QPU の速さだけでは、量子優位性は示せない

ある計算機が別の計算機より速いと言うとき、その「速い」は、計算機の内部だけを見ても決まらない。入力を受け取ってから答えを返すまでのどこを測定対象にするのか、同じ問題を解いているのか、得られた答えの品質は同じなのか、比較相手にはどの手法を選ぶのかによって、同じ実験結果でも意味が変わるからである。処理の一部が 10 倍速くても、前処理や後処理を含めた全体が速くならなければ、利用者が問題を解く時間は 10 分の 1 にはならない。近似解を高速に返す方法と、最適解を証明まで含めて返す方法も、実行時間だけを並べて比較することはできない。

量子計算では、この区別がとくに強く現れる。量子プロセッサには、量子ビット数、ゲート誤差、回路を実行できる深さ、一定時間に処理できる回路量など、装置そのものを評価する指標がある。しかし、それらの値が改善したことと、現実の最適化問題を古典計算より効率よく解けるようになったことの間には、もう一段の論理が必要になる。既稿では、量子計算機の能力を物理量子ビット数だけで捉えず、誤り訂正された論理量子ビット、論理エラー率、実行できる論理演算の深さまで含めて評価する必要があると整理した[1]。そこでは「量子計算機という装置を何で測るか」が論点だった。

本稿で扱うのは、その装置を使った計算が、別の計算方法より優れていると何を根拠に判断するのかという問題である。装置の性能が高くても、問題を量子計算向けの形式へ変換する処理に長い時間がかかれば、問題解決全体では速くならない。量子回路の実行が短時間でも、良い結果を得るために多数回の試行や古典計算によるパラメータ調整が必要なら、その費用も実際の計算過程に含まれる。さらに、比較対象となる古典アルゴリズムが弱ければ、古典計算一般に対する優位性を示したことにもならない。

計算性能の優位性は、計算機そのものに固定された属性ではなく、比較条件のもとで成立する関係である。同じ元問題を対象とし、求める解の品質をそろえ、前処理から後処理までの計算工程を明らかにし、その時点で十分に強い代替手段と比較して初めて、「こちらの方法が優れている」という判断が可能になる。「量子が古典に勝った」という短い表現には、元問題、問題表現、解品質、測定範囲、比較アルゴリズムという複数の条件が折り畳まれている。


1. 「速い」は、比較条件を決めるまで意味を持たない

計算時間を比較するには、最初に時計をどこで動かし始め、どこで止めるのかを決めなければならない。たとえば、ある計算方法では中心となる処理が 1 秒で終了するとする。ただし、その処理へ渡す入力を作るために 40 秒、得られた出力を利用可能な答えへ変換するために 60 秒必要だとする。中心処理だけを測れば実行時間は 1 秒であり、入力から最終結果までを測れば 101 秒になる。どちらの数字も計測値としては正しいが、表している対象が違う。

この違いを曖昧にしたまま「1 秒で解いた」と表現すると、中心処理の性能と問題解決全体の性能が同一視される。直接原因は測定範囲の不一致にある。その背後には、計算処理を一つの装置内で完結する操作として見るか、入力の準備から最終結果まで続く処理系として見るかという評価単位の違いがある。前者なら中心装置の高速性を測れる。後者なら、利用者が実際に答えを得るために支払った時間を測れる。どちらを採用するかは、評価したい対象によって決まる。

量子計算の性能比較では、この測定境界が結果の解釈へ直接影響する。量子プロセッサ上の回路実行時間を測ることと、量子アルゴリズムを用いて最適化問題を解く総時間を測ることは同じではない。後者には、問題の変換、量子回路の生成、パラメータの決定、複数回の量子実行、測定結果の集計、必要なら古典計算による後処理まで含まれ得る。量子プロセッサ部分だけが高速化されても、それ以外の工程が支配的なら、全体時間への効果は小さくなる。

Rønnow らが量子速度向上を分類した理由も、単一の「量子速度向上」という言葉では比較条件を特定できないからである。どの古典アルゴリズムを比較相手にするのか、どの問題集合について入力規模を増やすのか、どの性能量を見るのかによって、同じ量子アルゴリズムでも主張できる速度向上の意味が変わる[2]。特定の古典アルゴリズムに勝ったことと、その問題について知られている最良の古典的方法に勝ったことは別の主張である。小さな問題で実行時間が短かったことと、問題規模を増やしたときに計算量の増え方が古典計算より緩やかだったことも区別しなければならない。

ここには、測定時間より一段広い問題がある。「速い」という言葉には、比較対象となる仕事の定義まで含まれている。100 個の変数を持つ問題と 1000 個の変数を持つ問題を比べても、計算機の優劣は分からない。同じ 100 個の変数でも、一方が最適解を要求し、他方が制約を満たす解を一つ見つければ終了するなら、終了条件が違う。同じ最適解を要求していても、一方だけが問題構造を知った専用アルゴリズムを使い、他方に汎用的な単純手法を与えたなら、観測された差にはアルゴリズム選択の効果が含まれる。

最適化アルゴリズムのベンチマーク研究で、比較目的、問題集合、アルゴリズム、性能指標、実験条件、再現可能性が重視されるのはこのためである[3]。実行時間を小数点以下まで精密に記録しても、異なる終了条件や異なる問題集合から得た数字を並べれば、精密なのは時計だけである。性能比較として必要なのは、測定値の精度だけでなく、その値が何を測ったものなのかを再現できることである。

比較条件 固定する内容 条件が異なると何が混ざるか
対象問題 同じ元問題と同じ問題インスタンスを対象にする。 問題そのものの難しさの差が、計算方法の性能差として現れる。
解品質 最適解、近似解、実行可能解など、成功と認める条件をそろえる。 低い品質で早く終了した結果と、高い品質まで探索した結果を同列に比較することになる。
測定範囲 前処理、中心処理、反復、後処理のどこまでを実行時間へ含めるかを定める。 処理系の一部分だけの高速化が、問題解決全体の高速化として見える。
比較アルゴリズム 比較時点で十分に強い既存手法を選ぶ。 特定の弱い実装への勝利が、古典計算全体への優位性として見える。
入力規模 問題規模をそろえるだけでなく、規模拡大に伴う計算時間の増え方も調べる。 小規模な固定点での速さと、規模を増やしたときの速度向上を混同する。

この表の条件は独立しているように見えるが、実際には連鎖している。元問題を固定しても、求める解品質が違えば終了時刻が変わる。解品質をそろえても、前処理を片方だけ計測対象から外せば総時間が変わる。総時間までそろえても、比較相手として十年前の古典アルゴリズムを選べば、現在利用可能な手法に対する優位性は判断できない。一つの条件を満たしただけでは、残った条件が観測値へ入り込む。

この構造から、性能比較の単位を装置から処理系へ広げる必要が生じる。量子プロセッサの回路実行が高速であるという事実は、それ自体で価値を持つ。しかし、その事実から「量子計算でこの最適化問題を古典計算より速く解ける」へ進むには、元問題、解品質、全計算工程、比較相手を追加で確認しなければならない。前者は装置性能についての命題であり、後者は問題解決手段全体についての命題だからである。

優位性を計算機内部の属性として扱うと、この二つの命題が短絡する。比較条件を明示すれば、量子計算機がどの工程で効果を持ち、どの工程が依然として古典計算に依存し、全体としてどの程度の利益が残るのかを分けて評価できる。性能比較に必要なのは、より大きな数字やより短い時間を探すことより先に、同じ仕事を測っていることを保証することである。

ただし、「同じ仕事」を決めるだけでも最適化では次の難題が残る。現実の問題は、そのまま計算機へ入力されるわけではない。混合整数計画、QUBO、Ising 形式などへ表現を変える過程で、変数数、制約構造、係数の範囲が変わり、計算上の難しさまで変化する。同じ元問題を扱っているつもりでも、計算機が実際に解いている数理問題は同じとは限らない。次に確認すべきなのは、問題そのものと、その問題を計算機へ渡すための表現を分けて考えることである。


2. 同じ問題でも、表現を変えると難しさは変わる

最適化問題は、現実の条件をそのまま計算機へ渡して解くものではない。配送計画なら、「すべての顧客へ荷物を届ける」という要求を、どの車両がどの顧客を訪れるかという変数、積載量や訪問回数に関する制約、総走行距離や総費用を小さくする目的関数へ分解する。人員配置なら勤務可能時間、必要人数、資格、連続勤務の上限などを数式へ置き換える。投資配分なら銘柄ごとの保有量、予算、期待収益、リスク、売買単位といった条件をモデルへ埋め込む。計算機が直接扱うのは現実の配送や勤務表ではなく、この変換後の数理問題である。

ここで、同じ現実問題に対して数理表現は一つとは限らない。配送計画を例に取っても、「車両が地点間を移動するか」を二値変数で表す方法もあれば、訪問順序を別の変数で持たせる方法もある。不要な巡回を禁止する条件も、明示的な制約として書く方法、追加変数を使う方法、問題専用の制約生成へ任せる方法がある。最終的に同じ配送経路を表せても、変数数、制約数、線形緩和の強さ、変数同士の結び付き方が変わるため、ソルバーが探索する空間の形は同じにならない。

既稿では、量子アニーリングにおけるモデル化を、現実の問題を QUBO や Ising 形式へ機械的に写す作業ではなく、「何を良い解とし、どの違反をどの程度悪いと評価するか」を数値として決める工程だと整理した[4]。性能比較の観点では、そこへもう一つの効果が加わる。モデル化は答えの意味を決めるだけでなく、計算機が探索しなければならない構造まで変える。数理モデルの小さな変更であっても、分枝限定法などの探索順序、緩和問題から得られる下界、前処理で除去できる変数や制約が変わり、実行時間に大きな差が生じ得ることが報告されている[5]

この違いが生じる理由は、ソルバーが「問題の意味」を理解して探索しているわけではないからである。混合整数計画ソルバーなら、与えられた変数、制約、係数から連続緩和を作り、そこで得られた境界を使って探索領域を削っていく。同じ現実問題でも、ある定式化では強い境界が得られ、早い段階で多数の候補を捨てられる一方、別の定式化では境界が弱く、膨大な分枝を調べる必要が生じる。現実世界での問題の大きさが同じでも、数理表現が探索量を増減させるのである。

量子最適化で頻繁に使われる QUBO は、この問題を分かりやすく示す。QUBO は Quadratic Unconstrained Binary Optimization の略で、各変数を 0 または 1 に限定し、二次式の値を最小化する形式である。名前に「制約なし」とある通り、元問題に存在した制約は、そのまま別枠の条件として残すのではなく、違反したときに目的関数へ大きな罰点が加わる形へ変換することが多い。この形式は幅広い組合せ最適化問題を共通の形で表現でき、量子アニーリングや一部の量子最適化アルゴリズムへ入力しやすい[6]

たとえば、「候補 A と候補 B のどちらか一方だけを選ぶ」という条件を考える。制約付きのモデルなら、A を選ぶかどうかを表す二値変数と B を選ぶかどうかを表す二値変数について、二つの和が 1 になるという条件をそのまま書ける。QUBO では、この等式を破ったときに罰点が生じる二次式へ置き換え、元の目的関数へ加えることができる。これによって制約は消えるが、代わりに「違反解を確実に不利にするには罰点をどれだけ大きくすべきか」という新しい設計問題が生じる。

罰点が小さすぎれば、制約を破ることで元の目的関数を大きく改善できる解が、正しい解より有利になってしまう。反対に罰点を必要以上に大きくすると、目的関数本来の差より罰点項の係数が支配的になる。ハードウェアやソルバーが扱える係数精度に制約があれば、本来区別したかった小さな目的関数の差が表現しにくくなる。制約をなくした代わりに、係数範囲と数値精度という別の制約を計算系へ持ち込むことになる。

整数変数の扱いでも同じことが起きる。ある変数が 0 から 31 までの整数を取るなら、二進表現を使って複数の二値変数へ分解できる。QUBO へ統一するという観点では都合がよいが、元のモデルでは一つだった変数が複数へ増え、それらを整合させる項も必要になる。複数の制約を罰点へ展開すると、それまで直接は関係していなかった二値変数同士の二次項が増え、疎だった問題が密になることもある。

変換 得られる利点 計算上新たに生じる条件
整数変数を二値変数へ分解 二値変数だけを扱う QUBO へ統一できる。 変数数が増え、元の一変数を表現する複数の変数間に新しい関係が生じる。
制約を罰点へ変換 明示的な制約を持たない目的関数として扱える。 違反解を排除しつつ元の目的関数を壊さない罰点係数を決める必要がある。
制約式を二次式へ展開 QUBO が要求する二次形式へ合わせられる。 変数間の結合が増え、疎な問題がより密な問題へ変わる場合がある。
係数範囲を拡大 制約違反と本来の目的を一つの式で順位付けできる。 有限精度のハードウェアでは、小さな係数差を保持しにくくなる場合がある。

このため、「ある問題を QUBO に変換できた」という事実から、「その QUBO が元問題を効率よく解くための良い表現である」という結論は出ない。QUBO 化によって増えた変数や結合、罰点係数の調整に由来する難しさまで、量子または古典ソルバーが背負うことになる。逆に、混合整数計画では元の制約構造を直接利用できる場合があり、問題専用アルゴリズムならさらに強い構造を使えるかもしれない。観測された計算時間には、計算装置の能力だけでなく、どの表現を選んだかという設計判断が含まれる。

この点を区別しないと、二種類のベンチマークが混同される。量子側と古典側へ同一の QUBO を渡して比較するなら、「この QUBO をどちらのソルバーが効率よく処理できるか」を調べる実験として成立する。入力が完全に同じなので、QUBO ソルバーとしての比較には都合がよい。しかし、元の配送計画や投資配分を最も効率よく解ける計算方法を知りたいなら、古典側に QUBO だけを強制する理由はない。混合整数計画や問題専用アルゴリズムの方が適切なら、それらを使った結果も比較対象へ入らなければ、元問題に対する優位性は判断できない。

この違いは量子側にも同じように適用される。量子計算機に QUBO を与える方法が現時点で主流だからといって、将来の量子アルゴリズムまで QUBO に限定する必要はない。別の問題表現を直接処理できる量子アルゴリズムが現れ、その方が変換による変数増加や罰点調整を避けられるなら、その能力も量子計算による問題解決の一部である。比較規則が特定モデルを固定してしまうと、装置ではなくモデル選択を競うベンチマークになり、アプリケーション全体としてどの方法が優れているかを取り逃がす。

そこで比較単位を、数理モデルから元問題へ一段上げる必要がある。同じ配送計画に対して、量子側が QUBO を使い、古典側が混合整数計画を使い、別の古典手法が配送問題専用アルゴリズムを使っても構わない。それぞれが異なる内部表現で探索した後、得られた解を同じ配送計画へ戻し、同じ制約を満たしているか、総距離はいくらか、所要時間と計算資源はいくらだったかを評価する。そうすれば、モデル化の巧拙を比較から排除するのではなく、問題を解く技術の一部として正面から評価できる。

元問題を共通の基準に置くと、次にそろえなければならない条件も明確になる。二つの方法が同じ配送計画を扱っていても、一方が「制約を満たす経路を一つ見つけた時点」で終了し、他方が「最短経路を見つけ、その最適性まで証明した時点」で終了するなら、処理時間はまだ直接比較できない。同じ問題を解くことに加えて、どの品質の答えまで到達したら成功とするかを固定する必要がある。


3. 同じ時間でも、得られた答えが違えば比較できない

元問題を同じにしても、実行時間だけを並べれば性能比較が完成するわけではない。組合せ最適化では、「制約を満たす解を一つ見つける」「既知の最良解に近い解を見つける」「最適解そのものを見つける」「それ以上良い解が存在しないことまで証明する」という複数の到達点がある。それぞれ必要な計算量が違うため、どの段階で処理を終了したかをそろえずに時間だけを比較すると、速さではなく仕事量の違いを測ることになる。

たとえば配送計画で、総走行距離 1000 km の経路が最適だと分かっているとする。方法 A は 2 秒で 1100 km の実行可能な経路を返し、方法 B は 200 秒で 1000 km の最適経路を見つけ、その最適性まで証明したとする。この結果から「A は B より 100 倍速い」と言うことはできない。A が終了した時点では、B が行った最適解探索と最適性証明の大部分を実行していないからである。反対に、業務上は 1100 km で十分であり、2 秒以内に答えが必要なら、A の方が実用的かもしれない。どちらが優れているかは、必要とする解品質を定義して初めて決まる。

この違いは、最適化問題の二つの仕事を分けると理解しやすい。一つは「良い解を見つけること」であり、もう一つは「それより良い解が存在しないことを確認すること」である。最適解そのものを早い段階で偶然見つけていても、それが最適だと証明するために長い探索が続くことがある。逆に、最適性を証明する仕組みを持たないヒューリスティックでも、短時間で非常に良い解を繰り返し得られる場合がある。最終的に同じ目的関数値へ到達したとしても、アルゴリズムが担っている役割は同じではない。

最適化のヒューリスティック研究で、一つのアルゴリズムを実行時間だけで序列化できないのはこのためである。Dunning、Gupta、Silberholz は Max-Cut と QUBO に対する複数のヒューリスティックを系統的に比較し、問題インスタンスや利用できる計算時間によって有利な手法が変わることを示している[7]。短い時間制限では早く良い解へ到達する手法が有利でも、長い時間を与えると別の手法が追い越すことがある。アルゴリズム性能は「何秒かかったか」という一点ではなく、「与えられた時間の中で解品質がどう変化したか」という軌跡として現れる。

この軌跡を見る必要があるのは、最適化では探索途中の解にも価値があるからである。整数計画ソルバーは、探索中に制約を満たす解を見つけるたびに、より良いものへ更新していく。30 秒の時点で最適値から 1% しか離れていない解を持っているソルバーと、29 分間ほとんど使えない解しか持たず、30 分直前に最適解へ到達するソルバーが、最終実行時間だけでは同じ 30 分として記録されることもある。計算を途中で打ち切る運用では、この二つの価値は大きく異なる。

Berthold が整理した primal integral は、この違いを時間と解品質の両方から評価するための指標である[8]。考え方は、探索中に保持している最良の実行可能解が、既知の最適値または下界からどれだけ離れているかを時間に沿って積み上げるというものである。早い段階から良い解を持っていれば積み上がる値は小さくなり、長時間悪い解しか得られなければ大きくなる。最終的な終了時刻だけを見る評価では失われる「途中経過の質」を数値へ含められる。

この考え方は、実務上の最適化と直接つながっている。物流計画や生産計画では、計算を無制限に続けられるとは限らない。翌日の配送計画を 5 分以内に確定しなければならないなら、6 分後に完璧な最適解を返す方法より、30 秒で十分に良い解を出し、その後の 4 分半で少しずつ改善する方法の方が運用上は使いやすい。最適化アルゴリズムの性能には、最終到達点だけでなく、制限時間の途中で何を返せるかという時間構造が含まれる。

量子最適化では、さらに確率性が加わる。多くの量子アルゴリズムは、一度の実行で決まった答えを返すのではなく、測定によって候補解をサンプルとして得る。同じ量子回路を同じ条件で実行しても、最適解が出る回、近似解が出る回、制約を満たさない解が出る回があり得る。そのため「一度だけ 0.1 秒で最適解が出た」という結果だけでは、実用上の性能を表せない。

たとえば、量子アルゴリズムが 1 回 0.1 秒で動き、最適解を得られる確率が 1% だとする。最適解を一度得るまでに必要な試行回数は実行ごとに変わるが、高い確率で成功したいなら多数回の反復が必要になる。一方、古典アルゴリズムが 3 秒で毎回同程度の解を返すなら、量子側の「1 回 0.1 秒」と古典側の「3 秒」を直接比較しても意味がない。評価すべきなのは、一回の処理時間ではなく、所定の品質へ所定の成功確率で到達するために必要な総費用である。

このため量子アルゴリズムの評価では、単発の最良結果だけでなく、複数回の実行分布を見る必要がある。平均値だけでも足りない場合がある。平均的には良くても、結果のばらつきが大きく、一定品質を下回る失敗が頻繁に起きるなら、運用上は再試行が必要になる。逆に最良値では古典手法に届かなくても、非常に短時間で安定して高品質な解を返せるなら、時間制約の厳しい用途では価値を持ち得る。

Lubinski らは Max-Cut を用いた量子最適化のベンチマークで、問題規模を増やしながら実行時間と解品質を同時に追跡する評価方法を提示している[9]。この方法では、「何量子ビットを使ったか」や「一回の回路実行が何秒だったか」だけではなく、一定の問題規模に対して、どの程度の品質の解をどれだけの時間で得られたかを見る。量子と古典の異なる処理系を比較するには、内部実装を同じにするより、外部から見た成果条件をそろえる方が意味を持つ。

到達状態 何が確認できているか 速度比較でそろえるべき条件
実行可能解 制約を満たす解を少なくとも一つ得ている。 目的関数の値は保証されないため、別手法も同じ「実行可能解を得る」条件までで比較する必要がある。
一定品質の近似解 最適値、既知の最良値、または基準値から所定の範囲内にある解を得ている。 許容する誤差率や近似比を事前に固定し、その品質へ到達するまでの時間を比較する必要がある。
最適解の発見 実際には最良である解へ到達している。 最適値を事前に知っているベンチマークなら発見時刻を測れるが、未知の実問題ではその時点で最適だと判定できない場合がある。
最適性の証明 得られた解より良い解が存在しないことまで確認している。 解の発見だけを目的とする手法より多くの計算を必要とするため、証明まで求めるかを比較前に固定する必要がある。
確率的成功 複数回の試行のうち所定の割合で要求品質へ到達している。 一回の最良結果ではなく、成功確率と必要反復回数を含む総計算時間で比較する必要がある。

同じアルゴリズムでも、どこを成功条件に置くかで性能順位が変わることがある。実行可能解を最速で得る競争なら初期解生成の強い方法が有利になる。最適値から 1% 以内へ入る時間を競えば、高品質な近似解を早く作る方法が有利になる。最適性証明まで要求すれば、下界を強く改善できる厳密解法が有利になる。評価指標は結果を記録するだけではなく、何を「良い計算」と認めるかを決めている。

この点は、量子計算で「最適解が得られた」という報告を読むときにも必要になる。既知の最適解を持つベンチマーク問題なら、量子測定から最適解と一致するビット列が一度得られたことを確認できる。しかし、それは量子アルゴリズム自身が「これが最適解であり、これより良い解は存在しない」と証明したこととは異なる。最適値を外部から知っているから、実験後にそのサンプルを最適と分類できるのである。未知の実問題へ同じ方法を適用したときには、その判定材料が存在しない。

この違いを無視すると、ベンチマークでの「最適解をサンプルした」という成果が、一般の問題で「最適解を求められる」という能力へ拡張される。前者は既知の正解との照合によって測れる実験結果であり、後者には最適性を判定する仕組みまで必要になる。量子最適化で実用性を議論するなら、解を生成する能力と、その品質を保証する能力を別々に見る必要がある。

ここまで条件を詰めると、性能比較の対象は「一回の実行時間」から、「所定の品質の答えへ、所定の成功確率で到達するまでの計算費用」へ変わる。元問題が同じでも、成果条件が違えば比較できない。成果条件をそろえて初めて、量子側と古典側がその答えを得るために実際に何秒、どの計算資源を使ったかを比較できる。

ただし、そこでいう「実際に使った時間」にも境界がある。量子回路そのものは短時間で実行できても、その前に古典計算でパラメータを探索し、回路を生成し、実行後に測定結果を修復しているなら、それらの処理をどこまで含めるかで総時間は変わる。解品質をそろえた次に問うべきなのは、計算の開始点と終了点をどこに置くかである。


4. QPU の時間だけでは、問題を解いた時間にならない

解品質までそろえたとしても、量子計算と古典計算の所要時間を比較するには、もう一つ条件を決めなければならない。計算をどこから始め、どこで終わったとみなすかである。量子プロセッサ上で回路が動いている時間だけを測るのか、問題を量子回路へ変換する処理、パラメータ調整、複数回の実行、測定結果の集計、最終解への後処理まで含めるのかによって、「量子計算に何秒かかったか」という数字は変わる。

この違いは、変分量子アルゴリズムを考えると分かりやすい。典型的な処理では、まず古典計算機が量子回路のパラメータを決める。その値を使って QPU が回路を実行し、測定結果を返す。古典計算機は得られた結果から目的関数を評価し、次に試すパラメータを決める。この往復を繰り返し、最後に得られたビット列へ古典的な修復や選別を加えることもある。量子プロセッサは計算の中心的な構成要素ではあっても、処理系全体から切り離された単独の解法ではない。

たとえば、一回の量子回路実行に 20 ミリ秒しかかからないとしても、それだけでは問題の解決時間を表さない。1000 回の回路実行が必要なら QPU 上だけでも合計 20 秒になる。さらに、一回ごとに古典側でパラメータ更新を行い、それに平均 50 ミリ秒かかれば 50 秒が加わる。回路の変換、ジョブ送信、結果取得、最終的な後処理にさらに時間が必要なら、利用者が答えを得るまでの所要時間は 20 ミリ秒とは桁が違う。QPU の単発実行時間は装置性能を表すが、アプリケーションの完了時間とは別の指標である。

既稿「量子アニーリングは何を計算しているのか」でも、量子速度向上を評価するには、問題族、入力規模、解品質、成功率だけでなく、前処理と後処理を含めた時間を定義する必要があると整理した[10]。量子装置内部の物理過程だけが高速でも、その状態へ問題を変換するために大きな古典計算が必要なら、利用者が支払う総計算費用は減らない。反対に、量子部分がそれほど長くても、従来は膨大だった古典探索を大幅に削減できるなら、処理系全体として価値を持つ可能性がある。

ここで区別すべきなのは、装置内部の性能と、問題解決手段としての性能である。QPU の回路実行時間は、量子ハードウェアそのものを比較するときには重要な測定値になる。同じ回路を二台の量子計算機へ与え、一方が短時間で実行できるなら、その差は装置性能として意味を持つ。しかし、「この最適化問題を古典計算より速く解いた」という主張では、回路を準備するまでの処理と、回路実行後に答えを完成させる処理も同じ問題解決の中に含まれる。

性能報告の測定境界が曖昧だと、数値そのものを誤っていなくても結論だけを強く見せることができる。McGeoch は量子計算の性能報告で避けるべき例として、実行時間を示さないこと、パラメータ調整に必要だった計算を除外すること、比較対象へ不利な計算環境を与えること、都合のよい問題だけを選ぶことなどを挙げている[11]。これらに共通するのは、測定値を捏造することではなく、比較対象の一部を境界の外へ出すことである。

たとえば、量子アルゴリズムを 100 種類のパラメータ設定で試し、その中で最も良かった一回だけを報告したとする。その一回の QPU 実行時間が短いこと自体は事実である。しかし、未知の問題を実際に解くときには、どのパラメータがよいかを事前には知らない。100 通りを探索した費用が必要だったなら、その費用を除外した数値は、実験後に最良設定を知った状態での条件付き性能を表しているにすぎない。

パラメータ探索が問題インスタンスごとに必要なら、この差はさらに大きくなる。ある問題で見つけた最良パラメータを、別の問題へそのまま移せるとは限らない。Bernal Neira らは、量子ヒューリスティックや Ising マシンのような確率的ソルバーについて、性能を左右するパラメータ設定そのものをベンチマーク対象へ含める必要があると論じている[12]。評価したいのが未知の問題を解く能力なら、「良いパラメータをすでに知っている」という情報を無償で与えることはできない。

この構造は、機械学習で学習時間を除外して推論時間だけを比較する場合に少し似ているが、量子最適化ではより直接的である。変分量子アルゴリズムでは、パラメータ探索が一回きりの事前学習ではなく、その問題インスタンスを解く反復処理そのものに組み込まれる場合がある。古典最適化器が次のパラメータを決め、QPU が評価し、その結果を再び古典側へ戻すため、古典計算と量子計算を切り離して一方だけを「本体」と呼びにくい。

さらに、量子回路を QPU へ渡すまでにも古典処理がある。抽象的な量子回路は、そのまま任意の量子装置で動くとは限らない。使用する装置の量子ビット接続、利用可能なゲート、誤差特性に合わせて回路を書き換え、論理的な量子ビットを物理量子ビットへ割り当てる必要がある。回路が深くなれば誤差も増えるため、どのように変換するかは最終的な解品質にも影響する。回路変換の時間と品質は、単なる事務的な準備ではなく、量子アルゴリズムを実際のハードウェアで成立させる工程である。

実行後にも同じことが起きる。量子測定から得られるのは、元問題の制約を必ず満たす完成済みの解とは限らない。QUBO の罰点が十分に働かなかった場合や、ハードウェア誤差、近似的な回路構成によって、制約違反を含むビット列が返ることがある。そこで古典計算によって不正な解を修復したり、複数サンプルから最もよい候補を選んだりする。後処理が軽微なら全体への影響は小さいが、最終解の品質がその処理へ大きく依存するなら、成果を QPU だけへ帰属させることはできない。

処理段階 実際に行われる処理 時間を除外した場合に失われる情報
問題変換 元問題を QUBO など量子アルゴリズムが扱える表現へ変換する。 モデル化や変換に必要な計算費用を、量子解法の外部へ押し出すことになる。
回路生成・変換 論理回路を対象 QPU の接続構造や利用可能なゲートへ合わせる。 実機でアルゴリズムを成立させるために必要な古典処理が見えなくなる。
パラメータ調整 古典最適化器が量子回路のパラメータを更新しながら反復する。 良い設定を発見するまでに必要だった探索費用が消える。
QPU 実行 量子回路を実行し、測定結果を取得する。 この時間だけを測ると、量子ハードウェア部分の速度しか評価できない。
反復・再試行 所定の解品質や成功確率を得るために回路を複数回実行する。 一回の短い実行時間を、必要な総試行時間と誤認する。
後処理 サンプルの選別、制約違反の修復、最終解への変換を古典計算で行う。 最終的な解品質へ古典処理がどこまで寄与したかが分からなくなる。

この表をすべて単純に加算すれば公平になる、というわけでもない。クラウド型の量子計算サービスでは、ジョブを投入してから実行されるまでの待ち時間が発生する。これは装置の計算能力そのものではなく、サービスの混雑度や運用方式に左右される。通信遅延も、遠隔サービスを利用するアプリケーション性能としては実時間へ影響するが、量子アルゴリズム自体の計算量とは別である。何を総時間へ含めるかは、評価目的に応じて分類しなければならない。

装置性能を評価するなら、キュー待ち時間や利用者側の通信遅延を除き、QPU と制御系が実際に処理している時間を見る方が適切である。実際のサービスとしての応答時間を評価するなら、利用者が要求を送ってから結果を受け取るまでを測る意味がある。量子アルゴリズムの比較なら、アルゴリズムが本質的に必要とする前処理、パラメータ更新、QPU 実行、後処理を分けて記録する必要がある。同じ「時間」という言葉でも、測定目的によって境界が異なる。

このため、総時間だけを一つ報告する方法にも限界がある。総実行時間が 100 秒だった二つの方法があっても、一方は 90 秒を QPU が使い、古典処理は 10 秒しか必要としないかもしれない。もう一方は QPU が 5 秒で、95 秒を古典的なパラメータ探索へ使っているかもしれない。総時間だけなら同じ性能に見えるが、ハードウェアの高速化によって今後改善できる場所も、アルゴリズムのボトルネックも異なる。

性能報告では、総計算時間と工程別の時間を併記する意味がここにある。総時間は、利用者が問題を解くために必要だった費用を示す。工程別時間は、その費用がどこで発生し、量子処理が全体のどの割合を占めるかを示す。二つを分けて記録すれば、「処理系全体として速いか」と「量子部分そのものがどこまで速いか」を同じ実験から別々に評価できる。

CPU と QPU の関係も、この視点に立つと単純な対立ではなくなる。変分量子アルゴリズムでは CPU がパラメータを探索し、QPU が目的関数を評価する。後処理では再び CPU が結果を修復する。古典計算と量子計算は、一つの問題を奪い合う競争相手であると同時に、一つの解法を構成する協調部品でもある。量子優位性を評価するときに問うべきなのは、QPU 単独が CPU より高速かではなく、QPU を組み込んだ処理系全体が、最善の古典処理系より優れた結果を生むかである。

この区別によって、「量子処理があった」という事実と「量子処理によって全体が有利になった」という判断を分離できる。前者は QPU の利用記録から確認できる。後者には、量子部分を取り除いた代替手法、古典のみの競合手法、全工程の時間、解品質をそろえた比較が必要になる。量子計算を含む処理系が 100 秒で解いた問題を、強い古典ソルバーが 2 秒で解けるなら、QPU が内部でどれほど高度な処理を行っていても、アプリケーションとしての速度優位性は成立しない。

ここまでで、比較対象は「QPU 対 CPU」という装置同士の単純な図から、「量子を含む処理系対古典だけの処理系」へ移る。ただし、処理系全体の時間と解品質を公平にそろえても、なお最後の条件が残る。比較する古典処理系そのものが十分に強いかどうかである。古いアルゴリズム、単純な実装、問題構造を利用しない汎用手法だけを相手に選べば、量子側が勝っても現在の古典計算に対する優位性を示したことにはならない。


5. 弱い古典手法に勝っても、量子優位性にはならない

同じ元問題を使い、同じ解品質を要求し、前処理から後処理までの測定範囲をそろえても、それだけでは量子優位性を判定できない。最後に残るのは、何を比較相手に選ぶかという条件である。古典計算は一つのアルゴリズムではない。混合整数計画、制約プログラミング、局所探索、動的計画法、分枝限定法、メタヒューリスティック、問題専用アルゴリズムなど複数の方法があり、同じ問題に対しても性能は大きく異なる。量子手法が一つの古典アルゴリズムを上回ったことと、古典計算で知られている最良水準を上回ったことは別の主張である。

たとえば、ある量子アルゴリズムが組合せ最適化問題を 10 秒で解き、比較対象とした古典プログラムが 100 秒かかったとする。この数字だけなら量子側が 10 倍速い。しかし、同じ問題を専用の古典ソルバーが 0.5 秒で解けるなら、実際に観測されているのは「選んだ古典実装に対する 10 倍の高速化」であって、「古典計算に対する高速化」ではない。比較対象を一つ変えただけで、10 倍の優位が 20 倍の劣位へ反転する。

この違いが生まれる直接の原因は、古典アルゴリズムごとに利用している問題構造が異なることにある。汎用的な局所探索は広い問題へ適用できる代わりに、問題固有の制約構造を十分に使わない場合がある。混合整数計画ソルバーは、線形緩和、カット生成、前処理、分枝戦略などを組み合わせて探索空間を削る。さらに問題専用アルゴリズムなら、一般的なソルバーには見えない構造まで利用できる。入力となる元問題が同じでも、どの知識を探索へ組み込んだかによって必要な計算量は変わる。

古典側の性能は、同じアルゴリズム名のままでも固定されていない。ソルバーは長年にわたり、前処理、分枝変数の選択、カット生成、ヒューリスティック、並列処理、数値安定性などを改善してきた。Koch らは 2001 年前後から 2020 年前後までの数理最適化ソルバーの進歩を調べ、LP と MILP の双方で、ハードウェア性能とは別にアルゴリズム改善そのものが大幅な高速化を生んだことを示している[13]。MILP では平均的に、アルゴリズム改善だけで約 50 倍、ハードウェア進歩まで含めると約 1000 倍に相当する規模の性能差が報告されている。

この数字が示しているのは、古典計算の基準線が時間とともに移動することである。2001 年のソルバーが 1000 秒かけていた問題を、2020 年のソルバーが 1 秒程度で処理できるなら、2001 年の基準に勝つことは現在の優位性を意味しない。同じ問題、同じ解品質、同じ計算機性能で比較しても、古典アルゴリズムの改良だけで勝敗が変わり得る。量子側の性能が全く変わらなくても、比較相手が進歩すれば量子優位性は消える。

ここでは「古典計算機」という語が、比較対象を曖昧にしやすい。実際に比較されるのは抽象的な古典計算機ではなく、特定のアルゴリズム、特定の実装、特定のパラメータ、特定のハードウェアを組み合わせた処理系である。CPU を使っているというだけで、それらを一つの性能水準として扱うことはできない。量子計算について QPU の型番や量子ビット数を明示するなら、古典側についてもソルバー名、バージョン、設定、CPU、スレッド数、利用した前処理を同じ程度に明示しなければ、結果を再現できない。

この条件は、比較対象へ過剰な最適化を施すべきだという意味でもない。量子側だけを問題インスタンスごとに入念に調整し、古典側は初期設定のまま走らせれば公平ではない。一方で、古典側だけに人手で長時間のパラメータ探索を行い、量子側は汎用設定だけで比較しても別の偏りが入る。比較でそろえるべきなのは「同じアルゴリズム」ではなく、現実的にその手法を使うとき許容される準備や調整の水準である。調整に要した計算費用を含めるという第 4 章の条件も、ここへ戻ってくる。

比較対象 そこから主張できること そこからは主張できないこと
単純な古典ヒューリスティック その特定ヒューリスティックより良い性能を示したと判断できる。 高度な古典ソルバーや問題専用手法を含む古典計算全体への優位性までは示せない。
汎用ソルバーの既定設定 一般利用時の一つの基準に対する性能を比較できる。 専用設定、別の定式化、専用アルゴリズムを含む最良水準への優位性までは示せない。
十分に調整された強い古典手法 実用上有力な代替手段に対する性能差を評価できる。 将来登場する改良手法に対しても優位性が維持されることまでは保証できない。
その時点で知られている最良の古典手法 現在知られている最善水準に対する量子側の位置を評価できる。 その結果が将来も不変の量子優位性であるとは言えない。

古典最適化の研究では、この比較相手を共通化するためにベンチマーク問題集が使われてきた。MIPLIB は混合整数計画の代表的なライブラリであり、異なるソルバーが同じ問題集合を使って改良効果を比較できるようにしている。MIPLIB 2017 では、実務由来の問題を中心に、多様性、難しさ、重複、数値的な性質などを調べながら問題集合を構成している[14]。共通の問題集合を維持することで、「ある研究者が選んだ都合のよい問題」ではなく、複数の研究者が繰り返し比較できる基準を作っている。

共有ベンチマークには、もう一つ役割がある。同じ問題を何年も解き続ければ、古典手法の改善によって以前は難しかった問題が簡単になる。その変化自体が技術進歩の記録になる。反対に、問題集合が古くなり、ほとんどすべて瞬時に解けるようになれば、性能差を測る道具としての感度を失う。その時点で、より難しい問題や異なる構造を持つ問題を追加する必要が生じる。

量子優位性を測る場合、この「基準線が動く」という性質を無視できない。量子アルゴリズムが改善する一方で、古典ソルバーも改善する。量子ハードウェアの量子ビット数が増えて扱える問題規模が広がる一方で、古典側ではより強いカット生成や並列化、問題専用ヒューリスティックが導入される。量子側だけの進歩曲線を見ても、両者の距離が縮んでいるかどうかは分からない。必要なのは、同じ問題に対する両方の進歩を同時に追うことである。

理論上の計算量でも同様の注意が必要になる。ある量子アルゴリズムが漸近的に古典アルゴリズムより有利な計算量を持つとしても、その差が現れる問題規模へ到達する前に、量子誤り訂正、データ入力、回路実行、測定の費用が支配的になる可能性がある。Hoefler、Häner、Troyer は、実用的な量子優位性を評価するには、理論上の速度向上だけでなく、入力データ量、実装に必要な量子資源、誤り訂正、古典ハードウェアの実性能まで含めて比較する必要があると論じている[15]

たとえば、問題規模を n としたとき、量子アルゴリズムの計算量が古典アルゴリズムより有利でも、小さな n では量子側の固定費用が大きく、古典側の方が速いことがある。n を大きくすると理論上は量子側が追い越すとしても、その n を現在の量子ハードウェアで扱えなければ、実際の優位性はまだ発生していない。漸近的な速度向上は将来性を示す理論的性質であり、現時点のアプリケーション性能とは区別する必要がある。

この区別によって、「量子優位性」という語の時間的な性質も明確になる。量子手法が、その時点で知られている最良の古典手法を上回れば、その時点の比較条件では優位性が成立する。しかし翌年、古典側に新しいアルゴリズムが登場し、同じ問題をさらに短時間で解けば、その関係は変わる。量子計算機のハードウェア性能が低下したわけでも、以前の実験結果が誤りになったわけでもない。比較相手が更新されたため、「現在の最善手法に対する優位性」という命題だけが成立しなくなる。

この意味で、量子優位性は記録値より順位に近い。ただし単純なランキングとも違う。問題規模、解品質、成功確率、使用資源を固定しなければ順位そのものが変わるからである。100 変数では古典側が速く、1000 変数では量子側が速い可能性もある。近似解なら量子側が有利でも、最適性証明まで含めると古典側が有利という場合もある。優位性は一つの数値ではなく、比較条件を座標として持つ領域として現れる。

この構造を考えると、「古典計算より速い」という表現には少なくとも二段階の確認が必要になる。第一に、その量子手法が実際に比較対象とした古典手法を上回っているかを確認する。第二に、その古典手法が現在知られている有力な代替手段を代表しているかを確認する。第一段階だけなら実験結果の比較で済むが、第二段階には古典最適化側の最新技術まで調査する必要がある。

ここまでの条件を合わせると、量子優位性の判定単位がかなり具体的になる。同じ元問題を対象にする。所定の解品質と成功確率を固定する。量子処理だけでなく、問題変換、パラメータ調整、反復、後処理まで必要な計算工程を明らかにする。古典側にも、その問題で現実に競争力を持つ手法を使う。そして問題規模を変えながら、両者の性能がどのように増加するかを追う。どれか一つを外せば、「量子側に有利な比較条件」を無意識に作る余地が残る。

逆にいえば、量子計算を過小評価しないためにも強い古典手法との比較が必要である。弱い相手への勝利を大きく見せれば、その後により強い古典手法との比較で結果が覆り、量子計算そのものへの信頼を損なう。最初から最良水準の古典手法を基準に置けば、量子側がそこへどこまで近づいたのか、どの問題規模で差が縮んだのか、どの工程がボトルネックなのかを継続して評価できる。負けている時点でも、その距離自体が技術進歩を測る指標になる。

このため、量子優位性を研究するには、量子側だけのベンチマークでは足りない。古典手法の改良結果も同じ場所へ集め、量子側と古典側の双方が更新する共通の基準が必要になる。比較対象が進歩するたびに基準線を引き直さなければ、「古い古典計算に対する勝利」と「現在の古典計算に対する勝利」を区別できない。

ここまでで、量子優位性を判定する条件は一通りそろう。同じ元問題を使い、同じ品質の結果を要求し、答えへ到達するまでの全工程を測り、その時点で十分に強い古典手法を相手にする。さらに、その比較を一度限りの記録ではなく、古典側と量子側の進歩に合わせて更新し続ける必要がある。この条件を問題集、報告形式、評価指標として共通化しようとしたのが、Quantum Optimization Benchmarking Library、QOBLIB である。


6. QOBLIB は「量子が勝ったか」を判定する土俵を作る

ここまでに整理した条件を、実際のベンチマークとして運用できる形へ落とし込んだのが Quantum Optimization Benchmarking Library、QOBLIB である。2026 年 6 月、Thorsten Koch らは Nature Computational Science に「The Quantum Optimization Benchmarking Library」を発表した[16]。論文が扱うのは、特定の量子アルゴリズムが一つの問題で高い性能を出したという成果ではない。量子と古典の最適化手法を、共通の問題、解品質、計算資源、報告規則のもとで継続的に比較できる基盤を作ることが目的である。

この違いは大きい。個別の量子アルゴリズムを評価するだけなら、研究者が選んだ問題、選んだ表現、選んだ古典手法との比較で論文を完結できる。しかし、その結果を別の研究と横断的に比較しようとすると、問題インスタンス、成功条件、実行時間の測定範囲、古典側の実装がそろっていないため、数字をそのまま並べられない。QOBLIB は、個別研究ごとに異なっていた比較条件を共通化し、量子側と古典側の進歩を同じ問題上で追跡できるようにする。

論文に対応する問題データ、既知解、提出された実行結果、検証用コードは公開され、永続的なデータセットも Zenodo に保存されている[17]。この公開方式には、単なる再現性確保以上の意味がある。ある量子手法が古典手法を上回ったと報告されても、後からより強い古典解法が同じ問題へ適用されれば、その結果を同じ基準上へ追加できる。ベンチマーク自体が比較結果の履歴を保持することで、「発表時点で何に勝ったのか」と「現在でも何に勝っているのか」を分けて追跡できる。

6.1 量子装置の性能と、問題を解く性能を分ける

QOBLIB 論文は、量子計算のベンチマークをシステム、アルゴリズム、アプリケーションという三つの層に分けている[16]。この分類は、第 1 章から第 5 章までに扱った比較条件を、何を評価対象にするのかという観点から整理したものと読める。同じ「量子計算機の性能」という言葉でも、量子装置そのものを測る場合と、特定アルゴリズムを測る場合と、最終的な問題解決能力を測る場合では、固定すべき条件が異なる。

システム・ベンチマークでは、問題とアルゴリズムをできるだけ固定し、異なる量子ハードウェアや実行環境の性能を見る。たとえば、同じ量子回路を実行したときの忠実度、回路実行速度、扱える回路規模を比較するなら、違いは主としてハードウェアや制御系に帰属できる。この評価から分かるのは「どの装置が、この計算をよりうまく実行できるか」であり、「この応用問題を古典計算よりうまく解けるか」ではない。

アルゴリズム・ベンチマークでは、評価単位を一段上げる。特定の量子アルゴリズムについて、問題規模を増やしたときの性能、パラメータ設定の影響、必要な回路深度、解品質、ボトルネックなどを調べる。この段階ではハードウェアの違いだけではなく、アルゴリズム自体の性質を評価できる。しかし、比較対象となるアルゴリズムをあらかじめ固定するため、「この問題を解く最良の方法は何か」という問いにはまだ答えない。

アプリケーション・ベンチマークでは、固定する対象がさらに外側へ移る。固定するのはアルゴリズムではなく元問題である。同じ問題を解くなら、量子アルゴリズムでも、混合整数計画でも、専用の組合せアルゴリズムでもよい。どの数理モデルを使うか、どのハードウェアを使うか、どの前処理を入れるかも含めて、問題解決手段全体を競わせる。QOBLIB 論文が、最終的な量子優位性を示すにはこのアプリケーション層の比較が必要だと位置づけるのは、量子優位性が「装置」や「アルゴリズム」の内部指標ではなく、「同じ問題を別の方法より良く解いた」という関係だからである[16]

ベンチマーク層 主に固定するもの 比較するもの そこから判断できること
システム 問題、アルゴリズム、回路などをできるだけそろえる。 量子ハードウェア、制御系、実行環境を比較する。 同じ計算をどの装置が高品質または高速に実行できるかを判断できる。
アルゴリズム 評価対象となるアルゴリズムを固定する。 問題規模、パラメータ、実装、実行条件による性能変化を比較する。 そのアルゴリズムがどの条件で有効であり、どこに限界があるかを判断できる。
アプリケーション 元問題と成功条件を固定する。 量子、古典を問わず利用可能な問題解決手段全体を比較する。 その問題に対して量子を含む処理系が既存の代替手段を上回ったかを判断できる。

この分類が必要になるのは、下位層の改善が上位層の優位性へ自動的には伝播しないからである。量子ゲートの忠実度が上がれば、同じ量子回路をより正確に実行できる可能性は高まる。しかし、その回路を使うアルゴリズムが問題規模に対して十分に良い解を返せなければ、アプリケーション性能は上がらない。アルゴリズムが改善されても、古典側の専用手法がさらに速ければ量子優位性は成立しない。装置、アルゴリズム、アプリケーションの三層は因果的につながっているが、同じ性能指標で置き換えることはできない。

Proctor らが量子計算のベンチマークを整理する際にも、量子計算スタックのどの部分を評価対象としているのかを区別する必要性が強調されている[18]。ゲート誤差、回路実行能力、ソフトウェアスタック、アプリケーション性能を一つの数値へ押し込めると、数値が悪化または改善した原因を追えなくなる。比較対象の層を明示すれば、装置改善がアルゴリズム性能へ届いたのか、さらにアプリケーション性能へ届いたのかを段階的に確認できる。

アプリケーション中心の評価には、QOBLIB 以前から先行例がある。Martiel らは、特定のハードウェア内部指標ではなく、最大カット問題を一定品質でどの規模まで解けるかを見る Q-score を提案し、異なる量子装置をアプリケーションに近い条件で比較しようとした[19]。Acuaviva らも、量子計算機のベンチマークを標準化するには、測定対象、指標の代表性、再現性、利用目的を明示する必要があると論じている[20]。QOBLIB は、この流れを組合せ最適化へ広げ、特定装置の能力だけでなく、古典計算を含む問題解決手段全体を比較対象へ置く。

この三層を分けると、量子優位性の主張に必要な証拠も明確になる。「同じ回路を以前より速く実行できた」はシステム性能の改善である。「QAOA が以前より大きな問題で高品質な解を返せた」はアルゴリズム性能の改善である。「同じ元問題について、量子を含む処理系が最善水準の古典処理系より少ない時間や資源で所定品質の解を得た」となって初めて、アプリケーション水準の優位性へ進む。QOBLIB が狙うのは、この最後の比較を継続して行える状態を作ることである。

6.2 QUBO を競技規則にしない

QOBLIB の設計で、第 2 章の議論と最も直接につながるのがモデル非依存性である。QOBLIB は 10 種類の組合せ最適化問題クラスを用意するが、参加する解法へ QUBO、混合整数計画、Ising 形式など特定の数理モデルを強制しない[16]。固定するのは「どの元問題を解くか」であり、「その問題を内部でどう表現するか」は解法側へ任せる。

10 種類には、Market Split、Low Autocorrelation Binary Sequences、Minimum Birkhoff Decomposition、Steiner Tree Packing、Sports Tournament Scheduling、Portfolio Optimization、Maximum Independent Set、Network Design、Vehicle Routing、Topology Design が含まれる[16]。同じ形式の問題だけを並べるのではなく、制約構造や実用上の背景が異なる複数の問題を置くことで、ある一種類の表現やハードウェアだけに有利な結果を、組合せ最適化全体の性能として一般化しにくくしている。

問題選定では、「理論的に難しい」だけでは足りない。現在の量子ハードウェアへ載せられる規模で、すでに古典手法にも一定の難しさを持つ必要がある。古典側が数百万変数になって初めて苦しくなる問題を選んでも、現在の量子装置では比較できない。反対に、数十変数なら古典計算が瞬時に解ける問題ばかりでも、量子側の進歩を測る感度がない。QOBLIB は、古典計算にとって早い段階から難しくなり、量子側にも近い将来扱える可能性がある問題を意図的に探している[16]

モデルを固定しない理由は、公平さを「同じ入力形式」に置くと、元問題への優位性を測れなくなるからである。たとえば整数線形計画として自然に書ける問題を、量子側に合わせて全手法へ QUBO 化を強制したとする。量子側には都合がよくても、古典側は本来利用できた明示的な制約、整数変数、専用のカット生成などを捨てなければならない。その結果、古典ソルバーの能力ではなく、古典側へ不利な表現を選んだ効果まで量子優位性として数えることになる。

逆方向の偏りもあり得る。古典側で非常に成熟した混合整数計画表現だけを競技規則として固定し、量子側にも同じ形式を直接扱うことを要求すれば、QUBO や別の量子向け表現を使う利点を消してしまう。アプリケーション性能を比較するなら、両者へ同じ内部表現を強制するのではなく、同じ元問題と同じ成果条件を与え、それぞれが最も適切な内部表現を選べるようにする方が妥当である。

QOBLIB 論文は、この違いを QUBO 変換の具体的な副作用で説明している。整数線形計画を素朴に QUBO へ変換すると、整数変数の二値化によって変数数が増え、制約を罰点項へ展開することで変数間の結合が増え、疎だった問題が密になる場合がある。さらに、制約違反を十分に不利にする罰点と、本来の目的関数の差を同時に表現するため、高い係数精度が必要になることもある[16]

この変換は、単なるファイル形式の変更ではない。変数数が増えれば必要な量子ビット数や古典探索空間が増える。結合が密になれば、量子ハードウェア上で直接実装できない相互作用を補うために回路が深くなったり、埋め込みが複雑になったりする。係数範囲が広がれば、有限精度の装置では小さな目的関数差を保持しにくくなる。元問題には存在しなかった計算上の負担が、モデル変換によって新たに作られる。

さらに、QUBO の目的関数値は元問題の評価値と必ずしも同じではない。罰点係数を変えれば、同じ元問題を表す二つの QUBO でも数値スケールが変わる。ある解について QUBO A の目的関数値が QUBO B より小さいからといって、それだけでは元問題上で良い解だとは判断できない。比較するには、最終的なビット列を元問題へ戻し、制約を満たしているか、本来の目的関数値はいくらかを評価する必要がある[16]

比較方法 固定するもの 適している評価 限界
同一 QUBO を全手法へ与える 二値変数、二次係数、罰点を含む入力表現まで固定する。 QUBO ソルバーとしての処理能力を比較しやすい。 別の定式化や問題専用手法を使った場合の元問題への性能は評価できない。
同一元問題を与える 問題インスタンス、制約、成果条件を固定する。 問題解決手段全体としてどの方法が優れているかを比較できる。 内部表現や前処理が異なるため、工程別の報告を行わないと性能差の原因を分解しにくい。

QOBLIB が採るのは後者である。モデル化そのものも問題解決技術の一部として競争させる。量子側が優れた QUBO 変換を発見して変数数を減らせば、それは量子処理系の改善として評価される。古典側が元問題の構造を使う専用アルゴリズムを開発して高速化すれば、それも正当な改善として評価される。内部表現をそろえて両者の工夫を消すより、元問題から最終解までの全体で競わせた方が、利用者が実際に選ぶべき方法に近い。

6.3 時間だけでなく、答えの品質と計算資源を記録する

モデルを自由にすると、結果を比較するための出力側の規則が必要になる。異なる数理モデル、異なるアルゴリズム、異なるハードウェアを許したまま、単に「解けた」「何秒だった」とだけ記録すれば、第 3 章と第 4 章で扱った不一致が再び入り込む。QOBLIB はこのため、解品質と計算資源を別々に報告し、最終的に同じ元問題上の結果として比較できるようにする[16]

解品質については、まず元問題の制約を満たす実行可能解かどうかを確認し、そのうえで本来の目的関数値を記録する。厳密解法なら、現在得られている最良の実行可能解だけでなく、最適値が存在し得る範囲を示す境界も報告できる。最良解と境界が一致すれば、最適性を証明できる。ヒューリスティックや量子アルゴリズムではその証明がない場合もあるため、「最適値と同じ値を一度得た」と「最適性まで証明した」を別の状態として扱える。

確率的な手法については、単発の最良結果だけでは性能を表せない。同じアルゴリズムを複数回動かしたとき、どの程度の割合で要求品質へ到達したか、最良値はどこまで改善したか、結果のばらつきはどの程度かを記録する必要がある。量子アルゴリズムの一回の測定で偶然最適解が出ても、それを再現する確率が極端に低ければ、実用上は多数回の反復が必要になる。解品質の報告と実行回数の報告を組み合わせて初めて、その成功を得るための費用を評価できる。

計算資源では、QOBLIB は総実行時間を中心に置きながら、その内訳を CPU、GPU、量子計算機、その他の専用ハードウェアへ分ける[16]。この二段階の記録が必要なのは、総時間と工程別時間が別の問いへ答えるからである。総時間は「この方法で問題を解くのに最終的にどれだけかかったか」を示す。資源別時間は「その時間のどこを量子処理、古典処理、専用ハードウェアが占めたか」を示す。

たとえば、二つの方法がともに 60 秒で同品質の解へ到達したとしても、一方が QPU を 55 秒、CPU を 5 秒使い、もう一方が QPU を 5 秒、CPU を 55 秒使っているなら、現在のアプリケーション性能は同程度でも技術的な意味は異なる。前者は QPU 自体の高速化が総時間へ直接効きやすい。後者は量子ハードウェアを高速化しても、古典前処理やパラメータ調整を改善しない限り全体性能がほとんど変わらない可能性がある。

前処理、回路準備、パラメータ探索、後処理といった工程も、可能な限り補足情報として記録する。これは、第 4 章で扱った測定境界を曖昧にしないためである。QPU 上の物理実行だけを報告すれば、量子ハードウェア性能の比較には使える。しかしアプリケーション・ベンチマークとしては、その回路を作り、良いパラメータを探し、測定結果を最終解へ変換するまでの工程が必要になる。QOBLIB はそれらを同じ数値へ押し込むのではなく、全体値と内訳の両方を残す。

評価対象 QOBLIB で記録する内容 比較上の役割 欠けた場合に起きること
元問題 共通の問題クラスと問題インスタンスを使用し、内部の数理モデルは固定しない。 異なる定式化やアルゴリズムを、同じ問題解決という単位へ戻して比較する。 特定の QUBO やモデルへの性能差を、元問題への優位性と誤認する。
実行可能性 得られた解が元問題の制約を満たしているかを確認する。 制約違反を含む低コストなビット列を、有効な解として数えない。 数値上は良くても現実には使用できない結果が性能評価へ混入する。
解品質 本来の目的関数値、最良値、必要に応じて境界などを記録する。 同じ品質まで到達した場合の計算費用を比較できる。 低品質な解を早く返した結果と、最適解を得た結果を同列に扱うことになる。
確率的結果 複数試行の結果、成功頻度、最良結果などを記録する。 一度だけ得られた幸運な結果と、再現可能な性能を分けられる。 単発の最良サンプルが典型的な性能であるように見える。
総実行時間 アルゴリズムが実際に計算していた総経過時間を記録する。 利用者が問題を解くために必要とした全体費用を比較する。 一工程だけの短い実行時間を、問題解決全体の時間と誤認する。
資源別時間 CPU、GPU、量子計算機、その他の処理時間を分ける。 性能差が処理系のどの部分から生じたかを追跡する。 量子部分が全体時間のどれだけを占めるか分からなくなる。
処理の内訳 前処理、回路準備、パラメータ調整、後処理などを補足する。 最終成果へ量子処理と古典処理がそれぞれどこまで寄与したかを判断する。 古典側で行われた計算を量子処理の成果へ含めて解釈しやすくなる。

この報告規則によって、異なる内部構造を持つ解法を同じ表へ載せられる。量子アルゴリズムが QUBO を使い、古典ソルバーが混合整数計画を使っていても、最後に元問題上の実行可能性と目的関数値へ戻せば解品質を比較できる。処理系の構成が違っても、総実行時間と資源別時間を記録すれば費用を比較できる。アルゴリズムを同一化するのではなく、入力と出力の評価条件を共通化することで異種の処理系を競わせる設計である。

この設計には、量子側だけでなく古典側にも同じ透明性を要求する意味がある。古典ソルバーが強力な前処理を行い、その時間を報告せず本探索時間だけを示せば公平ではない。問題専用の事前計算や学習済み情報を使ったなら、その条件も結果の解釈に必要になる。量子側の前処理やパラメータ調整を厳しく数える一方で、古典側の準備費用を無視しても正しい比較にはならない。測定境界は計算方式ではなく、同じ評価目的に沿って設定する必要がある。

QOBLIB の役割は、この比較規則を一回の論文の中だけで使うことではない。同じ問題インスタンスへ新しい量子手法、新しい古典手法、新しいハードウェアから結果を追加し続ければ、その問題に対する最良水準が更新される。量子側が改善したときだけでなく、古典側が改善したときにも基準線が動く。第 5 章で示した「比較相手そのものが進歩する」という条件を、公開ベンチマークとして運用できる。

この意味で、ベンチマークは問題集だけでは成立しない。難問を 10 種類集めただけなら、各研究者が異なる終了条件と異なる時間定義で結果を報告し、再び比較不能になる。QOBLIB が加えているのは、どの解を有効と数えるか、どの品質を記録するか、どの計算資源を報告するか、内部表現の違いをどこで元問題へ戻すかという比較規則である。

「量子が勝ったか」を判定する土俵とは、量子側に有利な問題を並べることではない。量子も古典も最も適切な方法を使い、その結果を同じ元問題、同じ解品質、同じ計算費用の座標へ戻す仕組みである。その条件で量子を含む処理系が古典側の最良水準を上回れば、初めて比較結果を量子優位性へ接続できる。逆に、そこで負けている間は、QPU の一部指標がどれほど改善していても、アプリケーションとしての優位性は未達のままである。

この厳しい比較方法を実際の量子実験へ適用すると、単に「量子計算機で最適解が得られた」と読むだけでは見えない内訳が現れる。QOBLIB 論文に収録された Maximum Independent Set の実験では、量子プロセッサから得られた生のサンプルと、古典的な後処理を加えた後の結果が分けて報告されている。次章では、その差を見ることで、最終的な成果が量子処理のどこで生まれ、古典処理がどこへ寄与したのかを確認する。


7. 量子処理だけでは解が完成していない実例が見える

QOBLIB の比較規則を実際の実験結果へ適用すると、「量子計算機で最適解が得られた」という一文だけでは性能を評価できない理由が具体的に見えてくる。論文は Maximum Independent Set、最大独立集合問題に対して、量子近似最適化アルゴリズム QAOA を適用した結果を報告している[16]。最大独立集合問題は、グラフから互いに辺で結ばれていない頂点をできるだけ多く選ぶ問題である。二つの頂点が辺で結ばれているなら、それらを同時に選んではならないという制約を持つ。

この問題は、QUBO へ変換すると「できるだけ多くの頂点を選びたい」という目的と、「辺で結ばれた二頂点を同時に選んではならない」という制約を一つの目的関数へ組み込める。QAOA は、その目的関数に対応する量子回路をパラメータ付きで実行し、良い解に対応するビット列が高い確率で得られるようにパラメータを調整していく。量子回路を一度実行して答えが確定するのではなく、古典計算によるパラメータ探索と量子計算によるサンプリングを組み合わせる処理である。

QOBLIB 論文では、17 変数と 52 変数の Maximum Independent Set インスタンスを IBM の量子プロセッサで処理している[16]。このうち 52 変数の例は、量子アルゴリズムを実機へ載せるときに、元問題、量子回路、量子サンプル、最終解の間に複数の変換段階が入ることを示している。

52 変数の元問題には、選択してはいけない頂点の組み合わせを表す複数の制約がある。しかし、それらをすべて QAOA の回路へ組み込めば回路が複雑になり、実機上での実行品質が低下する。論文では回路の忠実度を保つため、全制約の 16.7% だけを量子回路へ含めて実行している[16]。これは、元問題をそのまま量子計算機へ載せたのではなく、現在のハードウェアで扱えるように問題表現を簡略化したことを意味する。

この簡略化では、量子回路へ含めなかった制約はサンプリング段階で直接には強制されない。加えて論文では、ハードウェアノイズのため QAOA を p = 1 の浅い回路に制限し、52 変数では制約項の重み λ = 0.119 を用いている。論文自身も、最適解を最低エネルギー状態に対応させるには λ > 1 が必要だと説明している。こうした複数の制約のもとで、52 変数の生サンプルからは元問題の全制約を満たす実行可能解が得られなかった[16]

ここで「量子計算が失敗した」とだけ評価するのも正確ではない。得られたサンプルには、最終解へ利用できる情報が残っている可能性がある。論文では、量子計算から得たビット列へ貪欲法による古典的な後処理を適用している。制約違反を修復しながら頂点集合を調整すると、最終的には既知の最適解と一致する解が得られた[16]

処理の流れを分解すると、結果の意味が変わる。最初に元の Maximum Independent Set を QUBO へ表現する。次に、量子回路の複雑さを抑えるため制約の一部だけを回路へ入れる。古典側で QAOA のパラメータを調整しながら量子回路を実行する。そこから得られた量子サンプルは元問題の制約を満たしていない。最後に古典的な貪欲法でサンプルを修復し、元問題上の実行可能解へ戻す。この一連の処理を経て、最適値を持つ解へ到達している。

処理段階 52 変数の実験で行われたこと 最終結果への役割 この段階だけを見た場合の誤解
元問題 52 頂点に対する Maximum Independent Set の制約と目的を定義する。 最終的な実行可能性と解品質を判定する基準になる。 この段階だけでは、量子計算機へ実際に何を載せたかは分からない。
QUBO 化 頂点選択と制約違反を二値変数と罰点項で表現する。 QAOA が扱える目的関数へ問題を変換する。 元問題と変換後の数理表現を同一視すると、変換による難しさや近似を見落とす。
回路簡略化 回路の忠実度を保つため、全制約の 16.7% だけを量子回路へ含める。 現在の量子ハードウェアで実行可能な回路規模へ抑える。 元問題の全制約が量子計算で直接処理されたように見える。
パラメータ調整 古典計算を使って QAOA のパラメータを探索する。 良いサンプルを得やすい量子回路へ調整する。 QPU 上の回路実行だけを計算時間として扱うと、この探索費用が消える。
量子サンプリング 量子回路から候補となるビット列を取得する。 古典後処理へ渡す候補集合を生成する。 得られたビット列をそのまま元問題の解だと扱うと、実行可能性を誤認する。
実行可能性の確認 量子サンプルを元問題へ戻すと、全制約を満たすサンプルは得られていない。 量子出力だけでは最終解が完成していないことを確認する。 目的関数値だけを見ると、制約違反を含む候補を有効な解として数える可能性がある。
古典後処理 貪欲法で制約違反を修復し、実行可能な頂点集合へ変換する。 最終的に既知の最適解と一致する解を得る。 後処理を省略して「量子計算機が最適解を出した」と表現すると、成果の生成過程が失われる。

この実験から、「量子計算機が 52 変数の Maximum Independent Set の最適解を求めた」とだけ記述すると、複数の工程が一つに圧縮される。量子回路へ入ったのは元問題の全制約ではない。量子サンプルだけでは実行可能解が得られていない。最終的な実行可能性は古典後処理によって回復されている。最適値を持つ解へ到達したという結果は事実でも、その結果がどの処理から生じたかまで含めて説明しなければ、量子部分の寄与を過大に帰属することになる。

一方で、古典後処理が存在することを理由に、量子計算部分を無価値と判断することもできない。現在の量子最適化では、量子処理と古典処理を組み合わせたハイブリッド方式そのものが解法である。量子サンプリングが、古典計算だけでは短時間に見つけにくい有望な候補領域へ解を集中させ、その候補を軽量な古典処理で修復できるなら、量子部分は処理系全体の性能向上へ寄与している可能性がある。

ただし、その可能性を性能上の寄与として確認するには比較実験が必要になる。量子サンプルを貪欲法で修復した方法と、同じ貪欲法を古典的に生成した初期解へ適用した方法を比べる。量子を使わない強い Maximum Independent Set アルゴリズムとも比べる。所定品質へ到達するまでの前処理、パラメータ調整、QPU 実行、後処理を含めた総計算時間を測る。そのうえで量子を含む処理系の方が優れて初めて、量子サンプリングが実用的な価値を追加したと判断できる。

ここには、第 4 章で扱った「全工程を測る」という条件と、第 5 章で扱った「強い古典手法と比較する」という条件が同時に現れている。QPU 上で有望なサンプルを生成できることは量子アルゴリズムとしての成果である。しかしアプリケーション水準の優位性を主張するには、そのサンプル生成が後処理を含む総計算時間を短縮し、最良水準の古典手法より良い結果を生んだことまで確認しなければならない。

この区別は、最適解という語の扱いにも関係する。QOBLIB のベンチマークでは最適値が既知なので、後処理後の解が既知の最適値と一致したことを外部から確認できる。未知の実問題では、同じ目的関数値を得ても、それが本当に最適かどうかをあらかじめ知ることはできない。量子サンプリングと古典修復によって非常に良い解を得る能力と、その解より良いものが存在しないことを証明する能力は別に評価しなければならない。

52 変数の例は、この二つも明確に分けている。量子処理と古典後処理の組み合わせによって、既知の最適解と一致する解へ到達した。一方、この一連の処理だけから一般の未知問題について最適性を証明できるとは言えない。ベンチマークでは正解を既知として照合できるため、「最適解を得た」と判定できるのであり、この判定能力まで量子アルゴリズムへ含めることはできない。

この実験が示しているのは、現在の量子最適化を「量子対古典」という二つの装置の競争として見ることの限界でもある。実際の処理は、古典計算でモデルを作り、古典計算でパラメータを調整し、量子計算で候補をサンプリングし、古典計算で結果を修復する。量子計算と古典計算は競合するだけでなく、一つのアルゴリズムの内部で役割を分担している。

その場合、問うべきなのは「どちらが解いたか」ではなく、「量子処理を組み込むことで処理系全体がどれだけ改善したか」である。量子部分を除いた処理系より速くなったのか。より高品質な解が得られたのか。同じ品質へ到達するための計算資源が減ったのか。扱える問題規模が広がったのか。この差分が量子計算の実用的な寄与になる。

QOBLIB が工程別の計算時間と解品質を記録する意味も、この実例から具体化できる。総時間だけでは、量子部分がボトルネックなのか、古典的なパラメータ探索が支配的なのか、後処理が成果を決めているのか分からない。逆に QPU 時間だけでは、最終解へ到達するまでに古典処理が必要だったことが消える。総時間と内訳を両方残せば、現在の性能を比較しながら、次に改善すべき工程まで特定できる。

論文自身も、この Maximum Independent Set の結果を量子優位性の実証とは位置づけていない。QOBLIB の議論では、最適化における実用的な量子優位性の実証は依然として得られていないと明記している[16]。これは成果を控えめに表現しているだけではない。QOBLIB が自ら設定した比較条件を適用すれば、この実験だけでは量子優位性という結論に必要な証拠がまだそろっていないからである。

量子処理によって興味深い候補を生成できたこと、古典後処理との組み合わせで最適値へ到達したこと、量子を含む処理系が最善の古典処理系を上回ったことは、それぞれ別の命題である。最初の二つが確認されても、三つ目は自動的には成立しない。QOBLIB は、この三つを一つの「成功」という言葉へまとめず、工程と比較対象を分けて記録する。

この慎重さによって、量子計算の進歩もかえって測りやすくなる。現時点で古典手法に勝っていなくても、量子サンプルの実行可能率が上がった、必要な古典後処理が減った、同じ解品質へ到達する QPU 時間が短くなった、より多くの制約を回路へ載せられるようになった、といった中間的な改善を追跡できる。最終的な量子優位性だけを成否判定にすれば、その手前で何が改善しているのか見えない。

そして、その改善が最終的な優位性へつながったかどうかを判断する基準も固定されてはいない。量子ハードウェアとアルゴリズムが改善している間に、古典側の Maximum Independent Set 解法も改善する。今日必要だった古典後処理が将来の量子回路では不要になるかもしれない一方、今日難しい古典問題が明日には新しいアルゴリズムで容易になるかもしれない。量子側の結果だけを保存しても、この距離の変化は測れない。

QOBLIB が必要とするのは、そのための継続的な比較である。量子側の新しい結果だけでなく、古典側のより強い結果も同じ問題へ追加し、どの方法が現在の基準線を作っているかを更新する。52 変数の一実験を「量子が勝ったか負けたか」で終わらせず、次の量子手法と次の古典手法が同じ場所から比較を続けられるようにする。その仕組みまで含めて初めて、量子優位性への距離を追跡できる。


8. 優位性は、装置の中ではなく更新される比較関係にある

QOBLIB の設計を最後まで追うと、量子優位性を一度測定して終わることができない理由が見えてくる。QOBLIB は完成済みの問題集を固定して配布するのではなく、継続的に更新するリポジトリとして設計されている。新しい知見によって、現在の量子計算と古典計算を比較するのに適した問題が見つかれば追加できる。反対に、新しいアルゴリズムによって既存の問題が容易に解けるようになれば、その問題を入れ替えたり、より難しいインスタンスへ更新したりすることも想定されている[16]

これはベンチマークを保守するための事務的な仕組みではない。比較対象となる技術そのものが進歩するため、固定された問題集合は時間とともに測定能力を失うからである。ある問題を 2026 年時点の古典ソルバーが 1 時間かけて解いていたとしても、数年後に新しい前処理や問題専用アルゴリズムによって 1 秒で解けるようになれば、その問題は量子優位性を測る難問としての役割をほぼ失う。量子側が後から 10 秒で解けても、それは現在の古典計算に対する優位性ではない。

逆方向にも同じことが起きる。古典計算にとって十分に難しいという理由だけで、数百万変数を必要とする問題をベンチマークへ置いても、現在の量子ハードウェアでは入力表現や回路構成の段階で扱えない可能性が高い。その場合、古典側には意味のある性能差が現れても、量子側は競技に参加できない。量子優位性への距離を測るには、「古典側にはすでに難しいが、量子側でも実験対象になり得る」という両者の境界付近に問題を置く必要がある。

QOBLIB が比較的小さな規模から古典計算にとって難しくなる問題を探しているのは、この測定可能な領域を確保するためである[16]。問題が簡単すぎれば量子側の改善を検出できない。難しすぎれば量子側で実験できない。ベンチマーク問題は単に「難しいほど良い」のではなく、二つの技術の能力差が変化したときに、その変化を観測できる位置へ置かなければならない。

この構造は、陸上競技の記録のような固定された性能値とは異なる。100 m を 9.8 秒で走ったという記録なら、他の選手が将来速くなっても 9.8 秒という事実は変わらない。しかし「世界最速である」という属性は、他の選手が 9.7 秒を出した瞬間に失われる。量子最適化でも、ある問題を 10 秒で解いたという測定値は残るが、「古典計算より速い」という関係は古典側の更新によって変わる。

量子優位性で保存すべきなのは、この二種類の情報である。第一に、量子手法がある時点でどの問題を、どの品質まで、どれだけの計算資源で解いたかという絶対的な実験記録がある。第二に、その結果が同時点の古典側の最良水準と比べてどこに位置していたかという相対的な評価がある。前者は過去の技術水準の記録として残る。後者は比較対象が改善するたびに再評価される。

記録する対象 時間が経過しても変わらないもの 技術進歩によって変わるもの
量子手法の実験結果 使用した問題、解品質、QPU 時間、CPU 時間、総実行時間などの測定値は実験記録として残る。 その結果が現在でも最良水準にあるかどうかは後続研究によって変わる。
古典手法の実験結果 当時のソルバーが同じ問題を何秒で解いたかという記録は残る。 新しいアルゴリズムや実装が登場すれば、古典側の基準線は更新される。
ベンチマーク問題 過去にその問題がどの技術にとって難しかったかという履歴は残る。 両者が容易に解けるようになれば、性能差を測る問題としての価値は低下する。
量子優位性 ある時点の条件下で優位性が成立したという歴史的事実は保存できる。 現在の最良古典手法に対しても優位かどうかは継続的な再比較を必要とする。

QOBLIB が量子側だけでなく古典側の結果も受け入れる理由も、この表の最後の列にある。量子優位性を測りたいからといって、古典側の性能を固定してはいけない。むしろ古典側には可能な限り強くなってもらう必要がある。弱い古典基準を残しておけば量子側は早く「勝てる」が、その勝利は比較対象を更新した瞬間に消える。最善水準の古典手法を継続的に投入する方が、量子側が本当に超えるべき境界を正確に保てる。

論文が、うまくいかなかった方法を含む結果の共有まで奨励していることも、この目的とつながる[16]。成功した量子実験だけを集めれば、どの条件で性能が崩れるのかが分からない。あるアルゴリズムが 20 変数では働いたが 50 変数では解品質を維持できなかったという結果も、規模拡大に伴う限界を示すデータになる。同様に、ある古典ヒューリスティックが特定問題で極端に強かったという結果も、量子側が超えるべき基準を修正する材料になる。

この継続更新には、単純なランキング以上の意味がある。量子最適化の進歩は、一日で「古典より遅い」から「古典より速い」へ切り替わるとは限らない。最初は量子サンプルの実行可能率が低いかもしれない。次に回路改善によって多くの制約を直接扱えるようになるかもしれない。さらに古典後処理が軽くなり、同じ解品質へ到達する総時間が縮まるかもしれない。最終的に古典手法との性能差が逆転するなら、その途中の距離も同じ問題と評価指標で追跡できる。

第 7 章で見た 52 変数の Maximum Independent Set は、その途中経過の一例として読める。現時点では、量子サンプルだけで実行可能解を得られず、古典後処理によって最適値へ到達している。将来、より多くの制約を量子回路へ直接組み込めるようになり、生の量子サンプルから高い確率で実行可能解を得られるようになれば、量子部分の役割は変わる。さらにパラメータ探索や後処理の費用が減れば、処理系全体として古典手法との差も縮む。その変化を同じ問題で測定できれば、「量子ハードウェアが良くなった」という内部指標ではなく、問題解決能力として何が改善したかを確認できる。

ただし量子側だけが改善するとは限らない。同じ期間に Maximum Independent Set の古典アルゴリズムが高速化すれば、量子側が 10 倍改善しても古典との差が縮まらない場合がある。反対に、量子側の絶対性能の改善が小さくても、古典側が急激には改善できない問題領域へ到達すれば差が縮む場合もある。優位性への距離は、一方の性能曲線だけではなく、二本の曲線の相対位置として決まる。

ここで本稿冒頭の問いへ戻る。「ある計算機が別の計算機より速い」とは何を意味するのか。最適化では、プロセッサ内部の実行時間を一つ比較するだけでは答えられない。まず同じ元問題を固定する。次に、実行可能解、近似解、最適解、最適性証明のどこまでを成功とするかを決める。量子側では問題変換、パラメータ探索、QPU 実行、反復、後処理を含む処理系全体を測る。古典側には、その時点で実際に競争力を持つアルゴリズムを置く。これらの条件がそろって初めて、二つの実行時間を同じ意味で比較できる。

この条件を満たしたとき、量子優位性は初めて観測可能な命題になる。量子プロセッサには量子ビット数やゲート忠実度という装置固有の性能がある。量子アルゴリズムには回路深度や必要なサンプル数といった性質がある。しかし「古典計算より優れている」という性質は、どちらにも単独では存在しない。元問題、数理表現、量子アルゴリズム、古典アルゴリズム、ハードウェア、解品質、成功確率、計算資源を同じ比較系へ置いたとき、その組み合わせの関係として現れる。

この違いを押さえると、「量子優位性を達成した」という表現に求める証拠も変わる。量子装置で従来より大きな問題を動かせたことは技術進歩である。量子アルゴリズムから最適値と一致するサンプルが得られたことも成果である。QPU の実行時間が短縮されたことも成果である。しかし、それらはそれぞれシステムまたはアルゴリズム水準の改善であり、単独ではアプリケーション水準の量子優位性を意味しない。

アプリケーション水準で必要なのは、その量子処理を含む方法を実際に選ぶ合理的な理由が、古典側との比較から生じることである。同じ問題と同じ成功条件に対して、より短時間で答えを得られる、同じ時間ならより高品質な解を得られる、同じ品質なら少ない計算資源で済む、あるいは古典手法では現実的な時間内に到達できない規模を処理できる。この差が確認されたときに初めて、量子技術の内部的な進歩が利用者にとっての優位性へ変わる。

QOBLIB が作っているのは、量子計算機がすでに勝ったことを示す表彰台ではない。現在の結果だけを見れば、論文自身が最適化における実用的な量子優位性の実証はまだ得られていないとしている[16]。QOBLIB の役割は、その未達を曖昧にせず、量子側がどこまで近づいたかを測れる状態を維持することにある。

そして将来、ある QOBLIB の問題で量子を含む処理系が古典側の最良水準を上回ったとしても、その結果だけで QOBLIB の仕事は終わらない。古典側はその結果を受けて新しいアルゴリズムを試す。より強い定式化や前処理を導入する。量子側も次のハードウェアとアルゴリズムを投入する。問題が双方にとって簡単になれば、ベンチマーク側も次の難問へ移る。勝敗判定の土俵そのものが、競技者の進歩に合わせて更新され続ける。

量子優位性は、量子計算機の内部に搭載される機能ではない。ある時点の元問題、解品質、計算工程、量子処理系、古典処理系をそろえた比較の中で成立する関係である。そして、その関係は古典側と量子側の双方が進歩するたびに再評価される。QOBLIB が追跡しようとしているのは、量子計算機の単独性能ではなく、この動く境界である。

量子最適化が本当に古典計算を上回る日が来たとき、必要なのは「量子計算機で解けた」という事実だけではない。同じ問題を、同じ品質まで、前処理と後処理を含む全工程で解き、その時点で最も強い古典手法より優れていたことを示さなければならない。さらに、その比較条件と実験結果を公開し、古典側からの反証や更新にも耐えられる必要がある。QOBLIB が整備しているのは、量子優位性を宣言するための仕組みではなく、量子優位性という主張を検証可能なものにするための仕組みである。


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