大評価に関係している」という解釈には強い数値的根拠がある。
6.3 Mori の記憶核と Green–Kubo の履歴核はまだ同じものと証明されていない
一方、前節の数値的一致から直ちに証明済みとは言えない箇所がある。特に重要なのが、有限波数の Mori–Zwanzig 方程式から厳密に定まる記憶核と、Green–Kubo のカレント相関から作る履歴核の関係である[6]。
両者は、どちらも「過去の状態が現在の輸送へどのように効くか」を時間ごとに表す。そのため、数値的な形がよく似ていれば同じものに見える。しかし、作り方は異なる。Mori の記憶核は、選んだエネルギーモード以外の自由度を射影によって消去したときに、厳密な縮約方程式の中へ現れる。一方、Green–Kubo の履歴核は、平衡状態で測ったカレントの時間相関から構成される。
深津氏の整理では、小さな波数 \(q\) に対して両者を
\[
m_s(q)
=
d_s^{\mathrm K}
+
O(q^2)
\]
と対応させることが想定されている[6]。ここで \(m_s(q)\) は波数 \(q\) のエネルギーモードに対する Mori の記憶核、\(d_s^{\mathrm K}\) は Green–Kubo カレント相関から構成した遅延時刻 \(s\) の履歴核である。\(O(q^2)\) は、\(q\to0\) で、両者の差の大きさが \(q^2\) の定数倍以下に抑えられることを表す。
この対応が成立すれば、射影によって厳密に生じる「記憶」と、実際のカレント相関として観測される「記憶」を、小波数極限で直接結び付けられる。しかし、26R についてこの関係が各遅延時刻 \(s\) で成立することは、現在の構成では証明されていない[6]。数値的に近いことは確認できても、二つの核が数学的に同じ対象であるという主張には追加の論証が必要になる。
この未証明部分があるため、第 4 章で見た約 −1.259 の負の Green–Kubo 相関を、そのまま「二サイト閉包が捨てた Mori 記憶項」と一対一に対応させることもできない。二サイト閉包が長時間輸送を過大評価すること、実系に大きな負の時間相関があること、記憶を長く残す近似が正しい輸送係数へ近づくことは、それぞれ確認されている。しかし、それらを一つの厳密な等式で結ぶ段階が残っている。
6.4 拡散そのものを長時間極限で証明するには、さらに条件が要る
もう一段先には、「26R のエネルギー分布が大きな空間と長い時間の極限で本当に拡散方程式へ収束するか」という問題がある。数値計算で拡散的な緩和を確認し、複数の方法から同じ拡散係数を得ることと、任意に大きな系について拡散極限を定理として示すことの間には、いくつかの証明課題が残る[6]。
まず、エネルギー以外に長時間残る保存量が存在すれば、それも巨視的な運動へ参加する可能性がある。そのため、任意の有限範囲にまたがる加法保存量を分類し、拡散極限で残る遅い変数が何かを確定する必要がある。局所的な保存則だけを確認しても、より広い範囲に隠れた保存量がないことまでは保証できない。
次に、高次相関が時間とともに十分弱くなることを制御する必要がある。記憶核が長時間後まで大きく残れば、過去の履歴を一つの有限な拡散係数へまとめることができない。数値計算では相関が減衰し、Green–Kubo の総和も安定しているが、その減衰率を系の大きさや波数に対して一様に評価することは別の課題である。
さらに、線形化した平衡近傍の記憶方程式が正しくても、それだけでは有限の振幅を持つ非線形なエネルギー分布を拡散時間まで追えるとは限らない。拡散極限では、空間尺度を大きくするのに合わせて時間尺度をその二乗程度まで伸ばす。その長い時間の間に高次キュムラントが増大せず、局所平衡からのずれを制御できることを示さなければならない。
深津氏は、この部分を Deng、Hani、Ma の硬球研究で用いられた長時間キュムラント制御との対応から検討しているが、26R では硬球系と異なる難しさがある[6]。硬球では危険な再衝突を生む粒子配置そのものが幾何学的に小さいことを利用できる。一方、離散的な 26R では同じ意味での小さな配置集合を使えず、多数の依存履歴が持つ正負の寄与を相殺させながら制御する必要がある。この符号相殺を長時間にわたって保つ評価が、無条件の拡散極限定理へ進むうえで大きな課題になる。
| 位置付け | 確認されている内容 | そこから言える範囲 |
|---|---|---|
| 厳密に導出 | 局所連続方程式、BBGKY 型ブロック階層、二サイト Boltzmann 項と高次相関剰余への分解、線形化した Mori–Zwanzig 型記憶方程式が導かれている。 | 低次変数だけへ縮約すると高次自由度の効果が剰余や記憶項として残ることは、模型の厳密な構造として述べられる。 |
| 数値的に支持 | Green–Kubo 法と長波長モードの拡散係数が近く、負の時間相関が観測され、履歴を長く保持する計算ほど同じ輸送係数へ近づく。 | 26R の長時間輸送を再現するうえで、現在の低次状態だけでなく時間をまたぐ相関が重要であるという解釈を強く支持する。 |
| 対応に仮説が必要 | 有限波数の Mori 記憶核と Green–Kubo 履歴核は数値的に近いが、小波数での項別対応は証明されていない。 | Green–Kubo の負の相関を、閉包で失われた Mori 記憶そのものとして一対一に同定することはできない。 |
| 長時間極限は未証明 | 保存量の完全分類、動的混合性、記憶核の一様減衰、非線形キュムラントの長時間制御、符号相殺を含む依存履歴の評価が残る。 | 数値的な拡散と輸送係数の一致を、無条件の非線形拡散極限定理が完成したことと同一視することはできない。 |
この区別を置くと、前章までの結果の意味も狭くなるのではなく、むしろ正確になる。厳密な縮約では、高次自由度を除くと記憶項が現れる。実際の 26R では、長時間の負の相関が輸送係数を大きく変える。さらに、その履歴を長く保持する近似ほど、独立な方法で求めた輸送係数へ近づく。この三つは異なる根拠から得られた結果であり、まだ一つの定理として完全に接続されてはいない。
それでも、二サイト閉包の失敗を単なる数値誤差として片付けることはできない。一歩先では約 2.45 % の平均誤差に収まる近似が、長時間では拡散係数を二倍以上大きく見積もる。その一方で、実系には初期の輸送を打ち消す長時間相関があり、その履歴を取り込むほど予測が実系へ近づく。26R から確実に読み取れるのは、低次モデルの正しさを判断するとき、現在の状態をどれだけ正確に再現できるかだけでは足りず、除外した自由度の効果がどの時間尺度まで戻ってくるかも評価しなければならないということである。
7. 単純な法則は、複雑さをただ消した結果ではない
rule 26R の結果は、巨視的な法則を作るための単純化そのものを否定しているわけではない。気体を記述するたびに全粒子の衝突履歴を追い、rule 26R の拡散を記述するたびに全セルの微視的状態を保存し続けるのであれば、低次の有効方程式へ縮約する利点は失われる。多数の自由度を少数の変数へまとめることは、巨視的な法則を得るために必要な操作である。
問われるのは、変数を減らしたとき、その変数が担っていた作用をどこまで残す必要があるかである。二サイト閉包では、現在の二サイト分布を主変数として残し、それより高次の分布を低次分布から再構成する。これによって計算は閉じるが、実際の時間発展で形成された四サイト以上の相関を独立した履歴としては引き継がない。前章までに見たように、一回の更新ではこの近似による差が小さくても、それを反復すると拡散係数は 1.3223 となり、Green–Kubo 法の 0.5587 付近を大きく上回る。
Mori–Zwanzig 型の縮約は、高次自由度を主変数として保持しない点では同じである。ただし、その自由度を経由して低次変数へ戻る作用まで消すのではなく、過去の状態に依存する記憶項として低次方程式へ移す。変数の数を減らす代わりに、それまで高次相関の時間発展として表されていた作用を、時間方向の履歴として表現し直している。
さらに長い時間と大きな空間尺度では、過去の状態を時刻ごとに永久に保持する必要もなくなる。時間相関が十分に減衰し、その符号付き総和が有限の値へ収束するなら、履歴全体が輸送係数としてまとめられる。Green–Kubo 公式で拡散係数を時間相関の総和から求められるのは、この段階に対応する。
この点は、既稿「時間はなぜ一方向に進むのか」で扱った問題ともつながる。そこでは、微視的な力学が可逆でも、相互作用によって情報が多数の自由度へ広がれば、少数の巨視的変数から過去を復元することは実効的に困難になるという構造を扱った[24]。rule 26R で見えているのは、その先である。少数変数から見えなくなった相関は、単に過去を復元するための情報として隠れるだけではなく、その後の輸送速度にも影響を返す。
既稿「相対性理論と量子力学の矛盾を追求する」では、観測できる量だけを系の全状態と同一視せず、観測から外れた自由度との相関がどこに保持されるかを区別した[25]。rule 26R は、その区別を統計力学の縮約問題として具体化する。二サイト分布だけを見れば消えたように見える高次相関も、完全な力学から消滅したわけではなく、その後の低次変数へ作用し得る。
ただし、26R について、微視的相関から Mori の記憶核、さらに Green–Kubo 履歴核を経て拡散係数へ至る全経路が一つの定理として完成しているわけではない。第 6 章で確認したように、Mori の記憶核と Green–Kubo 履歴核の小波数での項別対応や、無条件の非線形拡散極限には未証明部分が残る。そのため、三段階の矢印は現在の理論と数値結果から読み取れる構造を表しており、各段階が数学的に同一であることを意味しない。
それでも、二サイト閉包の一ステップ誤差が約 2.45 % に収まりながら、反復すると長時間の輸送係数を二倍以上に見積もるという事実は残る。そして、実際の 26R には初期の流れを大きく打ち消す負の時間相関があり、履歴を長く保持する計算ほど独立に測った拡散係数へ近づいていく。この組み合わせから、単純化の評価を「現在をどれだけ少ない変数で再現できるか」だけで済ませられないことが分かる。
単純な法則を得るには、複雑な情報を減らす必要がある。しかし、正しい長時間法則を得るには、減らした自由度が後の運動へ及ぼす作用を、無視できる時間尺度に達する前に切り捨ててはならない。rule 26R が具体的に示しているのは、巨視的な単純さが微視的な複雑さの単純な削除によって生まれるのではなく、その複雑さが残す効果を、記憶や輸送係数という別の形へ移したうえで成立するという構造である。
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