橘玲の「上級国民/下級国民」を読んだ。
あらためてわかったことは、橘玲はいま目まぐるしく進んでいるテクノロジーの進歩が無限に続くことを前提と考えるタイプの人間であるということだ。世の中には昨今エーアイブームというのがあり、多くの自称知識人エリートが世の中はいずれエーアイが発達して世の中を支配してなんかすごいことになると思っている傾向がある。
これは 1970 年頃に宇宙開発が目覚ましかった時代があったのだけど、その頃の自称知識人エリートたちは将来人類の半分が宇宙ステーションで暮らすと本気で考えて予想していたし、未来において戦争するときは人型ロボットに搭乗してビームライフルなどで戦うと思っていた。
が、現代の我々なら当然わかるように、宇宙開発で人が月に立ったあたりまでは進歩がすごかったけれども、べつに現代の人類は月で暮らしたりしていないし、ある程度までいけば飽和状態となって進歩は止まる。富野はそんな 1970 年代にあえて人間くささに帰結する物語を公開することで 40 年以上経ってもゲームやらスタンプラリーやらになって未だに語り継がれる伝説の作品を生み出した。
同様にいまテクノロジーとか呼ばれているものもただのパソコンカチャカチャオタクがなんかやってるだけで、どこまでいっても所詮はパソコンだし、パソコンカチャカチャ業界の人間なら知っていることだけれどもパソコンでできることには限界があります。
つまり、実際には知識社会の終焉など存在しないし、社会の分断が古典的な分断から知識による分断として継続するというのは、少なくとも我々が生きている間は続くだろう。
じゃあ二十年後にどのような社会が訪れるのかというと、伝統的な社会分断が時間の経過と共にどんどん薄れ、知識による分断が十分浸透してそれが古典的分断となるだろう。そこにどのような形で新たな分断が発生するのかはわからない。ただその形により、新しい混乱が訪れるだろう。すなわち、現段階ではまったく予想不可能ということになる。