無限より先に、有限が手の届かない大きさになる

「有限」と聞くと、どれほど大きな対象であっても、時間をかけて一つずつ処理すれば最後には到達できるように思える。有限集合には最後の要素があり、有限回の操作には終端があるからである。この説明には、操作を実行する主体が使える時間や記憶容量も十分に大きいという条件が暗黙に含まれている。対象に終わりがあることと、その終わりまで現実の主体が到達できることは別の条件である。

たとえば 256 bit の鍵には 2256 通りの候補がある。候補数は有限であり、正しい鍵もその集合のどこかに存在する。総当たり探索という手順も明確で、候補を順番に試し続ければ理論上は正解へ到達できる。ここで、1 秒間に試せる候補数と装置を動かせる時間には上限がある。候補空間の大きさがその積を大きく上回れば、現実の到達可能性は探索手順の存在だけでなく利用可能な計算資源によって決まる。暗号の安全性を「破れるか、破れないか」という二値ではなく、正解へ到達するまでに必要な計算資源の大きさとして捉えた既稿でも、この区別を扱った[1]。

同じ差は、探索問題以外にも現れる。大規模言語モデルを手元の計算機で起動し、一度応答を得られることは、業務で継続して使うための条件の一部にすぎない。モデル本体がメモリーに収まっても、長い入力を処理すると追加のメモリーが必要になることがある。応答の生成時間も用途の成立条件になる。業務利用では、検索対象の管理、機密情報へのアクセス制御、生成結果の検証まで含め、モデル単体の起動可否より広い資源条件を評価する必要がある[2]。この場合も、「処理できる」と「与えられた時間、記憶容量、運用条件の中で使える」は異なる。

この区別を数学そのものへ移すと、対象の存在について別の問いが現れる。短い式で指定できる巨大な整数があったとしても、その全桁を書き出すために利用可能な記憶容量を超える領域が必要なら、式としての指定と具体的な数列への展開は別の条件になる。その整数について性質を証明できても、整数そのものの完全な構成には追加の資源が必要になる。数学では通常、こうした違いがあっても対象の存在自体は認められるが、有限な計算主体から見れば、それぞれは異なる条件である。

超有限主義は、このずれを自然数の存在そのものにまで持ち込む数学哲学の立場である。無限集合を完成された対象として認めないだけでなく、立場によっては極端に巨大な有限数についても、通常の小さな整数と同じ仕方で無条件に存在を認めることへ疑問を向ける。その主張を採用するかどうかとは別に、問いとして残るものがある。式で定義できること、存在を証明できること、計算手順があること、有限な資源で実行できること、得られた結果を検証できることは、それぞれ何を保証しているのかという問いである。


1. 有限であることは、扱えることを意味しない

有限な対象と無限な対象を区別するとき、最も分かりやすい違いは終端の有無である。候補が 100 個なら 100 個目で終わり、1 億個でも最後の候補は存在する。この意味では、有限集合に対する全探索は単純である。最初の候補から順番に調べ、見つからなければ次へ進む操作を繰り返せばよい。各候補を有限時間で確認できるなら、探索全体も有限回の操作で終了する。

「有限回で終了する」という分類は、終了までに必要な回数の大きさを区別しない。100 回の操作と 2256 回の操作は、どちらも数学的には有限回である。一方、実際の計算機には 1 秒間に実行できる操作数の上限があり、並列化する場合も使用できる計算装置の台数には上限がある。装置を無期限に稼働させることもできない。探索対象の規模が有限であっても、必要な操作回数がこれらの資源の積を超えれば、終了時点は数学的には存在していても、現実の計算過程としては到達できない。

256 bit の鍵空間では、この違いが明確になる。鍵を 1 bit 長くすると候補数は 2 倍になるため、探索装置の性能が同じなら総当たりに必要な処理量も 2 倍になる。鍵長を線形に増やしているだけでも、候補数は 2 の累乗として増える。計算機を高速化すれば 1 秒間に調べられる候補数は増やせるが、探索空間そのものが指数的に増える構造は変わらない。問題になるのは、正しい鍵へ到達するまでに通過する候補数であり、その数が増えている。

この関係では、対象の有限性と主体の処理能力が別々の量として現れる。鍵空間の大きさは暗号方式によって決まり、探索速度は計算機によって決まる。利用できる時間は運用条件によって決まる。同じ有限集合でも、探索速度や利用可能時間が変われば、到達できる範囲は変化する。反対に、計算機の性能を固定すれば、候補空間がある規模を超えたところから現実的な時間で探索可能な規模を超える。実行可能性は、対象の有限性と主体側の資源条件の組み合わせで決まる。

観点 256 bit 鍵探索で意味すること それだけでは分からないこと
有限性 候補数は 2256 個であり、集合には終端がある。 終端まで現実の時間内に探索できるかは分からない。
手順の存在 候補を一つずつ試す総当たり探索を定義できる。 その手順に必要な処理時間が利用可能な範囲に収まるかは分からない。
計算資源 探索速度、並列数、利用時間によって調べられる候補数が決まる。 資源を増やしても探索空間全体を現実的に覆えるとは限らない。
到達可能性 利用可能な資源の範囲で正しい鍵まで探索を進められるかを評価する。 正しい鍵そのものが数学的に存在するかという問題とは別である。

ローカル LLM では、探索とは異なる形で同じ構造が現れる。モデルファイルがストレージに収まり、重みをメモリーへ読み込めれば、少なくとも起動条件の一部は満たされる。推論時には入力や中間状態を保持する領域が必要になり、入力が長くなれば必要資源も変化する。1 回の応答を生成できても、処理速度が用途の要求を下回れば対話や繰り返し処理には使いにくい。業務利用では、参照データをどの範囲まで渡すか、出力を誰が確認するか、誤った出力をどの段階で止めるかという運用上の処理も必要になる。

この例では、「モデルが存在する」「モデルをロードできる」「推論処理を実行できる」「要求された時間内に結果を得られる」「得られた結果を業務上利用できる」という条件が順番に積み重なっている。前の条件は後ろの条件の前提になり得るが、十分条件ではない。モデルの起動と処理速度、推論の終了と出力の正しさ、出力の生成と機密情報の管理・結果の検証は、それぞれ別の条件である。

暗号鍵とローカル LLM は対象としては異なるが、いずれも可否は対象の性質と主体側の条件の組み合わせで決まる。暗号では候補集合と探索主体の計算能力の関係が到達可能性を決める。ローカル LLM ではモデルと実行環境、処理時間、運用条件の組み合わせが実用可能性を決める。対象が有限である、手順を記述できる、処理を開始できるという事実だけでは、必要な資源の範囲内で目的を達成できるという結論までは導けない。

数学的に見ると、この差を扱うには、「答えがあるか」「答えを得る手続きがあるか」という二つの問いに、資源量という第三の評価軸が必要になる。実行に何回の操作が必要か、どれだけの記憶容量を使うかを別に評価することで、有限回で終了する計算の中にも、現実の資源で実行できるものと、原理上は終了するが資源量が大きすぎるものという違いが生まれる。

有限な対象には終端がある。有限な主体がその終端まで到達できるかは、対象の大きさ、許される操作、各操作の費用、利用できる資源によって決まる。有限性は対象についての性質であり、到達可能性は対象と操作主体との関係についての性質である。この二つを分けると、「計算できる」という言葉の中にも異なる段階があることが見えてくる。次に必要になるのは、手順そのものが存在するという意味での計算可能性と、その手順をどれだけの資源で実行できるかという計算複雑性を区別することである。


2. 計算できることと、現実に計算できることは別である

前章で見たように、有限の機械的手続きで答えへ到達できるという計算可能性と、その手続きを現実の資源で実行できるという実行可能性は別の問題である。計算機科学では、この違いを「計算できる」という一語の中に閉じ込めず、異なる問題として扱ってきた。その最初の段階は、そもそも機械的な手続きによって答えへ到達できる問題と、そのような手続き自体が存在しない問題を分けることである。

Alan Turing は 1930 年代に、一定の規則に従って記号を読み書きしながら計算を進める抽象的な機械を定義し、有限の機械的手続きによって計算できるとは何を意味するのかを形式化した[3]。ここで問われるのは、現在の計算機で何秒かかるかではない。入力を与えたとき、規則に従って有限の手順を進め、最終的に答えを得られる計算方法が存在するかという問題である。この枠組みによって、計算方法を工夫すれば解ける問題と、そもそも一般的な計算手続きでは解けない問題を数学的に区別できるようになった。

計算手続きの存在と、その手続きの実用性は別の条件である。たとえば、ある入力について 10 回の操作で答えが得られるアルゴリズムと、10 の何十乗回もの操作を必要とするアルゴリズムがあったとしても、どちらも有限回で停止するなら計算可能性という点では同じ側に属しうる。前者なら現在の計算機でも直ちに実行できるかもしれないが、後者では各操作を極端に高速化しても、終了までの時間が利用可能な範囲を超えることがある。計算可能性という分類だけでは、この資源量の差を表現できない。

そこで必要になるのが、計算そのものではなく、その計算に必要な資源を測る視点である。Juris Hartmanis と Richard E. Stearns は 1965 年、アルゴリズムが入力の大きさに応じてどれだけの計算時間を必要とするかを体系的に扱い、計算複雑性を研究する基礎を示した[4]。入力が 2 倍になったとき処理時間もおおむね 2 倍になる計算と、入力が少し増えただけで必要な操作回数が急増する計算では、同じ「計算可能」であっても利用可能な範囲が大きく異なる。計算方法の存在を確認したあとに、その方法が消費する時間や記憶容量を評価することで、初めて現実の計算主体にとっての実行可能性を区別できる。

この区別を使うと、「計算できない」という表現にも少なくとも二つの異なる状態があることが分かる。一つは、どのような一般的手続きを作っても答えへ到達できない計算不能である。もう一つは、アルゴリズムは存在し、有限回で答えも得られるが、必要な時間や記憶容量が利用可能な資源を超えるために実行できない状態である。後者では、答えへの経路自体は定義されており、数学的な障害ではなく、その経路の長さや途中で必要になる資源量が実行主体の限界を超えている。

段階 問われること 成立しても保証されないこと
問題の定義 入力と求める答えを数学的に指定できる。 答えを得る計算手続きが存在するとは限らない。
計算可能性 有限の機械的手続きによって答えを求められる。 必要な時間や記憶容量が現実的な範囲に収まるとは限らない。
計算複雑性 入力規模に応じて必要な時間や記憶容量がどのように増えるかを評価できる。 特定の実行環境で要求時間内に処理できるとは限らない。
実行可能性 利用できる計算資源の範囲で実際に結果へ到達できる。 得られた結果を容易に検証できるとは限らない。

この階層は、前章の暗号鍵探索をより正確に位置付ける。256 bit の鍵空間に対する総当たり探索には、候補を順番に試す明確なアルゴリズムがある。正しい鍵と探索方法はいずれも存在するが、候補数が 2256 に達すると、必要な操作回数が実行可能性を左右する。必要資源が大きければ、現実の攻撃者は正解へ到達できない。この差こそ、計算可能性だけでは表せず、計算複雑性を導入することで見える性質である。

ここまで分解すると、数学的な「可能」にも複数の条件が重なっていることが分かる。対象を有限な記号列で指定できることと、その対象の性質を証明できることは違う。証明できることと、その値を具体的に計算できることも違う。計算アルゴリズムが存在しても、有限な主体が利用できる時間や記憶容量の中で実行できるとは限らない。計算結果を得られたとしても、その結果全体を保持したり、正しさを確認したりするために別の資源が必要になる場合がある。

計算機の性能向上は、実行可能性の境界を移動させる。計算資源が増えれば、それまで到達できなかった範囲へ進めることができる。しかし、入力や対象の規模に応じて必要資源が急速に増える構造が残るなら、境界の位置が移動しても、計算可能性と実行可能性の区別そのものは残る。どこまで処理できるかは実行主体によって変化する一方、ある手続きが計算可能かどうかという分類とは別の問題として扱う必要がある。

この観点を自然数へ向けると、計算機科学で現れた区別が数学的対象そのものへ入り込んでくる。一つ一つの整数は有限であり、短い式だけで非常に大きな整数を指定することもできる。その整数を十進数としてすべて書き出すために必要な桁数が利用可能な記憶容量を超えれば、数を指定できることと、その数を完全に展開できることは分離する。その数についてある性質を証明できたとしても、その値そのものを現実の計算で構成できるとは限らない。次に問うべきなのは、こうした巨大な有限数について「存在する」と言うとき、数学が実際に何を主張しているのかである。


3. 無限へ行く前に、有限が手の届かない大きさになる

前章では、計算手続きが存在することと、その手続きを利用可能な資源で実行できることを分けた。この区別を自然数そのものへ適用すると、有限な対象についても同じ問題が現れる。ある整数を短い式で指定できても、その整数を具体的な数字列として展開するための資源量は、式を記述するための資源量と大きく乖離し得る。演算を重ねることで、記述そのものは短いまま、指定される整数だけを急速に巨大化できるからである。

この問題を算術の形式体系の中で明確に扱った研究の一つが、Rohit Parikh の 1971 年の論文「Existence and Feasibility in Arithmetic」である。Parikh が注目したのは、指数演算などを重ねると、有限でありながら実際には構成困難なほど巨大な整数を短い式から指定できることであった。そのうえで、形式体系の中である整数の存在を証明できることと、その整数を実際に構成できるという意味での実行可能性を区別した[5]。

たとえば、ある整数を「特定の演算を何回か適用した結果」として短く記述できるなら、その式そのものを保存するために必要な文字数は少なくて済む。一方、その計算結果を十進数としてすべて書き出そうとすれば、桁数に比例した記憶領域が必要になる。演算によって値が急速に増えれば、短い記述と展開後の表現に必要な資源の差も急速に広がる。数学的には一つの有限整数であっても、その全桁を保持するために必要な記憶容量が利用可能な物理資源を超えれば、式としての指定と数字列としての具体化は分離する。

この違いは、単に「数が非常に大きい」という程度を超えた問題である。小さな整数では、式で指定すること、値を計算すること、十進表記を書き出すことの間に大きな差がないため、これらを一続きの操作として扱える。対象が巨大になると、指定、計算、展開、保存という各段階が別々の資源条件を持つようになる。有限という性質は変わらないまま、その整数へどの形式で到達できるかだけが分離していく。

段階 巨大な有限整数について成立しうること 次の段階で必要になる条件
式による指定 短い記号列によって整数を一意に指定できる。 その式を実際に評価できる計算資源が必要になる。
値の計算 有限回の演算として値を定められる。 必要な時間と記憶容量が利用可能な範囲に収まる必要がある。
完全な展開 結果を十進表記などの有限な数字列として表せる。 全桁を保持できる記憶領域が必要になる。
検証 得られた表現が指定した整数と一致するか確認できる。 検証手順そのものにも時間や記憶容量が必要になる。

資源の差は、数そのものだけでなく証明にも現れる。Parikh は 1973 年の論文で、形式体系における証明の長さを研究対象とした[6]。ある命題について「証明が存在する」という事実と、その証明をどれだけの記号列として書く必要があるかの両方を問う必要がある。証明が有限であっても、その長さが現実に保存、読解、検証できる範囲を超えれば、証明可能性と実際の証明利用との間に距離が生じる。

ここでも構造は整数の場合と同じである。命題の記述が短くても、その証明が短いとは限らない。ある形式体系の中で証明の存在を保証できても、最短証明そのものが非常に長ければ、それを具体的に生成するための時間が必要になる。証明を得たあとも、各推論規則が正しく適用されているかを確認するには証明列を読み進めなければならない。存在、構成、保存、検証の各段階で、それぞれ異なる資源が必要になる。

Samuel Buss は後に、Parikh のこれらの研究が有界算術と証明複雑性へつながった経緯を整理している[7]。有界算術では、通常の算術で用いる量化や帰納法に一定の制約を設け、どの程度の計算資源に対応する推論が可能なのかを調べる。Buss 自身も 1986 年の著書で、その体系を詳細に展開した[8]。ここでは、自然数について何が真かだけでなく、限られた形式体系がどの範囲の計算や証明を表現できるかが研究対象になる。

この流れを見ると、巨大な有限数をめぐる問いは、数学哲学のほか、数理論理、計算機科学、算術の問題としても現れる。数理論理では、ある命題を証明できることと、その証明に必要な長さを分けて研究できる。計算機科学では、計算手続きの存在と、必要な時間や記憶容量を分けて研究できる。算術についても、対象の存在を認めることと、その対象へ有限資源で到達できることを別の条件として扱える。有限と無限の境界に到達する前に、有限な対象の内部ですでに複数の到達可能性が分かれている。

ただし、この区別をそのまま「実際に構成できないほど巨大な数は存在しない」という結論へ進めると、新しい困難が生じる。たとえば、ある時点で 1000 までの整数を扱えるとする。そのとき 1000 に 1 を加える操作を認めるなら、1001 も得られる。1001 に同じ操作を適用すれば 1002 へ進める。この操作を認めながら、「ここから先の整数は存在しない」という境界を置くには、その境界だけで加算や後者関数の扱いを変える理由が必要になる。巨大な有限数への到達可能性を制限することと、自然数そのものの存在範囲を制限することは同じではない。次に検討する必要があるのは、有限性を重視する立場が、この境界をどのように定められるのかという問題である。


4. どこから先を「存在しない」とするのか

前章までの議論では、有限な整数であっても、式として指定できること、値を展開できること、証明できること、有限な資源で検証できることが分離する場合を見てきた。この差を認めるだけなら、巨大な整数の存在そのものを否定する必要はない。通常の数学では、現実に全桁を書き出せない整数であっても、形式体系の中で一意に定義されていれば自然数として扱うことができる。超有限主義が踏み込むのは、この数学的存在の扱いそのものへ有限性の条件を持ち込む点である。

数学哲学には、無限集合や数学的対象をどのような意味で存在すると認めるかについて複数の立場がある。超有限主義はその中でも強く有限性を要求し、自然数全体を完成された無限集合として扱うことにも、極端に大きな有限数を通常の小さな整数と同じ仕方で無条件に認めることにも疑問を向ける[9]。有限主義の中には、どの時点でも扱う数は有限だが、必要に応じてさらに大きな数へ進めるという考え方もある。超有限主義では、この「必要ならいくらでも先へ進める」という前提自体が、有限な主体には実行できない無制限の反復を暗黙に認めているのではないかと問われる。

この問題が近年あらためて議論されていることは、2026 年に Quanta Magazine が掲載した Gregory Barber の記事からも確認できる。記事では Doron Zeilberger、Rohit Parikh、Edward Nelson、Nicolas Gisin、Sean Carroll らの研究を通じて、巨大な有限数、無限精度の実数、有限な物理系といった異なる問題が超有限主義の観点から接続されている[10]。その背景には、2025 年 4 月に Columbia University で開催された「Ultrafinitism: Physics, Mathematics, and Philosophy」がある。数学、哲学、物理学、計算機科学の研究者が集まり、数学的には性質を決定できる巨大な有限対象について、有限な計算主体がその結果へ到達できない場合に、存在や真理をどのように理解するかが検討された[11]。

超有限主義を形式体系として表そうとすると、通常の算術で日常的に使っている原理まで制限する必要が生じる。Edward Nelson は、通常の算術より弱い体系の中でどこまで自然数論を展開できるかを研究し、帰納法を強く制限した Predicative Arithmetic を構築した[12]。帰納法は、ある性質が最初の数について成立し、ある整数について成立するならその次の整数についても成立することを示すことで、すべての自然数へ主張を広げる原理である。この原理を無制限に使えば、個々の数を実際に構成しなくても、任意に遠い自然数まで一度に推論を広げられる。有限性を厳格に要求する立場では、この拡張をどこまで認めるか自体が検討対象になる。

Doron Zeilberger はさらに強い立場から、無限集合や連続体を数学の基礎に置く必要性そのものを疑っている。連続解析を有限で離散的な数学の極限的な扱いとして捉え直し、数学を有限計算に近い形へ再構成する立場を明示している[13]。この立場では、無限や連続体を利用すると計算や証明が簡潔になるという事実と、それらを数学的実在として認めることを分けて考える。数学上便利な表現だからといって、その表現に含まれるすべての対象を同じ存在論的地位で認めなければならないとは限らない、という考え方である。

しかし、有限な範囲だけを認めようとすると、自然数に固有の構造が障害になる。自然数には、ある整数に 1 を加えて次の整数を作る操作がある。たとえば 1000 を認め、通常の加算を認めるなら、1000 + 1 によって 1001 が得られる。1001 と加算を認めれば 1002 も得られる。同じ操作を何度も適用できる限り、「1000 までは存在するが 1001 は存在しない」という境界には、その地点だけで加算を停止させる追加の理由が必要になる。

この困難は、単に境界値を十分大きくすれば解消するものではない。最大値を 1000 から 10100 に移しても、その最大値に 1 を加える操作をどう扱うかという問題は同じ形で残る。最大数をどれほど遠くへ置いても、通常の後者関数、すなわち次の自然数を作る操作をその地点でだけ禁止すれば、算術の規則そのものに例外が生じる。反対に、任意の扱える整数について後者関数を認めるなら、現在の範囲を超えてさらに先へ進める可能性を認めることになる。この二つの要求を同時に満たすことが、固定された最大数を持つ素朴な超有限主義の難所になる。

考え方 成立すること 生じる困難
固定された最大数を置く 認める自然数の範囲を有限集合として明確に区切れる。 最大数に後者関数を適用した結果だけを認めない理由が必要になる。
扱えるすべての数に後者関数を認める 通常の自然数演算を一様な規則として維持できる。 現在の範囲を越えて何度でも先へ進める可能性を認めることになる。
操作可能な範囲を制限する 数そのものに絶対的な境界を置かず、実行可能な操作だけを限定できる。 どの操作をどの範囲まで認めるかを形式体系として定義する必要がある。

Vladimir Sazonov は、この第三の方向から「実行可能な数」を形式化しようとした。1990 年代の研究では、日常的に扱える小さい数、有限な手続きで実行可能とみなす数、それを超える巨大な数の差を、実行可能性に関する性質として論理体系の内部で表現する方法を検討している[14]。ここで焦点になるのは、「最後に存在する数」の指定よりも、加算、乗算、指数演算などを繰り返したとき、どの範囲までの操作を実行可能として保持できるかを体系の性質として記述することである。

この違いによって、問いの形が変わる。「最大の自然数はいくつか」と考えると、自然数列のどこかに一本の境界線を引く問題になる。有限な主体が利用できる範囲では、絶対的な最大値よりも、現在扱える対象と、その対象に対して許される操作との関係が重要になる。加算までは実行できても指数演算を繰り返せない場合もあり、短い式で指定できても結果全体を展開できない場合もある。どこまで到達できるかは、数そのものだけではなく、どの操作を何回適用できるかによって変わる。

こうして境界を数そのものから操作可能性へ移すと、有限性を保ちながら算術の範囲を拡張する別の考え方が可能になる。現在扱っている領域には上限があっても、その領域を最終的な自然数世界に固定せず、必要な操作を実行できるより大きな有限領域へ移ることを認める方法である。この構造では、特定の一つの整数を絶対的な最大数として置かずに済む。次章では、この考え方を有限な算術世界の拡張として形式化した議論を見る。


5. 有限な世界は、さらに大きな有限世界へ拡張できる

前章で見たように、有限な自然数の領域に絶対的な最大値を置くと、その最大値に後者関数を適用した結果をどう扱うかという問題が生じる。通常の算術では、ある整数 n を認めるなら n + 1 も自然数として扱う。ところが、有限な領域を一つだけ最終的な世界として固定すると、その端にある数についてだけ同じ操作を続けられなくなる。厳格有限主義には、この点から、後者関数に閉じた自然数の領域が有限の上限を持つことはできないのではないかという批判が向けられてきた。

Ofra Magidor は 2007 年、この反論がそのまま厳格有限主義を否定するわけではないと論じた[15]。反論の側では、扱えるすべての自然数について後者関数が同じ意味で適用でき、その結果も同じ領域に属さなければならないという前提を置いている。しかし、有限な数学を考える立場が、そのような閉包性を無条件に受け入れるとは限らない。有限性を採用することと、通常の自然数構造をそのまま有限区間へ切り取ることは同じではない。

この区別によって、「有限な数学には必ず一つの最大数が必要である」という見方も再検討できる。ある時点で扱える数の範囲に上限があっても、その上限を数学的に到達可能な絶対的終点とみなす必要はない。現在の領域では定義できない操作があったとしても、その操作を実行する必要が生じたときに、より大きな有限領域へ移るという構造を考えることができるからである。

Joel David Hamkins は 2026 年、この発想を潜在主義的な超有限主義として形式化した[16]。Hamkins が扱う有限算術モデルには最大の要素が存在し、その有限領域の内部だけを見ると、加算や乗算はすべての入力について定義できるとは限らない。たとえば、領域の上端付近にある二つの数を加えた結果が現在のモデルの最大値を超えるなら、その演算結果はモデル内部には存在しない。この意味で、算術演算は部分的になる。

しかし、その有限モデルをより大きな有限モデルへ拡張すれば、元のモデルでは結果を収容できなかった演算を、新しいモデルの内部で定義できるようになる。小さいモデル M の上端で未定義だった加算が、より大きなモデル M+ では通常の加算として扱えるという構造である。元のモデルに含まれていた数や既に定義されていた演算を保持したまま、より広い範囲で算術を続けられるため、現在の最大値を絶対的な最大数とみなす必要がない。

構造 現在の有限モデルで起きること 拡張後に起きること
数の範囲 有限個の数だけを含み、最大の要素を持つ。 元の数をすべて含んだ、より大きな有限領域を持つ。
加算 結果が領域外へ出る入力についてはモデル内部で定義できない。 より大きな結果を収容できるため、元の領域では未定義だった加算を定義できる。
乗算 値が急速に大きくなるため、上端付近では結果が領域を超えやすい。 領域を拡張することで、より多くの入力について結果を持てる。
最大値 そのモデルには最大の数がある。 以前の最大値は新しいモデルでは途中の数になり、新たな最大値が現れる。

この拡張を繰り返すと、各段階では有限性を保ちながら、算術の適用範囲だけを広げていくことができる。ある段階では 1000 が最大値であっても、次の段階では 1001 やそれ以上の数を含められる。より大きな演算結果が必要になれば、もう一段広い有限モデルへ移る。どの段階にも有限個の要素しかないが、特定の一段階を「これより先には数学的対象が存在しない」という絶対的な世界として固定しない。

Hamkins の議論では、この有限モデルの拡張をどのように反復できるかと、有界帰納法を備えた算術体系 IΔ0 との関係も検討される[16]。ここで有界帰納法とは、帰納法そのものを完全に捨てるのではなく、量化する範囲を一定の形で制限した帰納法である。有限なモデルを一段ずつ拡張する構造と、どの範囲の帰納的推論を正当化できるかが対応するため、潜在主義的な超有限主義は単なる「必要になったら大きくすればよい」という直観ではなく、形式算術との関係を持つ数学的問題になる。

この構造によって、二つの極端な選択肢の間に別の見方が生まれる。一方には、自然数全体を最初から完成された無限として扱う通常の数学がある。他方には、ある有限数を絶対的な最大値として固定する考え方がある。潜在主義的な見方では、現在の数学的世界は常に有限でありながら、その世界をより大きな有限世界へ拡張する可能性を認める。有限性と拡張可能性を別々の条件として扱うことで、固定された最大数を置かずに有限的な算術を考えられる。

ここで変わるのは、数そのものへの問い方である。「この数は存在するか」と対象だけを見れば、存在か非存在かの二値を求めることになる。有限モデルの拡張を考えると、代わりに「現在のモデルにその数が含まれているか」「どの演算を適用すれば、その数を含むより大きなモデルが必要になるか」という関係を問える。ある数が現在の領域に存在しなくても、その数を必要とする演算を含む拡張先を構成できるなら、現在の非存在と絶対的な非存在を区別できる。

この違いは、本稿で分けてきた数学的存在と到達可能性にも対応する。到達可能性は、現在利用できる領域、そこで実行できる操作、その操作を続けるために必要な拡張を分けて記述できる。対象の範囲を一度に確定するのではなく、どの操作によってどの範囲まで進めるかを段階的に記述できる。

ただし、この形式的な構成から、現実の宇宙について直接の結論は導けない。有限算術モデルを数学的に構成できることは、空間や時間が離散的であることも、宇宙が有限個の状態しか持たないことも意味しない。ここまで示されたのは、完成された無限を前提としなくても一定の算術構造を形式化できるという数学内部の事実である。次章では、この数学的可能性と物理的実在性を分けたうえで、物理学が利用する無限精度の実数と、有限な物理系が実際に保持できる情報量との関係を検討する。


6. 物理学では無限精度を実在とみなせるのか

前章までに扱った有限算術は、完成された無限を前提としなくても一定の数学を構成できることを示す議論であった。ここから現実の宇宙も有限であるという結論は導けない。物理学で別に問わなければならないのは、自然現象を記述する数学が無限精度を許すことと、物理系そのものが無限精度の情報を保持していることが同じなのかという点である。

古典力学では、物体の位置や速度などを実数で表す。たとえば位置をある実数 x で指定すれば、数学上はその値を小数点以下の任意の桁まで考えることができる。有限桁で終わる数や一定の規則で生成できる数は実数の一部にすぎず、一般の実数を完全に指定するには無限に続く情報が必要になる。この数学的性質を物理状態へそのまま対応させると、一つの物体の位置や速度にも無限量の情報が最初から含まれていることになる。

Nicolas Gisin は、この対応を物理的実在についての自明な前提とみなすことに疑問を呈している[17]。古典力学の方程式が実数を使うことと、自然界の一点が実際に無限桁の数値を保持していることは別の主張である。実験では位置や速度を有限の精度でしか測定できず、測定精度を高めるにも装置、時間、エネルギーといった資源が必要になる。それにもかかわらず、理論上の初期条件だけには無限桁の値が最初から確定していると置けば、観測できない情報を物理状態の一部として仮定することになる。

この違いは、カオスを考えると特に表面化する。カオス的な系では、初期条件のわずかな差が時間とともに大きな差へ拡大する。そのため、将来の状態を所定の精度で長時間予測するには、初期状態をそれに対応した精度で知る必要がある。標準的な古典力学では、初期条件を完全な実数として置くことで、その情報が数学上は最初から存在すると考えられる。物理系が有限量の情報しか保持できない場合には、遠い将来の予測に影響する桁まで現在の状態に実在しているという前提そのものを見直す余地が生じる。

Gisin はこの問題に対して、直観主義数学を用いた別の物理記述も検討している[18]。その考え方では、未来について必要になるすべての数値が最初から完成された無限桁の実数として与えられているとは仮定しない。時間の進行とともに新しい情報が確定していくような数学的表現を許すことで、物理的な不確定性を単に「未知の無限桁がすでに存在する」と説明する以外の記述が可能になる。

この研究から、古典力学で実数を使うことが誤りだとは言えない。実数による解析は物理学で広く用いられており、有限精度の観測結果を連続的な方程式で高精度に記述できる。Gisin の議論が分離するのは、実数を計算や理論の道具として使うことと、その実数の全桁を自然界が物理的情報として保持していると解釈することである。数学的表現として必要な構造と、その構造に対応する物理的実体の存在は別に検証する必要がある。

評価軸 実数を使うことで成立すること そこから直接は導けないこと
数学的記述 位置や速度を任意の精度を持つ実数として定義し、連続的な方程式で扱える。 自然界の物理状態が実際に無限桁の情報を保持しているとは限らない。
理論計算 完全な初期条件を仮定すれば、古典方程式上では時間発展を一意に定められる。 その完全な初期条件を物理的に準備、保存、測定できるとは限らない。
観測 有限精度の測定値を実数の近似値として記録できる。 測定されていない無限桁まで物理的に確定していることは確認できない。
存在論 実数を含む理論によって観測結果を記述できる。 理論が使うすべての数学的対象が物理世界にも同じ形で実在するとは限らない。

有限性を量子力学の側から検討する例もある。Sean Carroll は、有限次元のヒルベルト空間を基礎にし、時間発展を離散化することで、系が訪れる状態ベクトルを有限・離散集合として扱う量子力学モデルを構成している[19]。この構成は、標準的なユニタリー量子論の枠組みを保ちながら、系が実際にたどる状態の集合を有限にできる可能性を示す。

ここでも、モデルを構成できることと、そのモデルが現実の宇宙を記述していることは分ける必要がある。有限・離散的な量子理論が数学的に整合的であっても、現在観測されている量子現象を必要な精度ですべて再現できるか、重力や宇宙論とどのように接続するかという条件が残る。Carroll 自身も宇宙論的な課題を挙げており、この研究は宇宙が有限個の状態からできていることを実証したものではない[19]。確認できるのは、連続的で無限精度の状態空間だけが量子力学を記述する唯一の数学的選択肢とは限らないという点である。

物理系が保持できる情報量そのものに上限を与える議論には、より古い理論的背景がある。Jacob Bekenstein は 1981 年、有限の大きさと有限のエネルギーを持つ物理系について、そのエントロピーに一定の上限が生じることを論じた[20]。エントロピーは物理系が取りうる微視的状態の数と関係するため、この上限は、有限領域へ任意に多くの情報を詰め込めるわけではないことを示す理論的制約として読める。

ただし、Bekenstein の議論から「宇宙全体には有限個の状態しか存在しない」と結論することはできない。上限は特定の物理条件を満たす有限の系について論じられており、宇宙全体の大きさや状態数を直接決定するものではない。また、空間や時間が最小単位に分割されていることを示す結果でもない。有限な物理系について情報容量に制約が生じうることと、自然界そのものが完全に離散的で有限であることの間には、さらに物理理論と観測による検証が必要になる。

Gisin、Carroll、Bekenstein の議論は同じ主張をしているわけではない。Gisin は実数に含まれる無限情報を物理状態へ対応させる前提を問い、Carroll は有限・離散的な量子力学を数学的に構成できることを検討し、Bekenstein は一定の物理系が保持できる情報量に上限を与える。出発点も理論も異なるが、三者には、数学的記述が許す情報量と物理系が保持できる情報量を自動的に同一視しないという共通点がある。

この区別は、前章までの数学的な議論と同じ構造を持つ。巨大な整数では、短い式で対象を指定できることと、その全桁を有限資源で展開できることを分けた。有限算術モデルでは、ある数をより大きな数学的世界で扱えることと、現在のモデルにその数が含まれることを分けた。物理学では、実数を用いた理論が状態を無限精度で表現できることと、物理系がその情報を実際に保持、区別、観測できることを分けることになる。

数学は、現実の測定精度に合わせて数学的対象を制限する必要はない。無限集合や実数、連続体を利用することで、有限の観測値から規則性を抽出し、現象を簡潔に記述できる。その有用性と、理論で使う数学的対象をそのまま物理的実在とみなすことは別である。ここまでの議論から残るのは、無限を数学から排除する必要性ではなく、数学的に表現可能であることと、有限な主体や物理系にとって実現可能であることを区別する必要性である。


7. 無限を否定しなくても、超有限主義の問いは残る

ここまで扱ってきた研究は、超有限主義という一つの立場を異なる分野から証明しているわけではない。Parikh が扱ったのは、算術における存在と実行可能性の差であり、その問題設定は後の有界算術や証明複雑性へつながった。計算複雑性理論が測るのは、アルゴリズムが存在するかだけでなく、その実行にどれだけの時間や記憶容量が必要になるかである。Gisin、Carroll、Bekenstein の議論も、それぞれ実数の物理的解釈、有限な量子力学モデル、有限な物理系の情報量という異なる問題を扱っている。これらを一つの理論としてまとめることはできない。

それでも、各分野で繰り返し現れた区別には共通した構造がある。ある対象を数学的に指定することとその対象全体を展開すること、計算手順の存在と利用可能な時間内での終了、証明の存在とその証明が生成・保存・検証できる長さであること、無限精度の理論表現と物理系が保持する情報量は、それぞれ別の条件である。共通しているのは、形式的な存在や表現だけでは扱える範囲が決まらず、許される操作、利用可能な資源、採用するモデル、物理的条件を追加して評価する必要がある点である。

対象 形式的に成立すること 有限な主体について別に問うこと
巨大な整数 有限な式によって整数を指定し、その存在を形式体系の中で扱える。 値を計算し、全桁を保存し、結果を検証できるだけの資源があるかを別に評価する。
アルゴリズム 入力から答えへ到達する有限の計算手続きを定義できる。 必要な時間や記憶容量が利用可能な範囲に収まるかを別に評価する。
証明 形式体系の中で命題に証明が存在しうる。 証明を生成、保存、読解、検証できる長さであるかを別に評価する。
物理状態 実数や連続的な状態空間を使って理論上の状態を表現できる。 その情報を物理系が実際に保持し、観測によって区別できるかを別に評価する。

この構造では、許される操作や資源、モデルの範囲が到達可能な範囲を規定する中心的な条件になる。暗号鍵の候補集合は計算機の性能が変わっても同じだが、一定時間内に探索できる領域は変わる。巨大な整数を指定する式は同じでも、利用できる記憶容量によって展開できる桁数は変わる。有限算術モデルでも、より大きなモデルへ移れば、それまで未定義だった演算を扱えるようになる。対象が変わらなくても、許される操作、利用できる資源、採用するモデルが変われば到達可能な範囲は変化する。

この点まで分ければ、「無限は実在するのか」という存在論的な問いに決着を付けなくても、有限な主体について議論を続けられる。自然数全体を通常の数学と同じように認めてもよい。実数や連続体を解析の基礎として利用してもよい。数学的対象の存在範囲と、人間や計算機が有限資源で構成できる範囲は別々に決まる。

逆方向の推論も成立しない。ある巨大な整数を現実には展開できないからといって、その整数が数学的対象として存在しないことにはならない。ある実数を無限精度で測定できないからといって、実数を使った物理理論が無効になるわけでもない。実行可能性の制約から数学的存在を否定するには追加の存在論的前提が必要であり、超有限主義はまさにその追加部分について複数の立場を持つ。本稿で確認してきた研究から直接得られるのは、存在の否定ではなく、存在と実行可能性を同一視できないというところまでである。

超有限主義がこの区別を明瞭にするのは、通常規模では重なって見える条件を、巨大な対象で分離して考えるためである。3 や 1000 程度の整数では、定義、計算、展開、保存、検証をほぼ連続した操作として実行できる。ところが、短い式で指定できても全桁を物理的に保存できない数まで対象を拡大すると、それまで重なって見えていた条件が分離する。極端な巨大数は、新しい種類の数学的存在を作るというより、通常の規模では見えにくかった既存の区別を露出させる。

同じことは無限についても言える。無限集合や実数を数学から排除するかどうかと、それらを扱う有限な主体にどのような制約があるかは別の問いである。前者は数学基礎論や数学哲学における存在論の選択を含む。後者は、計算時間、記憶容量、証明長、測定精度、物理的情報量といった具体的な制約として調べることができる。存在論について異なる立場を取っていても、有限な主体が有限な資源しか持たないという条件の下では、後者の問題を共有できる。

この意味で、超有限主義から残る問いは「無限を捨てるべきか」ではない。数学的に存在すると認めた対象について、どの表現を作れるのか、どの操作を実行できるのか、どの結果へ到達できるのか、どこまで検証できるのかを分ける必要があるという問いである。超有限主義の最も強い存在論を採用しなくても、この分解は消えない。むしろ通常の数学を維持したままでも、有限な主体が数学を利用する場面では常に残る。

ここまでで、「存在する」と「扱える」を分ける理由は揃った。最後に必要なのは、これまで別々に現れた定義、証明、計算、実行、検証、物理的実現という条件を一つの関係として整理することである。数学的対象がどこまで存在するかだけではなく、どの主体が、どの操作を使い、どれだけの資源によってその対象へ到達できるかを含めて考えると、本稿で扱ってきた巨大数、計算複雑性、有限算術、物理的情報量を同じ枠組みの中に位置付けられる。


8. 数学的存在には、複数の距離がある

本稿の出発点だった暗号鍵では、正しい鍵は有限な候補集合の中に存在し、総当たりという探索手順も定義できた。候補数が利用可能な計算資源を超えれば、現実の計算主体は正解へ到達できない。巨大な整数では、短い式によって一意に指定できても、その全桁を計算し、保存し、検証できるとは限らない。証明についても、形式体系の中で証明が存在することと、その証明を有限な時間で発見し、保持し、確認できることは分かれる。物理学では、実数を使って無限精度の状態を表現できることと、現実の物理系がそれだけの情報を保持し、観測によって区別できることが別の条件になった。

これらの例で共通していたのは、対象が「ある」と認められたあとにも、その対象について複数の評価軸が残ることである。ここでいう距離は、対象を記号で指定すること、その性質を証明すること、値を計算すること、有限資源で処理すること、得られた結果を検証すること、物理世界で実現することの間にある条件の差を指す。数学的存在を出発点としても、各評価軸では別の手続きや資源、前提が必要になる。

評価軸 問う内容 その評価軸で追加して問われる条件
定義可能性 有限な式や記号によって、その対象を一意に指定できるかを問う。 対象を一意に指定できる記号体系と定義規則が必要になる。
証明可能性 その対象や性質について、採用した形式体系の中で証明を与えられるかを問う。 採用した形式体系、公理、推論規則の下で証明を構成できることが必要になる。
計算可能性 有限の機械的手続きによって、求める結果へ到達できるかを問う。 有限の機械的手続きとして結果へ到達できることが必要になる。
実行可能性 利用できる時間、記憶容量、計算能力などの資源内で、その手続きを実行できるかを問う。 利用可能な時間、記憶容量、計算能力の範囲に処理が収まることが必要になる。
検証可能性 得られた結果や証明を、有限な資源の中で確認できるかを問う。 結果や証明を保持し、確認手順を実行できるだけの資源が必要になる。
物理的実現可能性 数学上区別される状態を、現実の物理系として保持し、区別し、観測できるかを問う。 物理系が状態を保持、区別、観測できるという物理的条件が必要になる。

これらの評価軸は、それぞれ別の条件を持つ。短い式による定義、値の計算、現実の資源内での実行、結果の保存と検証、物理系による状態の保持は、段階ごとに追加の条件を必要とする。たとえば、計算アルゴリズムが存在しても必要な時間が現実の上限を超えることがあり、結果を生成できても全体を保存できなければ検証できない場合がある。数学的に連続した状態を定義できても、物理系がその差を無限精度で保持できるとは限らない。

各評価軸で、判断に必要な条件は異なる。定義可能性では、主として記号体系と定義規則を見ればよい。計算可能性では、許される機械的手続きが加わる。実行可能性では、どの計算主体が、どれだけの時間と記憶容量を使えるかが必要になる。物理的実現可能性を問う場合には、対象を扱う主体だけでなく、エネルギー、空間、測定精度、情報容量といった自然界の制約が判断条件になる。同じ数学的対象でも、「可能か」という問いの評価軸が変われば、必要な前提も変わる。

この構造は、超有限主義をどこまで受け入れるかという問題にも境界を与える。巨大な有限数を現実には展開できないという事実から、その数が数学的に存在しないとは導けない。実数を無限精度で測定できないという事実から、実数を使う解析を捨てる必要もない。実行可能性や物理的実現可能性から数学的存在を制限するには、それらを存在条件へ組み込むという追加の哲学的判断が必要になる。超有限主義の強い主張は、この追加判断まで含む。

一方、その追加判断を採用しなくても、本稿で確認してきた区別は残る。通常の自然数全体を認め、実数や連続体を利用しながらでも、どの対象を実際に計算できるか、どの証明を現実の長さで扱えるか、どの結果を検証できるかは別に評価できる。無限を数学から排除するかどうかと、有限な主体が到達できる範囲を評価することは独立した問題である。

数学が持つ抽象化の力は、この距離を大きくする側にも働く。短い式だけで、書き下すことのできない巨大な整数を指定できる。有限の公理と推論規則から、人間が列挙できないほど多くの命題を扱える。実数という一つの体系によって、有限精度の観測値を超えた連続的な状態空間を記述できる。この圧縮能力によって、有限な記述から、その記述を展開する主体の能力をはるかに超える対象を扱えることが数学の利点になっている。

同時に、その利点があるからこそ、記述と展開、存在と計算、計算と実行、実行と検証を同一視できなくなる。小さな整数や短い計算では、これらの間の距離が短いため、すべてを一続きの操作として扱っても支障がない。対象規模が大きくなり、必要資源が増えると、それまで重なっていた条件が別々に現れる。超有限主義が巨大数を問題にすることで露出させたのは、この分離である。

有限と無限だけを二分法として見ると、有限側は一つのまとまった領域に見える。実際には、無限へ到達するより前に、有限な対象の内部で定義可能性、計算可能性、実行可能性、検証可能性が分かれていく。有限であることは、有限な主体にとって近いことを意味しない。

数学的存在を考えるとき、対象だけを見れば「存在するか、存在しないか」という問いになる。有限な主体まで含めれば、問いは「どの対象を、どの操作によって、どれだけの資源を使い、どの段階まで扱えるか」へ変わる。本稿で扱った巨大数、計算複雑性、有界算術、有限算術モデル、物理的情報量は、この異なる分野に同じ問いが現れることを示している。無限を捨てなくても、数学的存在と有限資源での到達可能性は分けて考えなければならない。それが、超有限主義の強い存在論を採用しない場合にも残る帰結である。


参考文献

  1. id774, 暗号はいずれ破られる(2026-06-01). https://blog.id774.net/entry/2026/06/01/4831/
  2. id774, MacBook Pro でローカル LLM を実用化する条件(2026-07-17). https://blog.id774.net/entry/2026/07/17/5102/
  3. A. M. Turing, “On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem”, Proceedings of the London Mathematical Society, s2-42, 1937, pp. 230-265. https://doi.org/10.1112/plms/s2-42.1.230
  4. Juris Hartmanis and Richard E. Stearns, “On the Computational Complexity of Algorithms”, Transactions of the American Mathematical Society, Vol. 117, 1965, pp. 285-306. https://doi.org/10.2307/1994208
  5. Rohit Parikh, “Existence and Feasibility in Arithmetic”, The Journal of Symbolic Logic, Vol. 36, No. 3, 1971, pp. 494-508. https://doi.org/10.2307/2269958
  6. R. J. Parikh, “Some Results on the Length of Proofs”, Transactions of the American Mathematical Society, Vol. 177, 1973, pp. 29-36. https://doi.org/10.2307/1996581
  7. Samuel R. Buss, “Bounded Arithmetic, Proof Complexity and Two Papers of Parikh”, Annals of Pure and Applied Logic, Vol. 96, 1999, pp. 43-55. https://doi.org/10.1016/S0168-0072(98)00030-X
  8. Samuel R. Buss, Bounded Arithmetic, Bibliopolis, 1986. https://books.google.com/books?id=8ubuAAAAMAAJ
  9. Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Finitism in Geometry”. https://plato.stanford.edu/entries/geometry-finitism/
  10. Gregory Barber, “What Can We Gain by Losing Infinity?”, Quanta Magazine, 2026-04-29. https://www.quantamagazine.org/what-can-we-gain-by-losing-infinity-20260429/
  11. Columbia University Department of Philosophy, “Ultrafinitism: Physics, Mathematics, and Philosophy”, 2025-04-11–13. https://philosophy.columbia.edu/events/ultrafinitism-physics-mathematics-and-philosophy
  12. Edward Nelson, Predicative Arithmetic, Princeton University Press, 1986. https://www.jstor.org/stable/j.ctt7ztgtr
  13. Doron Zeilberger, “‘Real’ Analysis Is a Degenerate Case of Discrete Analysis”, in New Progress in Difference Equations, Taylor & Francis, 2004. https://sites.math.rutgers.edu/~zeilberg/mamarim/mamarimhtml/real.html
  14. Vladimir Yu. Sazonov, “On Feasible Numbers”, in Daniel Leivant (ed.), Logic and Computational Complexity, Lecture Notes in Computer Science 960, Springer, 1995, pp. 30-51. https://doi.org/10.1007/3-540-60178-3_78
  15. Ofra Magidor, “Strict Finitism Refuted?”, Proceedings of the Aristotelian Society, Vol. 107, 2007, pp. 403-411. https://doi.org/10.1111/j.1467-9264.2007.00230.x
  16. Joel David Hamkins, “A Potentialist Conception of Ultrafinitism”, Philosophia Mathematica, 2026. https://doi.org/10.1093/philmat/nkag010
  17. Nicolas Gisin, “Indeterminism in Physics, Classical Chaos and Bohmian Mechanics: Are Real Numbers Really Real?”, Erkenntnis, Vol. 86, 2021, pp. 1469-1481. https://doi.org/10.1007/s10670-019-00165-8
  18. Nicolas Gisin, “Indeterminism in Physics and Intuitionistic Mathematics”, Synthese, Vol. 199, 2021, pp. 13345-13371. https://doi.org/10.1007/s11229-021-03378-z
  19. Sean M. Carroll, “Completely Discretized, Finite Quantum Mechanics”, Foundations of Physics, Vol. 53, Article 90, 2023. https://doi.org/10.1007/s10701-023-00726-6
  20. Jacob D. Bekenstein, “Universal Upper Bound on the Entropy-to-Energy Ratio for Bounded Systems”, Physical Review D, Vol. 23, 1981, pp. 287-298. https://doi.org/10.1103/PhysRevD.23.287