知能を成立させる情報の置き場所を設計する

大規模な AI モデルを見ると、知識や能力の多くは学習済みの重みに蓄積されているように見える。大量のデータを入力し、目的関数との誤差に応じて多数のパラメーターを更新する。その更新を繰り返すことで、分類、予測、文章生成、推論といった機能が形成される。現在の機械学習では、この学習済みパラメーターが能力を保持する主要な場所の一つになっている。

一方、モデルがどのような解を獲得できるかは、学習開始時点ですでに大きく制約されている。ニューラルネットワークには、どの要素同士が情報を交換できるか、情報をどの順序で処理するか、過去の状態をどのように保持するかといったアーキテクチャーが与えられる。入力の表現形式、固定された定数、状態遷移規則も、学習可能な解の範囲を変える。実世界で動くシステムでは、身体の形状や関節、感覚器、周囲の物理法則までが実現可能な行動を制約する。

つまり、同じ機能を実現する情報でも、その置き場所には複数の選択肢がある。ある関係を学習済みの重みとして獲得させることもできれば、接続構造として先に固定することもできる。一定の規則をパラメーターとして保持する代わりに、状態遷移の仕組みそのものへ組み込むこともできる。運動であれば、制御器が細部まで計算する代わりに、身体の構造や物理法則によって実現可能な運動をあらかじめ絞ることもできる。

この違いは学習の難しさへ直接影響する。構造として与えられた制約が増えると、学習が探索する候補は減る。その制約が対象に適合していれば、学習はすでに決まっている関係を発見する必要がなくなり、残された未知量の推定へ計算資源を集中できる。逆に、事前に与える制約を減らすと適用可能な解の範囲は広がるが、その分だけ学習側が探索する範囲も広がる。

既稿では AI をコード、モデル、データ、学習設定などへ分解し、AI の能力や自由がどの構成要素によって成立しているかを扱った[1]。同じ分解を知能の成立条件へ適用すると、「どれだけ学習したか」という量の比較から、「必要な情報をどこへ置いたか」という構造の比較へ視点を移せる。

知能を成立させる情報は、システムのどこに置かれているのか。

この問いを具体的に調べられる対象として、ショウジョウバエの神経回路研究がある。近年は脳全体の配線図を測定し、その配線を固定した計算モデルを動かし、生理学的に未知の部分だけを学習させ、さらに身体まで物理シミュレーションへ組み込めるようになった。ここでは、接続構造を測定する研究、固定した構造上で神経活動を計算する研究、未知パラメーターだけを学習する研究、神経系と身体を結合する研究が、一つの連続した問題としてつながる。

これらを並べると、学習量の大小だけでは捉えにくかった設計変数が見えてくる。構造、固定パラメーター、動力学、学習済みパラメーター、身体と環境の間で、必要な情報をどのように分配するかである。


1. 知能の情報はどこに置かれているのか

機械学習では、学習によって変化するパラメーターが目立つ。モデルの規模を表すときにもパラメーター数が使われ、学習データ量や計算量も性能を考える主要な指標になる。しかし、学習アルゴリズムが探索する空間は、モデルを構築した時点ですでに決まっている。どの要素が接続できるか、どの情報を共有できるか、どの状態を保持できるかという構造が、候補となる解の集合を先に定義するためである。

単純な例として、100 個の要素からなるネットワークを考える。すべての要素を任意に接続できるなら、学習は多数の接続候補から有効な経路を選ぶ必要がある。対象について事前知識があり、実際に必要となる接続だけをあらかじめ許可すれば、学習が比較する候補は減る。さらに接続の方向や種類まで測定によって固定できれば、学習側が決める対象は接続そのものから、各接続がどの程度作用するかという少数の未知量へ移る。

この変化は二段階で学習負荷へ作用する。第一に、構造上成立しない候補が探索空間から除かれる。第二に、残された自由度だけを最適化すればよくなるため、同じデータから推定すべき変数の数を減らせる。事前構造が正しいほど、探索範囲の縮小が学習効率につながる。一方で、誤った構造を固定すると、本来必要な解まで候補から除外される。構造を与えることには、探索を効率化する効果と、表現可能な範囲を限定する効果が同時にある。

情報の置き場所 システム上の役割 探索空間への作用 学習との関係
接続構造 どの要素からどの要素へ情報が届くかを決める。 利用可能な情報経路そのものを限定する。 接続関係を事前に固定すると、学習が接続先を探索する範囲を減らせる。
固定パラメーター 閾値や時間定数など、動作の基準を与える。 取り得る状態変化の範囲を具体化する。 測定済みの値を固定すると、未知量だけを学習対象として残せる。
動力学 入力を受けた後に状態が時間とともにどう変化するかを決める。 同じ接続構造から生じる時間発展の候補を規定する。 接続が同じでも動力学が異なれば異なる応答が生じるため、必要に応じて測定または推定する対象になる。
学習済みパラメーター データや目的関数から獲得した規則を保持する。 事前構造の中に残された自由度から具体的な解を選ぶ。 最適化によって値を更新し、観測データや目的へ適応する。
身体と環境 実現可能な行動と感覚フィードバックを物理的に制約する。 物理的に成立する状態や運動だけを候補として残す。 制御系が内部で明示的に計算する必要のある範囲を変える。

この表で注目すべき点は、それぞれが独立した情報源として働くと同時に、後段の自由度を順番に制約することである。接続構造が情報の経路を決め、固定パラメーターと動力学がその経路を通った信号の時間変化を決める。その条件の中で学習済みパラメーターが具体的な応答を調整し、身体と環境が最終的に実現可能な行動を物理的に限定する。

このため、学習する値が少ないシステムを、そのまま情報量の少ないシステムと評価することはできない。学習対象から外れた情報が、接続構造や固定値、動力学へ移されている場合がある。逆に学習パラメーターが多いモデルでは、設計時に固定する情報を減らし、より広い候補からデータによって解を選ばせている場合がある。

比較すべきなのは、学習パラメーターの絶対数だけではなく、システム全体の自由度がどこに残されているかである。何を測定して固定し、何を設計者が構造として与え、何を学習によって決めるか。その分担によって、同じ規模のネットワークでも学習が担う仕事は大きく変わる。

ショウジョウバエの神経回路研究が興味深いのは、この分担を抽象的な設計論として考えるだけでなく、実際に測定された配線図を使って検証できる点にある。どのニューロンがどこと接続しているかを実測し、その構造を固定した上でモデルを動かせば、接続構造そのものがどこまで神経活動を制約しているかを調べられる。次に見るコネクトーム研究は、この「構造に置かれた情報」を観測可能な対象へ変えた。


2. ハエの脳では配線そのものを測定できるようになった

神経回路を計算モデルとして再現するとき、最初に必要になるのは、どのニューロンがどのニューロンへ信号を送るかという接続情報である。接続関係が未知なら、モデル側で候補となる接続を仮定するか、観測データから推定する必要がある。実際の接続を測定できれば、その部分を自由変数として残す必要がなくなり、計算モデルが探索すべき範囲を直接狭められる。

2024 年に公開された FlyWire の成体メスのショウジョウバエ全脳コネクトームには、139,255 個のニューロンと 5,450 万個のシナプスが含まれる[2]。コネクトームとは、神経細胞の形態を再構成し、どの神経細胞がどこでシナプス接続しているかを記述した配線図である。FlyWire 以前にも特定の脳領域を対象とした配線図は存在したが、全脳を同じデータ上で追えるようになったことで、感覚入力から中間回路を経て下降性ニューロンや内分泌系などの出力側へ至る経路を連続して解析できるようになった。

この違いは、単に記録されたニューロン数が増えたという規模の拡大にとどまらない。局所的な配線図では、観測範囲の外へ出た信号がその後どこへ進むかは別の資料や仮定で補う必要がある。全脳コネクトームでは、脳内の広い範囲について入力側と出力側を同じ接続データで結べる。その結果、局所回路の性質だけでなく、脳全体でどの経路が情報伝達を担いうるかというネットワーク構造そのものを計算対象にできる。

ただし、接続先が分かっても、その接続がどのように作用するかを決める情報は別に必要になる。そこで利用される情報の一つが神経伝達物質である。Eckstein らは電子顕微鏡像からアセチルコリン、グルタミン酸、GABA、セロトニン、ドーパミン、オクトパミンの 6 種類を分類するモデルを構築し、個々のシナプスで 87%、ニューロン単位で 94%、既知の細胞型で 91% の分類精度を報告した[3]。

ここでは、電子顕微鏡から生理学的なシナプス強度そのものを直接測定しているわけではない。得られるのは、シナプスの位置と数、さらに画像から推定された神経伝達物質という情報である。神経伝達物質は接続の作用を推定する重要な制約になる一方、実際の効果は受容体や細胞の状態などにも依存する。計算モデルでは、こうして測定・推定された解剖学的情報を固定条件として使い、その条件からは決まらないシナプス効力や時間特性を別のパラメーターとして与えることになる。

情報 コネクトームから得られる内容 計算モデルへの効果 残る未知量
ニューロン形態 各ニューロンの枝分かれと投射先を再構成できる。 どの脳領域を結ぶニューロンかを固定できる。 膜電位や発火特性などの生理学的性質が残る。
シナプス接続 どのニューロンからどのニューロンへ接続するかを記述できる。 ネットワークの接続候補を実測された経路へ限定できる。 個々の接続が生理学的にどの程度作用するかが残る。
シナプス数 ニューロン間に存在するシナプス数を数えられる。 結合強度を構成するときの解剖学的な基準として利用できる。 シナプス数と実効的な結合強度との対応関係が残る。
神経伝達物質 電子顕微鏡像から伝達物質の種類を推定できる。 接続の作用を決める追加の制約を与えられる。 受容体、修飾状態、実際の応答強度などが残る。

この表から分かるように、コネクトームが増やしているのは単なる観測データ量ではなく、モデル構築時に固定できる条件の数である。まず接続先を測定することで、任意のニューロン同士を結ぶ候補から実在する接続だけを残せる。次にシナプス数や神経伝達物質を加えることで、実在する接続の中でも作用の仕方に追加の制約を与えられる。測定項目が増えるたびに、モデル内部で自由に決める必要のある範囲が一段ずつ狭くなる。

2026 年には、この測定範囲がさらに身体側へ広がった。Berg らは、オスのショウジョウバエについて脳と腹側神経索を連続して含む中枢神経系全体のコネクトームを構築した。データには 166,700 個のニューロンと 11,710 種類のニューロン型が含まれ、脳内回路に加えて感覚入力から運動出力までの完全な経路を解析できる[4]。

この研究自体の中心課題は、オスとメスの神経回路をシナプス解像度で比較し、性特異的・性的二型を示す回路がどこに存在するかを明らかにすることにある[4]。そのため、MaleCNS をそのまま AI のために作られたデータと位置付けることは適切ではない。一方、計算モデルという観点から見ると、脳だけで完結していた配線情報を腹側神経索まで連続させたことで、感覚入力、脳内処理、下降性指令、運動系という一連の経路を同じ構造データ上で扱えるようになった。

ここまでの変化を、前章で示した「情報の置き場所」という観点から見ると意味が明確になる。接続関係が未知であれば、その構造もモデルが推定すべき自由度になる。電子顕微鏡によって接続を測定すれば、その自由度は実測値で置き換えられる。さらにシナプス数や神経伝達物質を測定・推定すれば、接続の性質についても候補を狭められる。

つまり、学習で獲得する情報が減ったとき、その情報が消えたとは限らない。生物の構造を測定することで、学習対象だった情報をモデルの固定条件へ移せる。ショウジョウバエのコネクトーム研究は、この移動を実際の神経回路で行えるだけの測定基盤を作った。次に問うべきなのは、こうして配線を固定したとき、その構造だけで神経活動をどこまで予測できるかである。


3. 配線を固定するとどこまで計算できるのか

実測された配線を計算モデルの固定条件として与えると、その構造だけで神経活動をどこまで制約できるのか。Shiu らは 2024 年、FlyWire の成体ショウジョウバエ全脳コネクトームを基に、127,400 個のニューロンをリーキー積分発火モデルとして動かした[5]。前章で見たコネクトームを、静的な配線図として解析するだけでなく、時間とともに神経活動が伝播する動的なモデルへ変換した研究である。

リーキー積分発火モデルでは、各ニューロンに膜電位を持たせる。上流のニューロンが発火すると下流ニューロンの膜電位が変化し、入力が途切れると膜電位は静止電位へ戻る。入力が蓄積して発火閾値に達すると、そのニューロンも発火して次のニューロンへ影響を伝える。実際の神経細胞が持つ分子機構や形態をすべて再現する代わりに、入力の蓄積、減衰、発火という時間変化へ絞ったモデルである。

Shiu らは、このモデルの接続先を自由に学習させていない。ニューロン \(j\) からニューロン \(i\) への結合は、FlyWire で観測されたシナプス数を基礎とし、上流ニューロンを興奮性または抑制性に分類した符号と、大域的なシナプス係数 \(W_{\mathrm{syn}}\) を掛けて構成した[5]。関係を単純化すると、次のようになる。

\[
w_{j,i}
=
C_{j,i}
\times
s_j
\times
W_{\mathrm{syn}}
\]

\(C_{j,i}\) は FlyWire で数えられたニューロン間のシナプス数、\(s_j\) は上流ニューロンが興奮性なら \(+1\)、抑制性なら \(-1\) を与える符号、\(W_{\mathrm{syn}}\) は 1 個のシナプスが下流ニューロンの膜電位へ与える基本的な変化量である。個々のニューロン間結合について独立した重みを最適化する構成ではなく、実測された接続数の差がそのまま結合の相対的な大きさへ反映される[5]。

この表から分かるのは、自由に調整した値が少ない一方で、モデルへ入力された情報は多いという構造である。接続先、シナプス数、興奮・抑制の方向、神経細胞の時間特性は、学習対象として残す代わりに実測値や既存研究から与えられている。最適化が担う範囲を狭められた背景には、対象生物から取得した構造情報がある。

自由パラメーターとなった \(W_{\mathrm{syn}}\) は \(0.275\,\mathrm{mV}\) である。著者らは、糖を感知する味覚受容ニューロンを 100 Hz で刺激したとき、摂食運動に関わる運動ニューロン MN9 が最大発火率のおよそ 80% に達するよう、この値を設定した[5]。膜電位、発火閾値、膜時定数、シナプス減衰時間、不応期、伝達遅延などの値は、既存のショウジョウバエの生理学研究や計算モデルから与えられている。

このモデルを使うと、糖や水を感知する味覚ニューロンから摂食開始へ至る経路を全脳規模で追跡できる。糖感知ニューロンを刺激すると、モデル内では複数段の介在ニューロンを経て、口吻を動かす MN9 などの運動ニューロンまで活動が伝播した。さらに、どの中間ニューロンを刺激すると MN9 が発火するか、どのニューロンを抑制すると活動が低下するかを計算し、その予測を光遺伝学やカルシウムイメージングによる実験と照合した[5]。

触角の毛づくろいでも同じ方法が使われた。触角の機械刺激を検出する Johnston 器官ニューロンから出発し、既知の下降性ニューロンへ活動が到達する経路をモデル上で追跡した。その結果、どのニューロンが刺激に応答し、どのニューロンが下流回路の活動に必要になるかという候補を全脳ネットワークから抽出できた。局所回路ごとに個別のモデルを組み立てる代わりに、同じ全脳モデルの入力位置と観測位置を変えることで複数の感覚運動回路を調べられる[5]。

著者らが実験によって検証できた予測は 164 件あり、その 91% が実験結果と整合した[5]。この 91% はハエの神経活動全体や行動全体に対する再現率ではなく、論文で対象とした摂食開始と触角毛づくろいなどの回路について、モデルから生成し、実際に実験で判定できた予測を集計した値である。さらに、陰性例が多い split-GAL4 光遺伝学スクリーニングを除くと一致率は 84% になる[5]。

配線構造そのものが予測へ寄与していることは、接続を崩した対照実験からさらに明確になる。糖感知ニューロンを 100 Hz で刺激した場合、実際のコネクトームを使ったモデルでは全シミュレーションで MN9 が安定して活動した。これに対して、接続重みをシャッフルした 100 個のネットワークでは、MN9 が同様に活動したのは 1 個だけだった[5]。

この比較では、ニューロン数や計算方式を維持したまま、どのニューロン間にどの大きさの接続が置かれるかという対応を崩している。第一段階では、正しいコネクトームが感覚ニューロンから運動ニューロンへ到達可能な経路を形成する。第二段階では、その経路上にある多数の接続の強弱と興奮・抑制の組み合わせによって、入力が発火閾値まで蓄積するニューロンと途中で減衰するニューロンが分かれる。接続重みをシャッフルするとこの連鎖が崩れ、同じ入力を与えても MN9 まで十分な活動が伝わりにくくなる。

配線図が担っている情報は、「A と B がつながっている」という隣接関係だけではない。どの経路が何段で目的地へ到達するか、複数の上流経路がどこで収束するか、興奮性入力と抑制性入力がどの位置で競合するか、同じニューロンから何個のシナプスが形成されているかというネットワーク全体の配置が、活動伝播の候補を同時に制約する。個々の接続を独立に見るよりも、接続の組み合わせそのものが計算条件として働いている。

一方、このモデルが再現するのは神経活動のすべてではない。各ニューロンを同じ形式の発火ニューロンとして扱い、基礎発火率を 0 Hz とし、神経形態、受容体ごとの動態、ギャップ結合、非発火型ニューロン、内部状態、神経ペプチドや広域の神経修飾をモデルに含めていない[5]。そのため著者らも、絶対的な発火率より、刺激条件を変えたときに発火率が増えるか減るかという相対的な変化を重視している。

この制約まで含めると、この研究が示した範囲を明確にできる。実測コネクトームは、感覚入力から運動出力へ至る活動伝播を予測するための強い制約として機能する。その構造を崩すと予測能力も大きく失われる。一方、配線から決まらない膜特性や神経修飾などは別の情報として残る。配線は神経活動を一意に決める完成したプログラムというより、成立可能な計算経路を大幅に絞る構造情報として働いている。

この点は、学習量と情報量を区別するうえで重要になる。Shiu らのモデルは個々の接続重みを学習していないが、その代わりに 127,400 個のニューロン間の実測接続、シナプス数、神経伝達物質の推定、生理学研究から得た時間特性を利用している。学習で決める値を減らせた理由の一部は、対象生物を測定することで、計算に必要な条件を学習の前に与えられたことにある[5]。

次に見るべきなのは、この分担をさらに進め、実測できる構造を固定したまま、測定からは決まらない部分だけを学習させた場合である。そこでは、151 万を超える結合を持つ神経回路に対して、学習すべき自由度を 734 個まで絞るという別の設計が現れる。


4. 自由パラメーターが 1 個でも事前条件は多数ある

Shiu らのモデルでは、全脳規模のネットワークを動かすために調整された大域的な自由パラメーターは \(W_{\mathrm{syn}}\) の 1 個である。この数字だけを見ると、ほとんど何も与えずに 127,400 個のニューロンから神経活動を再現したようにも見える。しかし、自由パラメーター数が表しているのは、モデル構築時に調整した未知量の数である。モデルが計算に利用している条件の数や、事前に与えられた構造まで 1 個という意味にはならない。

前章で見たように、このモデルではニューロン間の接続先を FlyWire のコネクトームから固定し、結合の相対的な大きさをシナプス数から決め、神経伝達物質の推定結果から興奮・抑制の符号を与えている。さらに、静止膜電位、発火閾値、膜時定数、シナプス減衰時間、発火後の不応期、シナプス伝達遅延といった生物物理パラメーターには、過去のショウジョウバエ研究や既存の計算モデルから得た値を使っている[5]。

これらの条件は、最適化される自由パラメーターとして数えられなくても、モデルの出力を強く制約する。たとえば、ニューロン A から B への接続がコネクトーム上に存在しなければ、モデルもその経路を使えない。接続が存在しても抑制性として与えられていれば、同じ入力に対する下流ニューロンの膜電位変化は興奮性の場合と逆方向になる。さらに膜時定数や発火閾値を固定すると、入力がどの程度蓄積すれば発火へ到達するかも限定される。

自由度はこのように段階的に減っている。第一段階では、実測コネクトームによって活動が流れ得る経路を限定する。第二段階では、シナプス数と興奮・抑制の符号によって各経路の作用を限定する。第三段階では、発火閾値や時間定数によって、その入力が時間方向にどう蓄積・減衰するかを限定する。その上で残された全体的な作用量を \(W_{\mathrm{syn}}\) で調整している。

モデル要素 Shiu らのモデルでの扱い 情報の取得元 制約される自由度
接続先 ニューロン間の接続を固定する。 全脳コネクトームから取得する。 どのニューロン間を活動が伝播できるかを限定する。
シナプス数 結合の相対的な大きさへ反映する。 電子顕微鏡による接続データから取得する。 実在する接続同士の相対的な作用量を限定する。
興奮・抑制の方向 上流ニューロンごとに符号を与える。 神経伝達物質の推定結果から取得する。 下流ニューロンの膜電位を上げる方向か下げる方向かを限定する。
神経細胞の時間特性 膜時定数、不応期、伝達遅延などを固定する。 既存の生理学研究や計算モデルから取得する。 入力の蓄積、減衰、発火の時間変化を限定する。
神経細胞モデル リーキー積分発火モデルとして統一する。 計算モデルの設計として与える。 各ニューロンが取り得る動作形式を限定する。
大域的シナプス係数 \(W_{\mathrm{syn}}=0.275\,\mathrm{mV}\) として調整する。 MN9 の応答を基準として設定する。 全シナプスに共通する基本的な作用量を決める。

この表で区別すべきなのは、「測定して与えた値」「モデル設計として固定した値」「調整した値」である。自由パラメーターとして数えられるのは最後の部分だが、実際の計算結果はその前に置かれた多数の条件にも依存する。自由パラメーターが 1 個という事実は、未知量の一部を生物の測定結果や既存知識によって先に確定できたことを表している。

さらに Shiu らのモデルには、計算を成立させるための単純化も含まれる。各ニューロンを同じ形式のリーキー積分発火ニューロンとして扱い、基礎発火率を 0 Hz とする。神経細胞の詳細な形態、受容体ごとの動態、ギャップ結合、非発火型ニューロン、内部状態、長距離に作用する神経ペプチドなどはモデルに含まれていない[5]。これらは「自由パラメーターとして残した未知量」ではなく、モデルの適用範囲そのものを決める選択である。

この区別を入れると、モデルの複雑さを自由パラメーター数だけで比較することの限界が見える。あるモデルでは接続構造まで学習対象に含め、別のモデルでは同じ構造を測定値として固定することがある。この 2 つは、最終的に似た神経活動を生成したとしても、学習が解くべき問題の大きさが異なる。前者は接続構造から探索し、後者は実測された接続構造の中で残された未知量だけを調整する。

この違いを一般化すると、学習量を減らす方法の一つは、必要な情報を消すことではなく、その情報を学習の外側で確定することである。対象について測定可能な構造が増えれば、それを固定条件としてモデルへ与えられる。その結果、学習対象として残る自由度が減り、最適化が探索する候補モデルの範囲も狭くなる。

一方、固定した条件が実際の対象とずれていれば、その制約によって正しい解まで候補から外れる。事前構造を増やすことには、探索を狭める効果と、モデルの表現範囲を狭める効果が同時にある。Shiu らのモデルで自由パラメーターを大幅に減らせた背景には、ショウジョウバエという対象について、接続構造や生理学的条件を外部から与えられるだけの測定結果が蓄積していたことがある。

この考え方をさらに進めると、構造として確定できる部分は固定し、測定から決まらない部分だけを学習するという設計になる。次章の視覚系モデルでは、45,669 個のニューロンと 151 万を超える結合を持つネットワークに実測コネクトームを組み込み、残された自由度を 734 個まで絞ったうえで学習させている。


5. 構造を固定すると学習対象を 734 個まで絞れる

Shiu らの全脳モデルでは、測定済みの配線と既存の生理学的知識を固定条件として使うことで、個々の結合を独立に学習する必要を減らしていた。この構造と学習の分担をさらに明示したのが、Lappalainen らによるショウジョウバエ視覚系の研究である。研究チームは、視覚運動処理に関わる 64 種類の細胞型について、45,669 個のニューロンと 1,513,231 個のシナプス結合を持つ計算モデルを構築した[6]。

モデルの各ニューロンは、実際のショウジョウバエ視覚系で同定された細胞型に対応する。接続先も任意に決めるのではなく、電子顕微鏡から再構成されたコネクトームにシナプスが存在する場合だけ接続する。さらに、視覚系が六角格子状の規則的な構造を持つことを利用し、同じ細胞型のニューロンには同じ生理学的パラメーターを共有させた[6]。

この制約によって、151 万を超える結合を持つネットワークでも、学習する自由パラメーターは 734 個まで減る。内訳は、静止膜電位が 65 個、膜時定数が 65 個、細胞型間の単位シナプス強度が 604 個である[6]。細胞型自体は 64 種類だが、大型の CT1 ニューロンを髄質と小葉で別々の区画として扱うため、単一ニューロンの性質については 65 種類の値を持つ。

ここで 151 万個のシナプスそれぞれに 151 万個の独立した重みを与えているわけではない。同じ細胞型から同じ細胞型への接続では、1 個のシナプスが持つ基本的な強さを共有し、実際の結合強度はコネクトームで測定されたシナプス数に比例させる。たとえば、同じ種類の細胞間で 5 個のシナプスを持つ接続と 10 個のシナプスを持つ接続があれば、後者の結合強度は前者の 2 倍になる。その比例係数だけを学習することで、多数の個別接続を少数の細胞型間パラメーターへまとめている。

自由度が 734 個まで減る過程は、論文中で段階的に比較されている。接続について何も知らない再帰型ニューラルネットワークから出発し、空間的な規則性、局所的な接続範囲、実測された細胞型間接続、実測されたシナプス数という制約を順番に加えると、推定すべきパラメーター数は次のように減る[6]。

モデルに与える制約 自由パラメーター数 減少する自由度 残された学習対象
接続を制約しない再帰型ネットワーク 2,196,421,955 ほぼすべてのニューロン間接続を候補として持つ。 個々の接続重みと各ニューロンの性質を推定する。
細胞型ごとに空間的な接続規則を共有 3,046,355 同じ細胞型間では位置ごとに独立した規則を持たせない。 細胞型間の接続パターンと神経細胞の性質を推定する。
接続範囲を近傍 5 視覚カラムへ限定 384,605 遠距離を含む多数の接続候補を探索対象から除く。 局所範囲内の接続重みと神経細胞の性質を推定する。
実測コネクトームの細胞型間接続を使用 55,185 実際に観測された 604 種類の細胞型間接続だけを残す。 実在する接続の位置ごとの強さと神経細胞の性質を推定する。
実測シナプス数に比例して結合強度を共有 734 個々の接続強度を細胞型間の共通係数へ集約する。 65 個の静止膜電位、65 個の膜時定数、604 個の単位シナプス強度を推定する。

この比較では、最初の約 22 億個から 734 個まで、自由パラメーターが約 300 万分の 1 に減っている。ただし、この減少はネットワークから情報を取り除いた結果ではない。ニューロンの配置規則、接続の疎性、どの細胞型同士が接続するか、何個のシナプスが存在するかという情報を、学習対象から実測値や構造上の制約へ移した結果である。

自由度を減らした後、残された 734 個の値は視覚運動を推定する課題によって最適化された。入力には自然な視覚運動を含む動画像を与え、モデル内部の神経活動からオプティカルフローを推定できるように学習する。オプティカルフローとは、視野上の各位置が時間とともにどの方向へどれだけ移動したかを表す量であり、動物が自身の移動や周囲の物体の運動を検出するために必要な計算の一つである[6]。

この学習で神経活動の実測値は教師データとして使われていない。モデルに与えた主な制約は、実測コネクトームと「視覚運動を計算する」という課題である。研究チームは、この条件で 50 個のモデルを別々に最適化した。各モデルは同じ接続構造と同じ課題を持つが、最適化後の生物物理パラメーターには異なる解が得られた[6]。

その後、モデルの内部活動を、実際のショウジョウバエで測定された神経活動と比較した。評価には過去 26 件の実験研究が使われ、ON と OFF の明暗選択性、T4・T5 ニューロンの方向選択性など、視覚系で既知の複数の応答特性についてモデルと実験の対応を調べた[6]。つまり、神経活動を直接正解として学習させた後で同じデータに一致したのではなく、配線と視覚運動課題から推定した内部活動を、独立した生理学実験と照合している。

ここには二段階の制約が働いている。最初にコネクトームが、どのニューロンがどのニューロンへ影響できるかという構造上の候補を絞る。次に視覚運動推定という課題が、その構造の中でどの時間定数やシナプス強度なら必要な計算を実現できるかを絞る。構造だけでは残る多数の候補を課題がさらに選別し、課題だけでは広すぎる探索空間を構造が先に限定している。

この関係は、構造制約と学習を競合する方法として見るより、異なる未知量を担当する仕組みとして捉えると分かりやすい。電子顕微鏡から測定できる接続は固定する。視覚系の規則的な配置から共有できるパラメーターは共有する。シナプス数から相対的な結合の大きさを与える。その上で、膜時定数や単位シナプス強度のように接続図から直接決まらない値を、回路が遂行すべき課題から推定する。

結果として、学習の役割が変わる。接続構造まで含めてネットワーク全体を発見する代わりに、すでに測定された構造の中で、その構造を機能させる未知量を同定する仕事になる。734 という数字が示しているのは、巨大な神経回路が 734 個の情報だけで成立しているということではなく、実測コネクトームと構造上の規則を利用することで、最適化へ残す未知量を 734 個まで縮約できたということである。

一方、同じコネクトームと同じ課題から最適化した 50 個のモデルは、同程度の課題性能を持ちながら異なる生物物理パラメーターへ到達した[6]。構造を固定し、課題まで与えても、内部の動力学が唯一の解に決まるとは限らない。この残った不定性は、次章で扱う「同じ配線でも同じ脳になるとは限らない」という問題へつながる。


6. 同じ配線でも同じ脳になるとは限らない

前章では、実測コネクトームで接続構造を固定すると、45,669 個のニューロンと 151 万を超える結合を持つネットワークでも、学習対象を 734 個の自由パラメーターまで絞れることを見た。しかし、同じ構造と同じ課題を与えた 50 個のモデルは、同程度の課題性能を実現しながら異なる生物物理パラメーターへ到達した。接続構造によって探索空間を大幅に狭めても、内部の動力学には複数の解が残る。

この問題を理論的に調べたのが、Beiran と Litwin-Kumar による 2025 年の研究である。著者らは、正解となる神経系を 教師モデル、その活動を再現しようとするモデルを 生徒モデル とする枠組みを構築した。教師モデル と 生徒モデル には同じシナプス接続と同じシナプス重みを与え、その一方でニューロンのゲインやバイアスなどの生物物理パラメーターには異なる値を持たせる[7]。つまり、コネクトームと結合重みが完全に既知であっても、神経細胞そのものの性質が未知である状況をモデル化している。

この条件で 生徒モデル に 教師モデル と同じ課題出力を生成するよう学習させると、課題上は同じ答えを出しながら、内部のニューロン活動が 教師モデル と大きく異なる解が複数見つかった[7]。同じ入力を受け、同じ配線と同じ結合重みを持ち、最終的に同じ課題を解いていても、その途中で各ニューロンが示す活動パターンは一つに定まらない。

この縮退が生じる理由は、課題出力が神経活動の一部だけを拘束することにある。多数のニューロンからなるネットワークでは、異なる内部活動の組み合わせが同じ出力へ到達できる。あるニューロンの応答が変わっても、別のニューロンやパラメーターの変化によってその影響を相殺できれば、最終的な課題性能は維持される。そのため、課題を正しく解けるという条件だけでは、内部活動を一意に復元するための制約として不足する。

条件 教師モデル と 生徒モデル の関係 その条件で決まるもの 残る不定性
シナプス接続 同じ接続構造を共有する。 どのニューロン間で直接作用できるかが決まる。 各ニューロンが入力へどう応答するかは残る。
シナプス重み 同じ重み行列を共有する。 接続を通じた相対的な作用量が決まる。 単一ニューロンのゲインやバイアスなどが残る。
課題出力 生徒モデル を 教師モデル と同じ出力へ学習させる。 外部から観測する課題性能を一致させられる。 同じ出力を作る複数の内部活動が残る。
一部ニューロンの活動記録 教師モデル の実測活動を 生徒モデル へ追加の制約として与える。 内部活動の候補を直接絞れる。 記録数が不足すると未観測ニューロンの活動に複数解が残る。

著者らは、この縮退を解くために 教師モデル の一部ニューロンの活動を追加で 生徒モデル に与えた。少数のニューロンについて「この入力条件では、この時間変化を示す」という観測値を加えると、それまで同じ課題出力を生成できていた複数の候補モデルの一部が排除される。さらに記録するニューロンを増やすと、直接観測していないニューロンについても 生徒モデル の活動が 教師モデル へ近づいた[7]。

この効果は二段階で生じる。第一に、記録したニューロンの活動を一致させることで、生物物理パラメーターの候補が絞られる。第二に、そのパラメーターは同じ再帰回路を通じて未観測ニューロンにも影響するため、直接記録していない部分の活動まで制約される。コネクトームによる構造制約と少数の活動測定を組み合わせることで、全ニューロンを記録せずにネットワーク全体の動力学を推定できる可能性が生まれる。

さらに興味深いのは、必要な記録数がネットワークのニューロン総数そのものでは決まらない点である。著者らの理論では、必要となる観測数を強く左右するのは神経活動の次元である[7]。たとえば 1,000 個のニューロンが存在していても、それらが独立した 1,000 種類の変化を示すとは限らない。多数のニューロンが互いに連動し、実際の活動が少数の独立した変化の組み合わせとして表現できるなら、活動空間の実効的な次元はニューロン数より低くなる。

単純化すると、ニューロン数を \(N\)、神経活動が実際に広がっている独立な方向の数を \(D\) と置ける。各時点の神経活動は \(N\) 個の値を持つが、その変化が実質的に \(D\) 個の独立成分から構成されるなら、観測すべき対象は \(N\) 個すべてではなく、その \(D\) 次元の活動を識別できるだけの制約になる。Beiran と Litwin-Kumar の解析では、未観測ニューロンの活動を正確に予測するために必要な記録数は、ネットワーク規模よりこの活動次元に対応して変化した[7]。

この結果は、コネクトームを取得した後に何を測定すべきかという実験設計にもつながる。すべてのニューロンを同じ優先度で記録するより、候補モデル間の違いを強く表すニューロンを選んで記録した方が、少ない測定から大きな制約を与えられる。著者らは、どのニューロンを優先的に記録すれば未観測活動の不確実性を最も減らせるかを順位付けする方法も示している[7]。

一方、神経活動を正確に再現できても、生物物理パラメーターそのものが正確に復元されるとは限らない。論文では、活動に大きな影響を与えるパラメーターの組み合わせを感度の高い方向(stiff)、変化しても活動への影響が小さい組み合わせを感度の低い方向(sloppy)と整理している[7]。活動を一致させるためには感度の高い方向を正確に推定する必要があるが、感度の低い方向には複数の値が許される。そのため、モデルの神経活動が実測値と一致しても、個々の生物物理パラメーターまで真値と一致するとは限らない。

神経活動を単純化して表すと、次の関係になる。

\[
\text{activity}(t)
=
F\bigl(
\text{connectome},
\text{synaptic weights},
\text{biophysical parameters},
\text{state}(t),
\text{input}(t)
\bigr)
\]

\(\text{activity}(t)\) は時刻 \(t\) における神経活動、\(\text{connectome}\) は誰と誰が接続しているかという構造、\(\text{synaptic weights}\) は各接続の作用量、\(\text{biophysical parameters}\) はニューロンやシナプスの応答特性を表す。\(\text{state}(t)\) はその時点までに形成された内部状態、\(\text{input}(t)\) は外部から入る刺激である。

この式でコネクトームとシナプス重みを完全に固定しても、右辺には生物物理パラメーターや内部状態が残る。それらの組み合わせによって異なる時間発展が成立するため、配線図は活動を一意に指定する完成した実行仕様にはならない。一方で、接続構造を固定すると許される相互作用が大幅に限定されるため、少数の追加測定から残りの活動を推定できる条件が生まれる。

ここでコネクトームの役割をより正確に位置付けられる。配線図は神経系の答えを直接与えるものというより、成立可能なモデルの集合を狭める強い構造制約である。そこへ神経活動の測定を追加すると、構造だけでは区別できなかった候補をさらに排除できる。構造測定と活動測定は競合する手段ではなく、異なる種類の不確実性を順番に減らす手段として組み合わせられる。

前章の Lappalainen らの研究で、同じコネクトームと同じ視覚課題から 50 個の異なるパラメーター解が得られたことも、この構造と整合する。接続を固定すると自由度は大幅に減るが、動力学に関する自由度は残る。その残りを絞るためには、課題性能に加えて内部活動そのものを観測する必要がある。

さらに行動まで再現しようとすると、神経系内部だけでは完結しない別の制約が加わる。神経活動が最終的にどの運動を生み出すかは、脚の長さ、関節の配置、質量、接地、摩擦といった身体の物理特性にも依存する。次章では、情報の置き場所を神経回路の外まで広げ、身体そのものが計算条件として働く構造を見る。


7. 身体も計算条件の一部である

神経系の内部動力学から行動へ進むと、計算条件は脳の外側まで広がる。歩行を例にすると、神経系が生成した運動指令は、そのまま空間上の移動になるわけではない。脚の長さ、関節の配置と可動域、各部位の質量、床との接触、摩擦、慣性といった身体と環境の条件を通じて、実際の姿勢変化へ変換される。

このとき身体は、制御器から命令を受け取るだけの出力装置ではない。関節が曲がる方向は身体構造によって決まり、脚が床へ接触すれば地面反力が生じ、重力と慣性によって次の姿勢も限定される。第一段階で身体構造が実現可能な運動を絞り、第二段階で物理法則が各状態から到達可能な次の状態を決める。その範囲の中で、神経系や人工制御器が目的に合う運動を選択する。

Vaxenburg らは 2025 年、この関係をショウジョウバエの全身物理モデルとして構築した。成体メスのショウジョウバエを 67 個の剛体要素へ分割し、それらを 66 箇所の関節で接続することで、全身で 102 自由度を持つモデルを作った[8]。頭部、胸部、腹部、脚、翅といった身体各部の形状と接続関係がモデル内に与えられ、それぞれが物理法則に従って運動する。

モデルには身体形状だけでなく、質量、関節可動域、重力、身体同士や床との衝突、摩擦、脚先の接着、翅と空気との相互作用も組み込まれている[8]。そのため、制御器が関節へ同じ指令を出しても、現在の姿勢や接地状態によって次に生じる運動は変わる。制御器と身体は一方向の指令系ではなく、身体状態が感覚入力として戻る閉ループを形成する。

身体側の条件 モデルで与えられる制約 制御問題への作用 制御器に残る仕事
身体形状 67 個の剛体要素の大きさと配置を固定する。 身体各部が占められる位置と衝突関係を限定する。 その形状で実現可能な姿勢から目的に合う運動を選ぶ。
関節構造 66 箇所の関節によって全身 102 自由度を定義する。 各部位が動ける方向と範囲を限定する。 許された自由度に対して適切な運動指令を生成する。
接地と摩擦 床との衝突、摩擦、脚先の接着を物理計算する。 脚から身体へ伝わる力と滑りやすさを決める。 接触状態に応じて脚運動を調整する。
慣性と重力 質量と現在速度から身体の時間発展を計算する。 現在の状態から到達可能な次の状態を限定する。 目標運動へ近づく指令を継続的に補正する。
空気との相互作用 翅運動から生じる空気力を近似計算する。 翅の運動と機体の移動・姿勢変化を結び付ける。 目標軌道に応じて翅運動を調整する。

Vaxenburg らは、この身体を動かす制御器を深層強化学習と模倣学習によって訓練した[8]。歩行では全身の自由度をそのまま制御対象にせず、脚、頭部、腹部などを含む 59 自由度を使用した。飛行では脚を典型的な飛行姿勢へ固定し、主として翅と身体姿勢に関係する 12 自由度を制御した。身体が持つ 102 自由度のうち、行動ごとに必要な範囲を選ぶことで、制御器が探索する行動空間をさらに限定している。

歩行制御器は実際のハエから取得した歩行軌跡を模倣するよう訓練され、直進だけでなく旋回時の脚運動や斜面への適応も再現した[8]。ここで制御器が学習するのは、重力や摩擦そのものを再発見することではない。関節構造、衝突、重力、摩擦は物理シミュレーターの側に固定されており、制御器はその条件下で目的の運動を生み出す指令を学習する。

この役割分担は、前章までに見たコネクトームと学習の関係に似ている。神経回路では、実測された接続構造を固定することで学習すべき自由度を減らした。身体モデルでは、物理的に成立する状態遷移を身体構造と環境へ固定することで、制御器が扱う必要のある運動候補を減らしている。どちらも、既知または測定可能な条件を学習の外側へ置き、残された部分だけを最適化する構成になっている。

別の動物でも、この身体制約と内部表現の関係が調べられている。Aldarondo らは 2024 年、生体力学的なラットの身体モデルを人工ニューラルネットワークで制御する仮想ラットを構築した[9]。実際のラットの三次元運動を模倣するよう深層強化学習を行い、その後、人工制御器内部の活動と実際のラットの運動皮質および感覚運動線条体で記録された神経活動を比較した。

学習後の人工ネットワーク内部には、実際のラットで観測された神経活動の構造と対応する表現が形成された[9]。人工ネットワークへ生物の神経活動を直接再現するよう教えた結果ではなく、同じ種類の身体を同じように動かすという課題を解かせた結果として対応が現れた点に意味がある。

ここでも二段階の制約が働く。まず身体の力学が、ある運動を実現するために必要となる関節運動や力の候補を限定する。次に、その身体で実際の動物と同じ運動を再現するという課題が、候補の中から有効な制御方策を選ぶ。この二つの条件を共有することで、生物と人工制御器の内部表現にも共通する構造が生じ得る。

身体をこのように捉えると、知能システムの情報配置は神経回路内部だけでは完結しない。接続構造が神経活動の候補を絞り、生物物理パラメーターがその時間発展を決め、身体構造と環境の物理法則が実現可能な行動をさらに絞る。その条件の中で、学習済みの制御器が具体的な行動方策を選択する。

身体に置かれた制約は、神経系が内部で明示的に保持する必要のある情報量にも影響する。関節構造が許さない姿勢は制御器が逐一禁止する必要がなく、重力や慣性から自然に生じる状態変化を毎回内部モデルとして生成する必要もない。身体と環境そのものが状態遷移を実行するため、計算の一部を物理系へ委ねることができる。

ただし、身体まで含めて行動を精密に再現できるようになると、別の評価軸が必要になる。外から見た歩行が本物のハエと似ていても、その行動を生み出した内部の神経機構まで本物と対応しているとは限らない。次章では、線虫の神経回路とハエの身体を意図的に組み合わせたモデルを使い、行動の一致と内部機構の一致を分けて考える。


8. 行動が似ていても内部機構は同じとは限らない

前章では、身体の形状や関節、摩擦、慣性といった物理条件までモデルへ組み込むことで、神経系や人工制御器が解く問題そのものを実際の動物へ近づけられることを見た。ただし、身体まで精密に再現し、外から見た行動が実際の動物と一致しても、それだけで内部の神経機構まで正しく再現されたとは判断できない。行動の一致と機構の一致は、別々に検証する必要がある。

この違いを意図的に露出させたのが、Brunton らによる 2026 年の Digital Sphinx である。研究チームは、線虫 Caenorhabditis elegans の神経回路とショウジョウバエの身体という、生物学的には対応しない 2 種のモデルを接続した[10]。線虫は身体をくねらせて移動し、ハエは 6 本の関節脚で歩く。運動機構が大きく異なる両者をあえて組み合わせることで、「行動が正しければ内部モデルも正しい」という推論がどこまで成立するかを調べた。

使用した線虫コネクトームは 302 個のニューロンからなり、82 個の感覚ニューロン、80 個の介在ニューロン、140 個の運動ニューロンを含む[10]。コネクトーム内部では、シナプス数から結合の大きさを与え、神経伝達物質から符号を決めた。Digital Sphinx の学習時には、このコネクトーム内部のシナプス重みや細胞パラメーター自体は変更していない。

一方、身体にはショウジョウバエの物理モデルを使う。6 本の脚は合計 42 個のアクチュエーターによってトルク制御され、身体と脚の角度やその時間変化を 148 個の固有感覚入力として取得する[10]。この 148 個の信号を、線虫側の 82 個の感覚ニューロンへランダムに投影した。どのハエの感覚信号をどの線虫感覚ニューロンへ対応させるかについて、生物学的な相同性は使われていない。

出力側にも同じ断絶がある。線虫の 140 個の運動ニューロン活動を、そのままハエの脚へ対応させることはできない。そこで研究チームは、線虫の運動ニューロン活動を入力し、ハエの 42 個のアクチュエーターへトルク指令を出す人工ニューラルネットワークを間に置いた。この変換器は 16 次元の潜在表現を持ち、実際のハエの三次元歩行軌跡を模倣するよう深層強化学習によって訓練された[10]。

構成要素 Digital Sphinx での実装 生物学的な対応 学習時の扱い
神経回路 302 ニューロンの線虫コネクトームを使う。 ハエの神経回路とは異なる。 コネクトーム内部のシナプス重みや細胞パラメーターは固定する。
感覚入力 ハエ身体モデルの 148 個の固有感覚信号を線虫の 82 感覚ニューロンへ入力する。 感覚器の種類や生物学的対応を合わせず、ランダム投影する。 感覚側の対応関係は学習しない。
運動出力 線虫の 140 運動ニューロン活動を人工ニューラルネットワークへ入力する。 線虫の運動ニューロンとハエの脚筋との直接対応はない。 人工ニューラルネットワークが両者の変換を学習する。
身体 6 本の脚と 42 アクチュエーターを持つハエの物理モデルを使う。 ハエの身体構造を基礎とする。 身体力学は物理シミュレーター側で固定する。
学習目標 実際のハエの三次元関節運動を再現する。 外部から観測できる歩行運動を対象とする。 深層強化学習で運動変換器を最適化する。

この構成でも、Digital Sphinx は実際のハエに似た歩行を生成した。脚関節の角度変化や脚同士の協調パターンは現実的になり、外部から観察すればハエらしい歩行として成立する[10]。ここでは、線虫の神経回路がハエの歩行機構を理解している必要はない。線虫コネクトームが生成する時間変化を中間の人工ニューラルネットワークが受け取り、それをハエの身体を動かす適切なトルクへ変換できれば、最終的な行動目標を達成できる。

行動が成立する過程は二段階に分けられる。第一段階では、線虫コネクトームが入力に応じて複雑な時間変化を持つ神経活動を生成する。第二段階では、高い表現能力を持つ人工ニューラルネットワークが、その活動からハエの歩行に必要な運動指令を抽出する。深層強化学習が最適化するのは後者であり、内部の線虫回路がハエの生物学的制御機構へ近づくことは要求されていない。

このため、線虫コネクトーム内部で観測される神経活動にも、ハエの歩行回路としての生物学的意味を与えられない。ある線虫ニューロンが特定の歩行位相と強く相関していても、それをハエで同じ役割を持つニューロンとして解釈する根拠はない。入力側の対応も出力側の対応も生物学的に構成されておらず、間にある学習済み変換器が必要な入出力関係を補っているためである。

研究チーム自身が、このモデルを生物学的説明モデルとして提示しているわけではない。むしろ、生物学的に意味を持たない構成でも、十分に柔軟な学習器を間に置けば高い行動忠実度を実現できることを示す反例として作られている[10]。2026 年 8 月 17 日には eLife の Reviewed Preprint として公開されており、査読コメントと編集評価を伴う段階にある。

この反例によって、仮想動物モデルで分けるべき評価軸が明確になる。

評価軸 確認する対象 高い一致から言えること 別途必要になる検証
行動忠実度 歩行軌跡、関節角度、脚の協調、移動速度など外部から観測できる出力を見る。 モデルが対象行動を再現できることを示す。 内部神経活動や因果機構の対応を別に確認する。
神経活動の忠実度 各ニューロンや細胞集団の時間的な活動を実測値と比較する。 内部状態にも生物との対応があることを示す。 同じ活動が同じ因果機構から生じているかを摂動実験で確認する。
機構忠実度 どの回路がどの入力を受け、どの経路を通じて行動を生むかを調べる。 モデル内部の因果構造が生物学的説明へ使える可能性を高める。 神経操作や損傷による予測を実験と照合する。
接続面の妥当性 感覚器から神経回路、神経回路から筋肉への対応を調べる。 脳と身体を結ぶ入出力にも生物学的根拠があることを示す。 解剖学、生理学、神経操作によって各対応関係を検証する。

Digital Sphinx が特に示しているのは、脳モデルと身体モデルをそれぞれ精密に作るだけでは、統合モデル全体の生物学的妥当性が決まらないという点である。両者の間を結ぶ感覚入力と運動出力の対応にも独立した根拠が必要になる。実際の生物では、特定の感覚器が特定のニューロンへ接続し、特定の運動ニューロンが特定の筋肉を駆動する。この境界を自由度の高い人工ニューラルネットワークで置き換えると、入出力だけを合わせながら生物学的対応を失う余地が生まれる。

この構造は、前章までに見た「自由度をどこへ残すか」という問題ともつながる。コネクトームや身体を固定しても、その間を接続する変換器に大きな自由度を残せば、最適化はそこで多様な対応関係を作れる。固定された構成要素が多いことだけではモデル全体の制約の強さは決まらず、自由度がどこに残っているかを確認する必要がある。

AI の評価でも同じ区別が使える。ベンチマークや目的関数で高い得点を得たことは、その入力と評価条件の下で期待される出力を生成できたことを示す。一方、内部表現がどのような構造を持つか、どの因果関係によって出力へ到達したかという問いには、内部活動の観測、介入、反事実的な入力など別の評価が必要になる。出力性能を測る評価と内部機構を調べる評価は、異なる対象を測定している。

Digital Sphinx の価値は、内部機構を無視したモデルが常に無価値だと示したことにあるのではない。行動再現を目的とするモデルなら、行動忠実度そのものが重要な評価対象になる。一方、モデルから生物の神経機構を説明したい場合には、行動忠実度に加えて各構成要素と接続面を生物学的データへ対応させる必要がある。目的に応じて、必要な忠実度の種類が変わる。

この区別を置くと、モデル評価の基準も明確になる。何を再現したかという出力だけでなく、その再現結果から何を推論しようとしているかによって必要な検証が決まる。歩行を生成することが目的なら歩行の一致を測ればよい。神経回路の理解が目的なら、内部活動、回路への摂動、感覚と運動の接続関係まで検証する


9. 生物は異なる時間尺度へ情報を分配する

ここまで見てきた情報の置き場所には、もう一つの軸がある。時間である。個体が経験から獲得する情報だけで神経系が成立しているわけではない。個体が学習を始める時点ですでに、身体の形状、感覚器、運動器、神経回路を形成する発生過程が進み、その発生過程を成立させる遺伝情報は世代を越えて継承されている。生物では、異なる時間尺度が異なる種類の情報を受け持つ。

Zador は 2019 年の Perspective で、動物と人工ニューラルネットワークの学習効率の差をこの観点から論じた[11]。人工ニューラルネットワークでは、多数の学習例からパラメーターを調整して能力を獲得する方法が中心になる。一方、動物は出生直後から一定の感覚処理や行動能力を持ち、その後の比較的少ない経験から新しい能力を獲得する。Zador は、この差を個体学習アルゴリズムの性能だけで説明するより、進化によって形成された生得的な回路構造まで含めて考える必要があると主張した。

この議論で重要なのは、ゲノムが完成した神経回路の全接続を一つずつ記録しているという意味ではない点である。哺乳類の脳にはゲノム容量から直接列挙できる数をはるかに超える接続が存在する。そこで Zador は、ゲノムが個々の接続を直接指定する代わりに、発生時にどの種類のニューロンを作り、どこへ軸索を伸ばし、どの細胞と接続しやすくするかという形成規則や接続モチーフを記述していると考える[11]。

限られたゲノム容量を通じて複雑な回路構造を生成するこの関係を、Zador は ゲノムのボトルネック(ゲノムのボトルネック) と呼んでいる[11]。進化の過程で得られた情報は、完成した巨大な結合行列として次世代へ渡されるのではなく、発生によって回路を再構成できる圧縮された規則として継承される。個体は、その規則から形成された身体と神経系を初期条件として生涯の学習を始める。

ここには二つの異なる最適化過程が重なっている。外側では、多数の世代にわたる進化によって、どのような身体と神経回路を形成する個体が環境の中で存続するかが選択される。内側では、その結果として生まれた個体が、生涯の経験から神経回路を変化させる。進化は学習前の構造や学習規則を変え、個体学習はその構造の中で経験依存の値を変える[11]。

時間尺度 主な情報の保持・実現場所 次の時間尺度へ与える条件 適応する対象
進化 ゲノムを通じて発生規則、身体形成、神経回路形成の条件を継承する。 どのような身体と神経系を形成し、どのような可塑性を持つかを制約する。 世代を越えて繰り返し現れる環境条件へ適応する。
発生 遺伝子発現と細胞間相互作用によって身体、感覚器、運動器、神経回路を具体化する。 個体学習が始まる時点の接続構造、入出力系、身体条件を形成する。 遺伝的な形成規則を個体の具体的な構造へ展開する。
個体学習 シナプス可塑性や内部状態の変化によって経験を反映する。 既存の身体と神経回路の範囲で具体的な行動方策を形成する。 その個体が実際に遭遇した環境、課題、経験へ適応する。

この三つは独立した過程ではなく、上流の時間尺度が下流の探索空間を作る階層になっている。進化によって形成された規則が発生可能な身体と神経回路を限定し、発生によって形成された具体的な神経回路が個体学習で変更可能な状態を限定する。個体学習は任意のネットワークから始まるのではなく、長い進化と発生を経て作られた初期条件の中で行われる。

この構造を学習問題として見ると、前章までの議論と対応する。進化によって接続形成規則が与えられることは、機械学習でアーキテクチャーや帰納的な制約を事前に与えることに近い役割を持つ。発生は、その規則を実際の個体の接続構造へ展開する。個体学習は、そこで残された自由度を経験によって調整する。時間尺度が変わるたびに、前の段階で決まった情報が次の段階では固定条件として働く。

たとえば、生物が重力の存在を毎世代ゼロから発見して身体構造を設計する必要はない。重力のある環境で多数の世代にわたり選択が働けば、その環境で機能する身体や制御機構を形成しやすい発生規則が残る。その個体が生まれた後には、身体構造そのものが重力下で取り得る運動を制約する。個体学習が扱うのは、その既存条件の中で具体的な環境へ適応する部分になる。

この分担によって、個体が生涯に経験するデータだけでは獲得しにくい構造を、より長い時間尺度から持ち込める。進化には膨大な世代数と個体数にまたがる選択が働き、その結果がゲノムを介して次世代の発生条件へ反映される。個体から見ると、その履歴の一部を「最初から存在する構造」として受け取ることになる。

ただし、Zador の議論から、現在観測されている特定のコネクトームに何ビットの進化情報が含まれるかを直接算出することはできない。論文は Perspective であり、ゲノムのボトルネック は動物の生得的構造と学習効率を説明するための理論的枠組みとして提示されている[11]。ショウジョウバエのコネクトーム研究が実測している接続構造と、Zador が論じる進化による情報圧縮を結び付ける場合、この区別を保つ必要がある。

この枠組みから得られるのは、「先天か後天か」という二者択一より細かな見方である。進化が発生規則を形成し、発生が身体と神経回路を形成し、その回路が個体学習によって変化する。さらに個体学習の能力そのものも、どの種類の可塑性を持つか、どの信号を報酬や誤差として利用できるかという上流の構造に依存する。学習は独立した機能ではなく、学習可能なシステムを先に形成する過程の上に成立している。

この関係は、AI を設計するときにも同じ問いを生む。すべての知識を一つの学習過程で獲得させる方法もあれば、複数の時間尺度へ分ける方法もある。長期的に共通する構造をアーキテクチャーや事前学習へ置き、個別の課題に固有の情報だけを追加学習へ残すこともできる。どの段階で何を固定し、どの段階に自由度を残すかによって、後段の学習が探索する範囲が変わる。

前章までに見た空間的な情報配置と、この時間的な情報配置は同じ構造として整理できる。接続構造、動力学、身体、環境という異なる場所へ情報を分けるだけでなく、進化、発生、個体学習という異なる時間尺度へも情報を分ける。ある段階で獲得または形成された情報が、次の段階では固定条件や初期条件として働く。

既稿「知能はどこから来てどこへ行くのか」では、知能が生物個体だけに閉じず、道具、記録、制度、人工システムへ機能を移していく過程を扱った[12]。そこでは知能の機能がどの担体へ置かれるかを長い系列として見た。本稿では同じ問いを一段細かくし、一つの知能システムを成立させる情報が、接続構造、動力学、身体、学習済みパラメーター、さらに異なる時間尺度へどのように分配されるかを見ている。

この二つを接続すると、知能を一つの場所に蓄積された能力として捉える必要が薄くなる。ある能力を成立させる条件は、進化で形成された規則、発生した身体と回路、生涯で獲得した学習結果、さらに外部の環境や道具へ分散し得る。どの情報がどこで獲得され、どの段階から固定条件として扱われるかを追うことで、知能システム全体の構造をより具体的に記述できる。

ここまでで、情報の配置先は神経回路内部から身体、環境、さらに時間尺度まで広がった。最後にこれらを一つの設計問題へ戻すと、「どれだけ学習するか」より先に、「何を学習させ、何を構造として与え、何を測定し、何を別の時間尺度へ委ねるか」という問いが現れる。


10. 学習量ではなく学習させる範囲を設計する

ここまで見てきた研究を一つにまとめると、ショウジョウバエのコネクトームから得られる設計上の示唆は、特定の神経回路をそのまま AI へ移植することにはない。Shiu らは、実測された接続構造とシナプス数を固定すると、少数の自由パラメーターでも特定の感覚運動回路を予測できることを示した。Lappalainen らは、実測コネクトームと細胞型ごとの共有構造を使うことで、151 万を超える結合を持つネットワークの自由パラメーターを 734 個まで絞った。Beiran と Litwin-Kumar は、同じ接続と同じシナプス重みを与えても、内部動力学には複数の解が残ることを示した。さらに身体モデルでは、関節、摩擦、慣性、接触といった物理条件が、神経系の外側から行動の候補を制約した。

これらは別々の研究に見えるが、共通しているのは自由度の配置である。どの情報を測定済みの構造として固定し、どの値を既知の定数として与え、どの部分を動力学として実装し、どの未知量を学習に残すかによって、最適化が探索すべき範囲が変わる。

この関係を概念的に整理するため、知能システムの出力 \(Y\) を次のように表す。

\[
Y =
F(
A,\,
W_f,\,
D,\,
W_l,\,
S,\,
B,\,
X
)
\]

\(A\) は接続構造やアーキテクチャー、\(W_f\) は測定や設計によって固定されたパラメーター、\(D\) は時間発展を決める動力学、\(W_l\) は学習によって更新されるパラメーター、\(S\) は現在の内部状態、\(B\) は身体と環境との結合、\(X\) は外部入力を表す。この式は特定の神経モデルを記述するための方程式ではなく、同じ出力機能を成立させる情報が複数の場所へ分配され得ることを整理するための表現である。

構成要素 ショウジョウバエ研究での対応 固定すると減る自由度 残る設計課題
\(A\) 接続構造 実測コネクトームによって、どのニューロン同士が接続するかを与える。 存在しない接続や経路を探索する必要が減る。 接続がどの程度作用するか、どの動力学を持つかを決める必要が残る。
\(W_f\) 固定パラメーター 発火閾値、膜時定数、シナプス数に基づく相対的結合などを与える。 既知の生理学的条件を学習対象から外せる。 対象や個体によって変動する値の扱いが残る。
\(D\) 動力学 リーキー積分発火モデルや細胞型ごとの時間特性として与える。 同じ入力に対する状態変化の形式を限定する。 実際の神経活動を再現する生物物理パラメーターの推定が残る。
\(W_l\) 学習パラメーター 測定から直接決まらないシナプス強度や時間特性などを最適化する。 構造や固定値から決まらない部分だけを適応できる。 どの未知量を学習対象として残すかを決める必要がある。
\(S\) 内部状態 各時点の神経活動や膜電位などとして現れる。 過去の入力履歴を現在の応答へ反映できる。 観測すべき状態と省略可能な状態を区別する必要がある。
\(B\) 身体と環境 関節、質量、摩擦、接地、空気との相互作用として与える。 物理的に成立する行動だけを候補として残せる。 神経系と身体を結ぶ感覚・運動インターフェースの妥当性が残る。
\(X\) 外部入力 視覚、味覚、機械刺激、固有感覚などとして与える。 どの環境条件に対する応答を計算するかを限定する。 訓練時と実環境での入力分布の差を管理する必要がある。

この関係から、知能システムの設計を「学習量の最大化」だけで評価する必要はないことが分かる。対象について確度の高い知識があるなら、その知識を構造や固定値として与えることで探索空間を狭められる。測定可能な値は測定によって確定できる。既知の物理法則は身体や環境モデルへ置ける。個体や環境によって変化する部分、事前に確定する根拠が弱い部分は学習へ残す。この分担によって、学習は未知のすべてを発見する処理から、既知の条件の中に残された未知量を同定する処理へ変わる。

ただし、固定する情報が多いほど常に有利になるわけではない。事前に与えた構造が対象と一致していれば探索範囲を効率よく狭められるが、誤った構造を固定すると正しい解まで候補から外れる。自由度を広く残せば、多様な解を表現できる一方で、その中から適切な解を選ぶために多くのデータや計算が必要になる。固定と学習の配分は、対象についてどこまで確かな知識を持っているかという認識論的な条件にも依存する。

対象についての状態 適した扱い 理由
高い確度で構造が分かっている 構造として固定する。 既知の関係を学習で再発見する範囲を減らせる。
値を直接測定できる 測定値として固定する。 推定問題を観測問題へ置き換えられる。
既知の物理法則で決まる 動力学や身体モデルへ組み込む。 状態遷移を学習済み重みに保存する必要を減らせる。
環境や個体によって変化する 学習対象として残す。 固定値より適応可能な表現が必要になる。
内部状態として短時間で変化する 状態変数として保持する。 長期的なパラメーター変更と短期的な状態変化を分離できる。
構造について確かな根拠がない 自由度を残して検証する。 誤った事前制約によって正しい解を除外する危険を減らせる。

第 9 章で見た進化、発生、個体学習の分担も、この表と同じ構造として理解できる。進化によって長期的に安定した条件が発生規則へ組み込まれ、発生によって具体的な身体と神経回路が形成され、その上で個体学習が環境固有の情報を獲得する。ある時間尺度で獲得された情報が、次の時間尺度では固定条件として使われる。

この見方では、知能の能力を「学習済み重みの中にどれだけ多くの情報を入れられるか」という一つの軸へ還元する必要がなくなる。接続構造へ置ける情報があり、固定パラメーターへ置ける情報があり、動力学として実装できる情報があり、身体や環境そのものに任せられる制約がある。その上で、事前に確定しにくい部分だけを学習済みパラメーターへ残すという設計も成立する。

ショウジョウバエの研究が具体的に示しているのは、学習前の構造が計算能力の外側にある付加条件ではなく、計算そのものを成立させる情報の一部だということである。実測コネクトームを固定すると活動伝播の候補が狭まり、シナプス数や細胞型を使うと自由パラメーターをさらに減らせる。活動測定を加えると残った動力学の候補を絞れ、身体を加えると行動可能な状態空間が物理的に狭まる。

知能システムの設計で問うべきなのは、最終的に何個のパラメーターを学習したかだけではない。何を構造として与え、何を測定によって固定し、何を動力学へ組み込み、何を身体と環境へ委ね、どの未知量だけを学習対象として残したかである。学習量はその設計の結果として決まる。

この観点に立つと、知能を作る仕事は、巨大な学習器へできるだけ多くを覚えさせることから一段広がる。学習させる範囲そのものを設計し、学習より前に確定できる情報と、学習によって初めて獲得できる情報を分離することまでが設計対象になる。ショウジョウバエのコネクトーム研究は、その分離を抽象論ではなく、実測された神経回路、神経活動、身体モデルという具体的な対象で検証できる段階に進めている。


参考文献

  1. id774, 自由ソフトウェアの自由は AI でどう変わるのか(2026-08-23). https://blog.id774.net/entry/2026/08/23/5555/
  2. Dorkenwald S, et al. Neuronal wiring diagram of an adult brain. Nature 634, 124–138 (2024). https://doi.org/10.1038/s41586-024-07558-y
  3. Eckstein N, et al. Neurotransmitter classification from electron microscopy images at synaptic sites in Drosophila melanogaster. Cell 187, 2574–2594.e23 (2024). https://doi.org/10.1016/j.cell.2024.03.016
  4. Berg S, et al. Sexual dimorphism in the complete Drosophila male central nervous system connectome. Cell 189, 5504–5526.e15 (2026). https://doi.org/10.1016/j.cell.2026.08.015
  5. Shiu PK, et al. A Drosophila computational brain model reveals sensorimotor processing. Nature 634, 210–219 (2024). https://doi.org/10.1038/s41586-024-07763-9
  6. Lappalainen JK, et al. Connectome-constrained networks predict neural activity across the fly visual system. Nature 634, 1132–1140 (2024). https://doi.org/10.1038/s41586-024-07939-3
  7. Beiran M, Litwin-Kumar A. Prediction of neural activity in connectome-constrained recurrent networks. Nature Neuroscience 28, 2561–2574 (2025). https://doi.org/10.1038/s41593-025-02080-4
  8. Vaxenburg R, et al. Whole-body physics simulation of fruit fly locomotion. Nature 643, 1312–1320 (2025). https://doi.org/10.1038/s41586-025-09029-4
  9. Aldarondo D, et al. A virtual rodent predicts the structure of neural activity across behaviours. Nature 632, 594–602 (2024). https://doi.org/10.1038/s41586-024-07633-4
  10. Brunton BW, Abe ETT, Hu LJ, Tuthill JC. The digital sphinx: Can a worm brain control a fly body? eLife Reviewed Preprint 111516 (2026). https://doi.org/10.7554/eLife.111516.1
  11. Zador AM. A critique of pure learning and what artificial neural networks can learn from animal brains. Nature Communications 10, 3770 (2019). https://doi.org/10.1038/s41467-019-11786-6
  12. id774, 知能はどこから来てどこへ行くのか(2026-04-11). https://blog.id774.net/entry/2026/04/11/4396/