量子計算機はなぜ壊れやすい情報で計算できるのか

量子計算機をめぐる議論では、しばしば「従来の計算機より速いのか」「暗号を破るのか」「実用化はいつなのか」という問いが前面に出る。しかし、量子計算機を理解するうえで最初に置くべき問いは、速度ではない。より根本的なのは、壊れやすい量子情報をどうやって計算に使える状態として保つのか、という問いである。通常の計算機で扱うビットは、基本的には 0 か 1 のどちらかとして読める。実際の回路ではノイズも誤りも起きるが、電圧のしきい値、冗長化、誤り検出、再送、チェックサム、ECC などによって、実用上は安定した情報単位として扱える。これに対して量子ビットは、0 と 1 の値だけではなく、その重ね合わせ、位相、もつれを情報として持つ。したがって、量子計算機の本質的課題は、量子ビットを単に増やすことではなく、その繊細な情報を壊れにくい論理構造として保存し、計算の途中で制御し続けることである。

これまで既稿では、量子アニーリング、ボルン則、時間の不可逆性、量子計算と暗号、量子乱数をそれぞれ扱ってきた[1][2][3][4][5]。本稿は、この問題を京都大学と理化学研究所が 2026 年 5 月に発表した「並進対称性が元に戻せなくなる新現象」の研究へ接続して考える[6][7]。本稿は、その系列の中で、量子計算機を「速い計算機」としてではなく、「壊れやすい量子情報を、対称性、欠陥、ゲージ化、全体構造によってどう守るのか」という問題として整理する位置にある。扱う中心命題は、今回の非可逆対称性の研究がすぐに実用技術になるという話ではない。むしろ、量子計算機の長期的な課題である量子情報保存、量子誤り訂正、論理演算の設計に対して、対称性と欠陥構造をどう理解するかという基礎理論を広げる研究だ、という点である。


1. 量子計算機の問題は速さよりも壊れやすさにある

量子計算機を理解するとき、最初に置くべき問いは「どれだけ速いのか」ではない。もちろん、量子計算機が注目される理由のひとつは、特定の問題で古典的な計算機とは異なる計算能力を持ちうる点にある。しかし、「量子だから何でも速い」と考えると、量子計算機の本質を取り違える。量子計算機は、表計算、文章作成、Web サービス、通常のデータベース処理のような一般的な処理を一律に高速化する万能機械ではない。量子計算機が意味を持つのは、重ね合わせ、位相、干渉、もつれといった量子特有の構造を、計算過程そのものに使える場合である。文部科学省は、量子を粒子と波の性質をあわせ持つ小さな物質やエネルギーの単位として説明しており、NEDO も量子技術を、量子特有の性質を情報処理、通信、計測などに利用する技術として整理している[8][9]。ここで重要なのは、量子技術の強みが、単なる小型化や高速化ではなく、古典的な 0/1 とは異なる状態を計算に組み込む点にあることである。

この違いは、通常のビットと量子ビットを比較すると見えやすい。通常のビットは、現実の電子回路では電圧、電荷、磁化状態などとして実装されるが、論理的には 0 か 1 のどちらかとして扱われる。物理的な信号には多少の揺らぎがある。電圧が完全に 0 V で止まるわけではなく、電源ノイズや熱雑音によって小さく揺れることもある。しかし、しきい値より低ければ 0、しきい値より高ければ 1 と判定できるため、小さな揺らぎは論理値へ丸め込める。この丸め込みによって、通常の計算機は現実の物理装置でありながら、論理的には安定した 0/1 の体系として動作できる。

量子ビットでは、この事情が根本的に変わる。量子ビットは、0 または 1 のどちらかに固定された箱ではない。0 と 1 の重ね合わせとして状態を持ち、その重ね合わせには、どれくらい 0 成分があるか、どれくらい 1 成分があるかだけでなく、両者がどのような位相関係にあるかという情報も含まれる。位相とは、この文脈では、0 成分と 1 成分がどのような向きで重なり合っているかを表す量である。量子計算では、この位相の違いを使って、正しい答えにつながる経路を強め、不要な経路を打ち消す。したがって、量子ビットにとっての誤りは、0 が 1 に変わることだけではない。0 と 1 の比率が大きく変わらなくても、位相が乱れれば、干渉の仕方が変わり、計算結果そのものが壊れる。

ここで「壊れる」という言葉は、量子ビットを作っている物理部品が砕けるという意味ではない。壊れるのは、計算に使いたい量子状態である。たとえば、超伝導回路、イオン、原子、半導体中のスピンなどを用いて量子ビットを作る場合、それらは実験装置の中で周囲の熱、電磁ノイズ、制御信号の誤差、測定装置、隣接する量子ビットとの不要な相互作用から完全には切り離せない。周囲と相互作用すると、量子ビットが持っていた重ね合わせや位相の情報が環境へ漏れ、量子計算に必要な干渉が失われていく。この現象はデコヒーレンスと呼ばれる。デコヒーレンスは、量子ビットが目に見えて破損する現象ではなく、量子として扱うために必要な繊細な状態が、環境との関係によって古典的な確率混合に近づいていく現象である。

通常のビットであれば、小さな揺らぎはしきい値判定によって吸収できる。0 に近い電圧は 0 と見なし、1 に近い電圧は 1 と見なせばよい。しかし量子ビットでは、状態を荒く 0 か 1 へ丸め込むだけでは計算にならない。量子計算は、途中状態として重ね合わせを保ち、位相の関係を保ち、複数の量子ビットのもつれを保ちながら進む。途中で不用意に 0 か 1 として測定すれば、重ね合わせは失われる。つまり、量子計算では、通常の計算機なら信号処理上の小さな揺らぎとして吸収できるものが、計算の意味を直接変える誤りになりうる。

観点 通常のビット 量子ビット
情報の形 0 か 1 の値として扱う。 0 と 1 の重ね合わせ、位相、もつれを含む状態として扱う。
小さな揺らぎの扱い しきい値判定によって論理的な 0/1 へ丸め込みやすい。 位相や重ね合わせの乱れが、計算過程の干渉へ直接影響しやすい。
代表的な誤り 0 が 1 になる、または 1 が 0 になる値の誤りが中心になる。 ビット反転に加えて、位相反転、デコヒーレンス、測定誤差、ゲート誤差が問題になる。
保護の方法 コピー、多数決、再送、チェックサム、ECC などを使いやすい。 未知の量子状態は単純コピーできないため、多数の物理量子ビットの全体構造へ符号化する必要がある。
計算機としての課題 誤り率を実用上十分低く抑え、必要に応じて訂正すればよい。 誤りを前提に、論理量子ビットと耐故障量子計算を構成しなければならない。

この表で最も重要なのは、量子ビットが通常のビットより単に高性能な部品なのではなく、情報の持ち方そのものが異なるという点である。通常のビットは、多少の物理的な揺らぎがあっても、最終的には 0 か 1 のどちらかへ判定できる。量子ビットは、計算途中では 0 か 1 のどちらかへ確定させず、重ね合わせと位相を保ったまま操作する必要がある。したがって、通常のビットにおける「小さなノイズ」と、量子ビットにおける「小さなノイズ」は、計算上の意味が違う。量子ビットでは、その小さなノイズが、答えを強めるはずの干渉を弱め、消えるはずの誤った経路を残し、計算全体の信頼性を下げる。

このため、量子計算機の課題は「量子ビットをたくさん並べればよい」という問題ではない。量子ビット数が増えても、それぞれの量子ビットが短時間で乱れ、ゲート操作にも測定にも誤りが含まれるなら、長い計算は途中で崩れる。通常の計算機では、部品を増やすことによって処理能力を高められる場合が多い。しかし量子計算機では、部品を増やすほど、制御すべき重ね合わせ、位相、もつれ、相互作用、測定結果も増える。量子ビット数の増加は必要条件ではあるが、それだけでは十分条件にならない。

そこで本質的な問いは、「完全に壊れない量子ビットをどう作るか」ではなく、「壊れる物理量子ビットを使って、計算に使える論理量子ビットをどう作るか」になる。物理量子ビットとは、実際の装置上に存在する 1 個 1 個の量子ビットである。これはノイズ、制御誤差、測定誤差を受ける。一方、論理量子ビットとは、多数の物理量子ビットを組み合わせ、誤りを検出しながら 1 つの計算単位として扱えるようにした量子ビットである。量子計算機を実用的な計算機へ近づけるには、物理量子ビットをそのまま信じるのではなく、多数の不安定な物理量子ビットから、十分に安定した論理量子ビットを構成する必要がある。

この視点に立つと、量子計算機は「速い計算機」というより、「壊れやすい情報を構造で守る計算機」として見えてくる。速度の議論は、その後に来る。まず、量子状態をどれだけ長く保てるのか、誤りをどのように検出するのか、測定によって情報本体を壊さずに誤りの痕跡だけを読めるのか、多数の物理量子ビットから論理量子ビットを作れるのか、論理量子ビットの上で計算操作を実行できるのかを確認しなければならない。量子計算機の実用化を支える基礎問題は、量子が速いかどうかではなく、壊れやすい量子情報を、どのような全体構造によって計算可能な形に保つかである。


2. 壊れるなら、そのままでは計算機として使えない

量子ビットが壊れやすいなら、そもそも計算機として使えないのではないか。この疑問は正しい。計算機は、途中で情報が壊れてもよい装置ではない。入力を受け取り、定められた手順で状態を変化させ、最後に信頼できる出力を返す装置である以上、計算途中の情報が無秩序に壊れれば、最終結果も信用できなくなる。量子計算機でも同じである。裸の物理量子ビットをそのまま大量に並べるだけでは、大規模で信頼できる計算機にはならない。計算の途中で量子ビットが少しずつ誤りを起こし、その誤りがゲート操作や測定を通じて広がれば、最後に得られる測定結果は、計算の答えなのか、途中で蓄積した誤りの結果なのか区別できなくなる。

ここで重要なのは、「誤りが起きるから計算機として不可能である」という話ではない。通常の計算機でも、物理的な誤りは起きる。メモリーでは宇宙線や電気的ノイズによるビット反転が起こりうる。通信路では 0 と 1 が化けることがある。ディスクや SSD でも読み書きの失敗、劣化、訂正不能エラーが起こりうる。それでも通常の計算機が実用になるのは、誤り率が十分低く、さらにチェックサム、ECC、再送、冗長化、リトライ、ファイルシステム検査などの仕組みによって、誤りを検出し、必要に応じて訂正または回復できるからである。つまり、実用的な計算機とは、誤りが絶対に起きない装置ではなく、誤りが起きることを前提に、誤りを制御できる装置である。

量子計算機でも、この基本構図は変わらない。ただし、量子情報では誤り制御がはるかに難しくなる。通常のビットであれば、同じ情報を複数個コピーしておき、多数決で元の値を推定できる。たとえば、本来 0 を 3 個並べた 000 のうち 1 個だけが 1 に化けて 010 になったなら、残り 2 個が 0 であることから、真ん中だけが誤ったと判断できる。しかし、量子情報では未知の量子状態を完全にはコピーできない。これは量子複製不可能定理と呼ばれる制約であり、量子情報を古典情報のように単純に複製して守る方法を禁じている。さらに、量子状態を途中で直接測定すると、重ね合わせや位相の情報が壊れる。したがって、量子情報では、「コピーして多数決する」「途中で値を読んで確認する」という通常の直感的な保護方法がそのまま使えない。

この制約があるため、量子計算機では「壊れない 1 個の量子ビットを作る」という方針だけでは不十分である。現実の物理装置である以上、量子ビットを周囲の環境から完全に切り離すことはできない。熱、電磁ノイズ、制御パルスのずれ、測定装置の誤差、隣接する量子ビットとの不要な相互作用は、どれも誤りの原因になる。したがって、必要なのは、物理量子ビットが壊れることを前提に、その誤りを検出し、論理情報としては壊れていない状態を維持する設計である。ここで、物理量子ビットと論理量子ビットの区別が必要になる。

物理量子ビットとは、実際の装置上に存在する 1 個 1 個の量子ビットである。超伝導回路、イオン、原子、光子、半導体中のスピンなど、実装方式はさまざまだが、いずれも物理的な対象である以上、ノイズや制御誤差の影響を受ける。物理量子ビットは、量子計算機を構成する材料ではあるが、そのまま長い計算を任せられるほど安定した論理単位ではない。一方、論理量子ビットとは、多数の物理量子ビットを組み合わせて作る、計算上の安定化された量子ビットである。計算機として本当に使いたいのは、この論理量子ビットである。

この関係は、細い糸と網の違いに近い。1 本の細い糸は切れやすい。荷物を 1 本の糸だけで支えれば、その糸が切れた瞬間に全体が落ちる。しかし、多数の糸を組み合わせて網を作れば、数本の糸が切れても、網全体はすぐには破綻しない。量子誤り訂正における論理量子ビットも、1 個の物理量子ビットに情報を丸ごと載せるのではなく、多数の物理量子ビットの関係全体に情報を分散して保持する。個々の物理量子ビットは壊れうるが、壊れ方を検出し、全体の整合性を保てれば、論理情報は守られる。

区分 意味 本稿での役割
物理量子ビット 実際の装置上に存在する 1 個 1 個の量子ビットであり、ノイズ、制御誤差、測定誤差を受ける。 壊れやすい現実の情報単位として扱う。
論理量子ビット 多数の物理量子ビットを組み合わせ、誤りを検出しながら 1 つの計算単位として扱えるようにした量子ビットである。 量子計算機が本当に使いたい安定化された情報単位として扱う。
量子誤り訂正 量子情報そのものを直接読まず、誤りの痕跡を測定し、多数の物理量子ビット全体として論理情報を守る仕組みである。 物理量子ビットを論理量子ビットへ持ち上げる方法として扱う。
耐故障量子計算 保存、ゲート操作、測定、補正の過程で誤りが起きても、計算全体が破綻しないようにする設計である。 壊れやすい物理量子ビットを実用的な計算機へ変える条件として扱う。

この表で重要なのは、物理量子ビットと論理量子ビットを混同しないことである。物理量子ビットの数が増えることは、量子計算機の発展にとって重要である。しかし、物理量子ビットが 100 個、1000 個、10000 個に増えても、それらが誤り訂正された論理量子ビットを構成できなければ、大規模で信頼できる計算にはつながらない。量子計算機の実用性を判断するには、単純な量子ビット数だけでなく、物理誤り率、ゲート精度、測定精度、接続構造、誤り検出の頻度、補正処理、デコーダー、論理誤り率、そして 1 個の論理量子ビットを作るために必要な物理量子ビット数を合わせて見る必要がある。

ここで「デコーダー」という語も、この文脈に限って説明しておく必要がある。量子誤り訂正では、量子情報本体を直接読むのではなく、どこかで整合性が崩れているという痕跡を測る。この痕跡はシンドロームと呼ばれる。シンドロームだけを見ても、実際にどこでどの誤りが起きたかは一意に分からない場合がある。そこで、得られたシンドロームから最もありそうな誤りの経路を推定し、どの補正を行うべきかを決める処理が必要になる。この推定処理を担うのがデコーダーである。したがって、量子計算機の信頼性は、量子ビットそのものの性能だけでなく、測定結果をどのように解釈し、誤りをどのように推定するかにも依存する。

耐故障量子計算が必要になる理由もここにある。量子情報を保存しているあいだだけ誤りを訂正できても、計算機としては十分ではない。計算機は、保存するだけでなく、ゲート操作を行い、必要な測定を行い、結果に応じて補正し、次の操作へ進む。ところが、ゲート操作そのものにも誤りがあり、測定にも誤りがあり、補正処理の前後にも誤りが入りうる。したがって、量子計算機を成立させるには、保存中の誤り訂正だけでなく、計算操作全体が誤り訂正の枠内で破綻しないように設計されていなければならない。この設計思想が、耐故障量子計算である。

この視点に立つと、「量子ビットが壊れるなら計算機として使えないのではないか」という疑問への答えは、二段階になる。第一に、裸の物理量子ビットをそのまま使うだけでは、確かに大規模で信頼できる計算機にはならない。第二に、壊れる物理量子ビットを多数組み合わせ、誤りを検出し、論理量子ビットとして安定化し、さらにゲート操作や測定まで含めて耐故障に実行できるなら、計算機として成立しうる。つまり、量子ビットが壊れることは、量子計算機を否定する理由ではない。しかし、壊れることを無視すれば、量子計算機にはならない。

したがって、量子計算機の実用化を考えるとき、見るべき指標は「量子ビット数」だけではない。物理量子ビットの誤り率がどれだけ低いか、ゲート操作がどれだけ正確か、測定がどれだけ信頼できるか、シンドロームをどれだけ速く正確に処理できるか、デコーダーが現実的な時間内に補正判断を下せるか、論理量子ビットの誤り率が計算全体に耐えられる水準まで下がるかが重要である。量子計算機が成立するかどうかは、壊れやすい量子情報を、誤り訂正と耐故障設計によって論理情報へ持ち上げられるかにかかっている。


3. 量子誤り訂正は情報を点ではなく構造に保存する

量子誤り訂正は、壊れやすい 1 個の物理量子ビットをそのまま信用する技術ではない。むしろ逆である。量子誤り訂正は、1 個の物理量子ビットは壊れうるという前提に立ち、その壊れやすさが論理情報へ直ちに届かないように、量子情報を多数の物理量子ビット全体へ分散して保存する技術である。通常の感覚では、情報はどこか 1 か所に保存されていると考えやすい。紙の文字は紙面上の位置にあり、通常のビットはメモリー上のセルにあり、ファイルはストレージ上の領域にある。しかし、量子誤り訂正で守りたい論理量子ビットは、特定の 1 個の物理量子ビットにそのまま置かれるのではない。多数の物理量子ビットが作る相関、制約、測定可能な整合性の中に埋め込まれる。したがって、量子誤り訂正を理解するうえで最初に必要なのは、「情報を点に置く」という直感から、「情報を構造に置く」という直感へ切り替えることである。

この発想が必要になる理由は、量子情報を古典情報のようには保護できないからである。古典情報であれば、同じ情報を複数個コピーし、多数決によって誤りを訂正できる。たとえば、0 を 3 個保存して 000 としておけば、そのうち 1 個が壊れて 010 になっても、残り 2 個が 0 であることから、元の情報は 0 だったと推定できる。しかし、量子情報では未知の量子状態を完全にはコピーできない。さらに、量子状態を途中で直接測定すると、重ね合わせや位相の情報が壊れる。したがって、量子誤り訂正では、「同じ量子状態を複製して多数決する」という方法も、「途中で値を直接読んで確認する」という方法も使えない。必要になるのは、論理情報そのものを読まずに、誤りだけを見つける方法である。

Shor は 1995 年に、デコヒーレンスを受ける量子記憶を守るための量子誤り訂正の基本的な考え方を示した[10]。この成果の重要性は、量子状態を単純にコピーする方法を示したことではない。そうではなく、複数の物理量子ビットが作る相関構造の中に論理情報を符号化し、個々の物理量子ビットに誤りが起きても、論理情報全体としては回復できる可能性を示した点にある。ここでいう符号化とは、1 個の論理量子ビットを、多数の物理量子ビットの組み合わせとして表すことである。論理情報は 1 点に置かれるのではなく、物理量子ビット群の関係全体に広げられる。そのため、局所的な誤りが 1 個または少数の物理量子ビットに起きても、それだけでは論理情報が直ちに壊れないように設計できる。

ここで重要になるのが、シンドローム測定である。量子誤り訂正では、論理量子ビットの中身を直接読むのではない。論理量子ビットが 0 なのか 1 なのか、あるいはどのような重ね合わせなのかを途中で読めば、計算に必要な量子状態そのものを壊してしまう。そこで測るのは、量子情報本体ではなく、整合性がどこで崩れたかである。この誤りの痕跡をシンドロームと呼ぶ。たとえば、複数の物理量子ビットのあいだに本来成り立つべき関係があり、その関係がある場所で崩れていれば、そこに誤りが生じた可能性がある。医療の検査で、身体そのものを分解するのではなく、血液検査や体温や画像所見から異常の場所を推定するのに近い。量子誤り訂正でも、論理情報そのものではなく、周辺的な整合性の崩れを読むことで、状態を破壊せずに誤りを推定する。

表面符号は、この考え方を理解するための代表例である。表面符号では、多数の物理量子ビットを 2 次元格子状に並べ、近傍の量子ビット群について整合性を繰り返し測定する。ここでの格子は、単に量子ビットをきれいに並べるための配置ではない。どの量子ビットとどの量子ビットの関係を測るのか、どの局所的な誤りがどのようなシンドロームとして現れるのか、局所誤りがどのように連なれば論理誤りへ変わるのかを決める構造である。Fowler らの総説は、表面符号を大規模量子計算へ向けた有力な方式として整理し、物理量子ビットの配列、スタビライザー測定、論理量子ビット、誤り耐性の見積もりを説明している[11]。この文脈での表面符号は、量子情報を点ではなく、格子全体の制約として保存する方式だと理解するとよい。

表面符号で測られる整合性は、スタビライザー測定と呼ばれる。スタビライザーという語は抽象的に見えるが、本稿では「量子状態が本来満たすべき局所的な整合条件」と理解すれば足りる。ある小さな領域の量子ビット群が正しい関係を保っていれば、その測定結果は正常な値になる。どこかで誤りが起きると、隣接する測定結果に異常が現れる。重要なのは、この測定が論理情報そのものを読むのではなく、局所的な整合条件の成否を読む点である。これによって、量子状態の中身を直接壊さずに、誤りの痕跡だけを取り出せる。

しかし、シンドロームが得られれば自動的に誤りが訂正されるわけではない。測定結果として得られるのは、あくまで整合性が崩れた場所の情報である。実際にどの物理量子ビットに、どの種類の誤りが、どの時刻に起きたのかは、測定結果だけから一意に分かるとは限らない。そこで必要になるのがデコーダーである。デコーダーは、得られたシンドロームの列から、もっともありそうな誤りの組み合わせを推定し、どの補正を行うべきかを決める。これは単なる付属処理ではない。量子誤り訂正では、物理装置で測定された局所的な異常を、論理情報を守るための補正判断へ変換する必要があるため、デコーダーの性能は計算機全体の信頼性に直結する。

概念 説明 論理上の役割
符号化 1 個の論理量子ビットを多数の物理量子ビットへ分散して表す。 局所的な誤りが論理情報へ直ちに届かないようにする。
シンドローム測定 量子情報そのものではなく、局所的な整合性の崩れを測る。 測定で論理情報を壊さずに、誤りの位置や種類を推定する手がかりを得る。
スタビライザー測定 物理量子ビット群が本来満たすべき局所的な整合条件を繰り返し測る。 表面符号のような量子誤り訂正符号で、シンドロームを得る具体的な方法になる。
デコーダー 測定結果から、もっともありそうな誤りの組を推定する。 局所的な観測結果を、論理情報を守るための補正方針へ変換する。
論理誤り 局所誤りが積み重なり、論理量子ビットそのものを変えてしまう誤りである。 量子計算機としての最終的な信頼性を決める。

この表から分かるように、量子誤り訂正は、単に誤りが起きた後に後処理で直す仕組みではない。計算機の動作そのものに組み込まれた継続的な検査と解釈の仕組みである。量子計算機は、計算しながら誤りを検査し、検査しながら論理情報を壊さないようにし、測定結果を解釈しながら補正方針を決め、補正しながら次の計算へ進む必要がある。したがって、量子誤り訂正は、保存装置のバックアップのように計算の外側にあるものではない。量子計算機を計算機として成立させるための中核機構である。

近年の実験では、物理量子ビットを増やすことで論理誤りを抑える方向の進展も報告されている。Google Quantum AI らは、表面符号論理量子ビットのスケーリング実験で、符号サイズを大きくしたときに論理性能が改善し始める結果を示した[12]。また、表面符号しきい値以下での量子誤り訂正に関する報告も進んでいる[13]。ここでいうしきい値とは、物理量子ビットやゲート操作の誤り率が一定水準より低ければ、符号サイズを大きくすることで論理誤り率を下げられるという境界である。この考え方は、量子誤り訂正が単なる希望的観測ではなく、物理誤り率、符号サイズ、論理誤り率の関係として評価できることを意味する。

ただし、これらの進展は、実用規模の耐故障量子計算機が完成したという意味ではない。むしろ、量子誤り訂正の基本原理が実機で検証されつつある段階である。実用規模では、必要な物理量子ビット数、配線、冷却、制御、測定、デコーダー処理、ゲート操作、論理量子ビット間の接続、長時間運転の安定性をすべて合わせて設計しなければならない。物理量子ビットを増やせば自動的に論理量子ビットが実用化するわけではない。増えた物理量子ビットを、測定可能な整合性、補正可能な誤り構造、実行可能なデコーダー、耐故障なゲート操作へ結びつける必要がある。

ここまでを整理すると、量子誤り訂正の本質は、量子情報を「点」ではなく「構造」に保存する点にある。1 個の物理量子ビットは壊れやすい。しかし、多数の物理量子ビットが作る制約、整合性、格子構造、測定履歴の中へ論理情報を埋め込めば、局所的な誤りがただちに論理情報を壊さないようにできる。これは、情報の所在を 1 か所から全体構造へ移す発想である。量子計算機が計算機として成立するためには、この構造が、物理装置のノイズよりも強く、測定による擾乱よりも慎重で、補正処理よりも一貫していなければならない。

この「情報を構造で守る」という発想は、後に扱うトポロジカル量子計算、量子相分類、非可逆対称性の意義へつながる。トポロジカル量子計算では、情報を局所的な値ではなく、欠陥や編み込みの全体構造に保存しようとする。量子相分類では、物質や量子模型の違いを、局所的な見た目ではなく、対称性、もつれ、欠陥、トポロジカル構造によって整理する。非可逆対称性もまた、通常の 1 対 1 の操作ではなく、欠陥や融合規則を含む構造として現れる。したがって、量子誤り訂正の章は、単に誤りを直す技術の説明ではなく、この本稿全体の中心にある「量子情報は局所的な値ではなく、全体構造として扱われる」という視点への入口である。


4. トポロジカル量子計算は情報を絡まり方に置く

量子誤り訂正は、量子情報を 1 個の物理量子ビットという「点」に置くのではなく、多数の物理量子ビットが作る構造の中に保存する発想であった。トポロジカル量子計算は、この発想をさらに押し進める。量子情報を局所的な値として保存するのではなく、準粒子や欠陥の配置、絡まり方、編み込み方、融合の仕方に保存し、それらを操作することで計算を行おうとする考え方である。Kitaev は、エニオンを使った耐故障量子計算の理論的枠組みを示し、Nayak らの総説は、非アーベルエニオンとトポロジカル量子計算を、局所摂動に強い非局所符号化の観点から整理している[14][15]。ここで重要なのは、量子情報を「どこか 1 個の部品の状態」として持つのではなく、「複数の対象が全体として作る関係」として持つ点である。

この考え方は、紙に書いた細い線と、ひもの結び方の違いで捉えると分かりやすい。紙に細い線を書いた場合、紙が少し汚れたり、線の一部がかすれたりすれば、情報は読みにくくなる。情報が局所的な形に強く依存しているからである。一方、ひもの結び方は、ひもの位置が少しずれたり、形が多少ゆがんだりしても、結び目そのものがほどけない限り変わらない。トポロジカル量子計算が狙うのは、この後者に近い情報の持たせ方である。量子状態の細かな局所値ではなく、全体のつながり方や絡まり方に情報を持たせれば、小さな局所ノイズでは情報が変わりにくくなる可能性がある。

ここでいうトポロジーとは、長さ、角度、位置のような細かい形ではなく、つながり方、穴の数、絡まり方のように、連続的に変形しても変わらない性質を扱う考え方である。たとえば、ドーナツと取っ手付きのコップは、日常的な形はまったく違う。しかし、どちらも穴が 1 つある形として見るなら、トポロジーの観点では同じ種類に属する。少し押しつぶしたり、伸ばしたりしても、穴を切ったり貼ったりしない限り、穴の数は変わらない。トポロジカル量子計算では、この「細部が揺れても変わりにくい全体的性質」を、量子情報の保存と操作に利用しようとする。

通常の量子ビット操作では、個々の量子ビットへ高精度な制御を加える。制御パルスの強さ、時間、位相、測定のタイミングがずれれば、量子状態もずれる。この方式では、量子ビットの局所的な状態と操作精度が計算結果へ直接影響する。これに対して、トポロジカル量子計算では、情報を個々の局所状態ではなく、複数の準粒子や欠陥が作る全体的な関係に置こうとする。局所的な位置が多少ずれても、編み込みの順序や絡まり方が同じなら、同じ論理操作として扱える可能性がある。ここに、トポロジカル量子計算がノイズに強い方式として期待される理由がある。

この文脈で出てくるエニオンとは、2 次元的な量子多体系に現れる特殊な準粒子である。準粒子とは、電子や光子のような基本粒子そのものではなく、多数の粒子が集団として振る舞った結果、粒子のように扱える励起である。たとえば、水面に現れる波は水分子 1 個そのものではないが、波として移動し、反射し、干渉する対象として扱える。物質中の振動を粒子のように扱うフォノンも、準粒子の代表例である。エニオンも同じく、多数の自由度を持つ量子系の中に現れる集団的な励起であり、特に 2 次元系で重要になる。

エニオンが特別なのは、互いに入れ替える操作に、通常の粒子とは異なる意味が生じる点である。3 次元空間では、同じ種類の粒子を 2 個入れ替える操作は、粒子統計としては大きく分けてボソン的かフェルミオン的に整理される。しかし 2 次元では、粒子どうしをどのような経路で回り込ませたかが、ほどけない履歴として残りうる。つまり、単に「入れ替えた」という結果だけでなく、「どのように入れ替えたか」という編み込みの履歴が意味を持つ。この履歴が量子状態へ作用することを利用し、エニオンを互いの周りに動かして論理ゲートを実現しようとするのが、トポロジカル量子計算の基本発想である。

ここで重要なのは、トポロジカル量子計算が、通常のゲート操作を単に別名で言い換えているわけではないという点である。通常の量子計算では、個々の量子ビットに対して局所的なゲート操作を加え、その操作の積み重ねで計算を進める。トポロジカル量子計算では、準粒子や欠陥を移動させ、それらが互いの周りをどの順序で回ったか、どのように編み込まれたかによって、論理空間へ作用する。つまり、操作の意味が、瞬間的な局所制御だけでなく、経路全体の構造に依存する。このため、小さな局所的揺らぎがあっても、編み込みの位相的な種類が変わらない限り、論理操作が保たれる可能性がある。

観点 通常の局所的な量子ビット操作 トポロジカルな操作
情報の置き場所 個々の量子ビットの状態に近い。 複数の準粒子や欠陥が作る全体構造に近い。
操作の性質 局所的なゲート操作の精度に強く依存する。 編み込みの順序、経路の絡まり方、融合の仕方に依存する。
ノイズ耐性 局所ノイズが直接状態を乱しやすい。 局所ノイズでは全体の絡まり方を変えにくい場合がある。
必要な構造 高精度な量子ビット制御、ゲート操作、測定、誤り訂正が必要である。 適切な準粒子、欠陥、編み込み操作、融合規則、読み出し方法が必要である。
主な課題 操作誤差とデコヒーレンスを十分低く抑える必要がある。 理論上有用なトポロジカル構造を実験的に安定して作り、制御し、測定する必要がある。

この表で押さえるべき点は、トポロジカル量子計算が「誤りを気にしなくてよい方式」ではないことである。局所ノイズに強い可能性があるからといって、実験上のすべての誤りが消えるわけではない。エニオンや欠陥を安定に作れるのか、意図した経路で動かせるのか、不要な励起を抑えられるのか、温度や不純物の影響をどこまで制御できるのか、測定で正しく読み出せるのかという問題が残る。また、どの種類のエニオンでも万能な量子計算ができるわけではない。トポロジカルに保護された操作だけでは計算能力が足りず、追加の操作や通常の量子誤り訂正が必要になる場合もある。

それでも、トポロジカル量子計算の考え方は、量子計算機の基礎を考えるうえで重要である。理由は、量子情報を「局所的な値」ではなく「非局所的な構造」として保存・操作するという視点を、非常に明確に示しているからである。量子誤り訂正では、情報を多数の物理量子ビットの整合性へ分散した。トポロジカル量子計算では、さらに、準粒子や欠陥の編み込み、融合規則、全体の絡まり方へ情報を置く。どちらにも共通しているのは、壊れやすい局所状態をそのまま信用するのではなく、局所ノイズでは変わりにくい全体構造へ情報を持たせるという発想である。

この視点は、本稿で後に扱う非可逆対称性の研究を理解するための中間段階になる。非可逆対称性は、通常の対称性のように 1 対 1 で元に戻せる操作ではなく、欠陥、融合、分岐のような構造を含む対称性である。トポロジカル量子計算で重要になるのも、個々の対象の値ではなく、欠陥や準粒子がどのように融合し、どのように編み込まれ、どのように論理空間へ作用するかである。したがって、トポロジカル量子計算を経由すると、非可逆対称性が単なる抽象数学ではなく、量子情報を構造として保存・操作する理論と接続しうることが見えやすくなる。

まとめると、トポロジカル量子計算は、量子情報を「点」ではなく「絡まり方」に置く発想である。これは、量子誤り訂正が示した「情報を構造で守る」という考え方を、準粒子、欠陥、編み込み、融合規則の水準へ拡張するものである。ただし、これは実用化済みの万能な解決策ではない。現時点では、ノイズに強い量子情報保存と論理演算を考えるための強力な理論的枠組みであり、今回の非可逆対称性の意義を理解するための重要な橋渡しである。


5. 量子多体系では全体が個々の粒子以上の性質を持つ

量子誤り訂正やトポロジカル量子計算が「全体構造で情報を守る」発想であるなら、その背後には量子多体系という考え方がある。量子多体系とは、電子、原子、スピン、光子、冷却原子など、量子力学に従う多数の要素が集まり、互いに影響し合う系である。ここで重要なのは、単に小さなものが多数あるというだけではない。多数の量子的な要素が相互作用すると、個々の要素を 1 個ずつ見ても分からない性質が、全体として現れる。電子 1 個だけを見ても、金属、磁石、超伝導体は説明できない。多数の電子やスピンが集まり、相互作用し、全体として秩序、揺らぎ、もつれ、境界状態、欠陥構造を作ることで、単独の粒子にはなかった性質が現れる。このように、部分には直接見えない性質が全体として現れることを、本稿では創発と呼ぶ。

創発という言葉は抽象的に聞こえるが、日常的な水の例を考えると理解しやすい。水分子 1 個だけを見ても、波、渦、氷、水流という性質は見えない。水分子 1 個には、波の高さも、氷の硬さも、川の流れもない。しかし、多数の水分子が集まり、互いに力を及ぼし、温度や圧力に応じて全体の並び方や動き方を変えると、固体、液体、気体といった相が現れる。ここでいう相とは、物質が全体として示す状態の種類である。氷、水、水蒸気は同じ H2O からできているが、全体としての秩序や運動の仕方が違うため、まったく異なる性質を示す。

量子多体系でも、これと同じ構造がある。ただし、量子多体系では、単に粒子が多いだけでなく、重ね合わせ、位相、もつれが関係するため、全体として現れる性質はさらに複雑になる。たとえば、金属は多数の電子が結晶中を動くことで電気を通す。磁石は多数のスピンがそろうことで、物体全体として磁化を持つ。超伝導体では、電子が通常の金属とは異なる集団状態を作り、電気抵抗がゼロになる。これらは、電子 1 個、スピン 1 個、原子 1 個だけを詳しく見ても出てこない。個々の要素の性質と、要素間の相互作用と、全体の制約が組み合わさって初めて現れる。

ここで「スピン」という語も、必要な範囲で説明しておく。スピンは、電子や原子核などが持つ量子的な性質であり、しばしば小さな磁石の向きのように説明される。ただし、古典的なコマが本当に回っているという意味ではない。本稿では、スピンを、量子多体系の各場所に置かれた小さな内部自由度として扱う。多くのスピンが相互作用すると、全体として磁石のようにそろったり、逆に低温でもそろわずに量子的な揺らぎを保ったりする。このようなスピンの集団状態は、量子格子系、LSM 制約、トポロジカル相を理解するうえで重要な入口になる。

量子多体系の特徴は、古典的な「たくさん集まっただけ」の系とは違い、量子もつれが全体構造を作る点にもある。量子もつれとは、複数の量子的な要素が、それぞれを独立に記述できないほど強く結びついた状態である。たとえば、2 つの量子ビットがもつれている場合、一方だけを取り出して完全に説明することはできず、両者の関係そのものが状態の一部になる。量子多体系では、このような関係が多数の要素に広がり、局所的な観察だけでは分からない全体性を作る。したがって、量子多体系を理解するには、個々の粒子を見るだけでなく、粒子どうしの関係、もつれの広がり、全体の対称性、境界や欠陥の振る舞いを見る必要がある。

この視点は、量子誤り訂正やトポロジカル量子計算と直接つながる。量子誤り訂正では、論理量子ビットを 1 個の物理量子ビットに保存せず、多数の物理量子ビットが作る整合性の中へ埋め込む。トポロジカル量子計算では、量子情報を準粒子や欠陥の絡まり方、編み込み方、融合の仕方に置く。どちらも、個々の要素だけではなく、全体の関係に情報を持たせる発想である。つまり、量子情報を構造で守るという考え方は、量子多体系で全体が個々の粒子以上の性質を持つという事実に支えられている。

量子多体系に現れる相には、さまざまな種類がある。金属相、絶縁体相、磁性相、超伝導相、スピン液体、トポロジカル相などは、いずれも量子的な自由度が集団として作る性質である。特に重要なのは、すべての相が「何かが目に見えてそろっている」ことで説明できるわけではない点である。創発を、下位要素の単純な足し算ではなく、相互作用が上位構造として安定化する現象として捉える視点については既稿で整理した[16]。磁石であれば、スピンがそろうという秩序で説明できる。しかし、スピン液体やトポロジカル相では、局所的に見ても単純な秩序が見えない場合がある。それでも、もつれの構造、境界状態、欠陥の振る舞い、トポロジカルな性質を見ると、通常の相とは異なる深い構造が現れる。Wen は、量子秩序や対称スピン液体の議論を通じて、従来の対称性の破れだけでは捉えきれない量子相の構造を整理している[17]

個別要素だけでは見えない性質 量子多体系としての意味
金属 電子 1 個だけでは電気伝導という物質全体の性質は説明できない。 多数の電子が結晶中で動き、全体として電気を通す状態を作る。
磁石 単独のスピンだけでは物体全体の磁化は説明できない。 多数のスピンが相互作用し、そろうことで、全体として磁性が現れる。
超伝導体 電子 1 個だけでは抵抗ゼロの状態は説明できない。 電子が集団状態を作ることで、通常の金属とは異なる電気伝導が現れる。
スピン液体 局所的なスピンだけを見ても、単純な整列秩序では説明できない。 スピンが低温でも単純にはそろわず、量子的な揺らぎやもつれを保つ。
トポロジカル相 局所的な観察だけでは通常の相との違いが見えにくい。 全体のもつれ、境界状態、欠陥構造に本質的な違いが現れる。

この表で重要なのは、量子多体系の性質が「部品の足し算」だけでは決まらないという点である。電子が多ければ必ず金属になるわけではない。スピンが多ければ必ず磁石になるわけでもない。どのような格子に置かれているのか、どのような相互作用を持つのか、どのような対称性があるのか、低エネルギー状態がどのような構造を持つのかによって、全体として現れる相は変わる。したがって、量子多体系を理解するには、個々の粒子の性質だけでなく、配置、相互作用、対称性、もつれ、欠陥、境界条件を合わせて見る必要がある。

量子多体系が難しいのは、要素数が増えると可能な状態が爆発的に増えるからである。1 個の量子ビットが 2 通りの基底状態を持つとしても、10 個なら 2 の 10 乗、100 個なら 2 の 100 乗という巨大な状態空間になる。しかも量子では、そのうちのどれか 1 つが選ばれるだけではなく、多数の状態の重ね合わせや、要素間のもつれも含まれる。したがって、すべての状態を直接列挙し、ひとつずつ追跡することは現実的ではない。量子多体系では、状態の候補が多すぎるため、単純な力任せの記述では全体像に到達できない。

そのため、量子多体系を理解するには、全体を分類するための物差しが必要になる。対称性は、その系にどのような操作をしても本質が変わらないかを示す。ギャップは、基底状態から励起状態へ移るためにどれだけのエネルギーが必要かを示す。もつれは、部分どうしがどれだけ独立に分けられないかを示す。トポロジーは、局所的な変形では変わらない全体構造を示す。欠陥構造は、系の中に乱れや境界を入れたとき、どのような新しい対象が現れるかを示す。これらの物差しを使うことで、状態空間の巨大さを直接扱うのではなく、量子多体系の深い構造を整理できる。

この章の役割は、後に出てくる量子格子系、LSM 制約、ゲージ化、非可逆対称性を理解するための土台を作ることである。今回の京都大学の研究が扱うのも、孤立した 1 個の粒子ではなく、量子的な自由度が格子状に並び、対称性と相互作用によって全体構造を作る量子多体系である。そこでは、「1 マスずらす」という単純に見える操作でさえ、内部の量子的な構造、対称性、ゲージ化と結びつくことで、通常の直感とは異なる性質を持ちうる。したがって、量子多体系を理解することは、本稿の後半で扱う非可逆対称性を理解するための前提になる。

まとめると、量子多体系とは、量子的な要素が多数集まっただけのものではない。個々の要素が相互作用し、重ね合わせやもつれを含む巨大な状態空間を作り、その中から金属、磁石、超伝導、スピン液体、トポロジカル相のような全体的性質が現れる系である。量子誤り訂正やトポロジカル量子計算が情報を構造で守ろうとするのは、まさに量子多体系では構造そのものが物理的な意味を持つからである。ここから次に必要になるのは、その多数の量子的要素がどのような舞台に並ぶのか、すなわち量子格子系という考え方である。


6. 量子格子系は対称性を考えるための舞台である

量子多体系では、多数の量子的な要素が集まり、相互作用し、全体として単独の粒子にはない性質を作る。では、その多数の要素をどのような形に並べて考えるのか。ここで出てくるのが量子格子系である。量子格子系とは、量子的な自由度を規則正しい格子上に置き、それらが相互作用する模型である。一次元なら点が一直線に並ぶ。二次元なら碁盤の目のように並ぶ。三次元なら結晶のように立体的に並ぶ。その各点に、スピンや電子のような量子的自由度が置かれていると考える。量子格子系は、現実の結晶や磁性体を単純化して理解する模型であると同時に、量子情報を全体構造として考えるための抽象的な舞台でもある。

ここでいう格子は、単なる図形上の点の集まりではない。格子は、どの量子的自由度がどの場所にあり、どの自由度が隣り合い、どの相互作用が許されるのかを定める土台である。たとえば、一直線に並んだスピン鎖では、各点のスピンが左右の隣と相互作用する。二次元の正方格子では、各点が上下左右の近傍と関係する。三次元の結晶格子では、空間的な配置に応じて、より複雑な結合が生じる。つまり、量子格子系では、粒子やスピンの性質だけでなく、それらがどのような規則で並び、どのようにつながっているかが、全体の性質を決める。

量子格子系を使う理由は、現実の物質をすべての細部までそのまま扱うことが難しいからである。現実の結晶には、原子の振動、不純物、格子欠陥、電子間相互作用、外部場、温度の影響などが複雑に存在する。すべてを同時に扱うと、何が本質的な原因なのかが見えにくくなる。そこで、格子上にスピンや電子の自由度を置き、必要な相互作用だけを残した模型を考える。模型化によって現実のすべてを再現するのではなく、現象を生む最小限の構造を取り出す。この意味で、量子格子系は、物質の複雑さを削ぎ落とし、対称性や相互作用の役割を調べるための実験場である。

格子があると、「1 マスずらす」という操作を定義できる。一次元の鎖なら、全体を右へ 1 点分ずらす。二次元の格子なら、横方向や縦方向へ 1 マスずらす。三次元の結晶なら、格子の基本単位だけ空間方向へ移す。規則正しい格子では、この操作をしても格子の見た目は変わらない。この性質を並進対称性という。日常的には、同じ模様のタイルを 1 枚分ずらしても同じ模様に見える、という直感に近い。並進対称性は、結晶や格子模型を理解するうえで最も基本的な空間的対称性である。

普通に考えれば、並進対称性は可逆な対称性の典型である。右へ 1 マスずらしたなら、左へ 1 マス戻せば元に戻る。上へ 1 マスずらしたなら、下へ 1 マス戻せば元に戻る。このように、ある操作に対して逆向きの操作が存在し、両方を続けて行えば元の状態に戻るものを可逆な操作と呼ぶ。並進対称性は、日常的な直感では、まさにこの可逆性を持つ。だからこそ、「並進対称性が元に戻せなくなる」という今回の研究の表現は、最初に聞くと奇妙に見える。

しかし、量子格子系では、格子点はただの印ではない。各点には量子的な自由度があり、隣接点との相互作用があり、全体として量子状態を作っている。したがって、「1 マスずらす」という操作は、単に場所のラベルを入れ替えるだけでは済まない場合がある。各点にあるスピンや電子の内部状態、隣接する自由度との相互作用、全体に広がるもつれ、格子上に存在しうる欠陥構造まで含めて、状態全体がどのように変わるかを考えなければならない。格子だけを見れば単純な移動でも、量子状態まで含めれば、内部構造と結びついた操作になる。

観点 日常的な格子の直感 量子格子系での意味
格子点 タイルや升目の位置を表す印として見える。 スピンや電子などの量子的自由度が置かれる場所である。
隣接関係 どの点が近くにあるかを表す幾何的な関係である。 どの自由度どうしが相互作用するかを決める物理的な関係である。
1 マスずらす操作 模様全体を横や縦に移動する操作として見える。 格子点の量子的自由度、相互作用、もつれ、欠陥構造を含む状態全体への操作になる。
対称性 見た目の模様が変わらない性質として理解できる。 量子状態や物理法則が、操作後も同じ構造を保つかどうかを表す。

この表で重要なのは、量子格子系における格子が、単なる背景ではなく、量子状態の構造を決める要素だという点である。日常的なタイル模様であれば、1 マスずらす操作は、模様の見た目を保つだけの単純な操作である。しかし、量子格子系では、各格子点に内部状態があり、それらが相互作用し、全体としてもつれた状態を作る。したがって、並進対称性は単なる見た目の規則ではなく、量子多体系の状態がどのような制約を受けるかを示す物理的な条件になる。

さらに、量子格子系には、並進対称性とは別に内部対称性も存在しうる。内部対称性とは、空間上の位置を動かすのではなく、各格子点にある内部自由度へ作用する対称性である。たとえば、格子そのものは動かさずに、各点のスピンを一斉に回転させる、あるいは内部状態を一斉に変換するような操作が考えられる。並進対称性が「どこにあるか」に関わる対称性だとすれば、内部対称性は「各点の中身がどう変わるか」に関わる対称性である。この 2 つは別々のものだが、量子格子系では両者の組み合わせが深い制約を生むことがある。

この組み合わせが重要になるのは、格子の規則性だけでは量子状態の性質を決めきれないからである。格子が 1 マスずらして同じに見えても、各格子点の内部自由度がどのような性質を持つかによって、許される基底状態は変わる。たとえば、各単位格子に半端な量子的自由度が含まれる場合、並進対称性と内部対称性を同時に保ったまま、完全に平凡で一意な安定状態を作れないことがある。これが次に扱う LSM 制約の入口である。つまり、量子格子系では、空間的な繰り返し構造と、内部の量子的性質が結びつくことで、状態の取りうる形そのものが制限される。

今回の京都大学の研究が扱うのは、まさにこの接点である。量子格子系において、最も単純に見える並進操作が、内部対称性やゲージ化と絡むことで、単純には元に戻せない非可逆対称性へ変わる。ここで重要なのは、「右に 1 マスずらして左に 1 マス戻す」という日常的な操作の直感が、量子格子系の全体構造を含めるとそのままでは通用しない場合があるという点である。格子、内部自由度、対称性、もつれ、欠陥、ゲージ化が結びつくと、並進操作は単なる場所の移動ではなく、量子状態の深い構造へ作用する演算になる。

この章で押さえるべき一般化は、量子格子系が、量子多体系の複雑さを対称性の言葉で調べるための舞台だということである。格子があるから並進対称性を定義できる。各点に量子的自由度があるから内部対称性が問題になる。相互作用があるから全体として相やもつれが生じる。これらが組み合わさることで、量子格子系は、量子情報を構造として理解するための模型にもなり、非可逆対称性のような新しい理論的構造が現れる舞台にもなる。次に必要なのは、この舞台上で、なぜ平凡な安定状態が禁止される場合があるのかを説明する LSM 制約である。


7. 対称性は複雑な量子系を分類する物差しである

対称性とは、ある操作をしても本質的な性質が変わらないことである。丸い皿を回転させても同じに見えるなら、回転対称性がある。規則的なタイル模様を 1 マスずらしても同じに見えるなら、並進対称性がある。左右を反転しても同じに見える図形には、反転対称性がある。日常的には、対称性は見た目の整った形や模様の繰り返しとして理解されやすい。しかし物理における対称性は、単なる見た目の美しさではない。ある操作をしても物理法則や本質的な状態の構造が変わらないという条件であり、どの状態が許され、どの状態が禁止されるかを制限する構造原理である。

量子多体系で対称性が重要になる理由は、状態空間が巨大すぎるからである。多数の量子ビット、電子、スピンが相互作用する系では、可能な状態をすべて列挙して調べることは現実的ではない。しかも量子系では、単に 1 つの配置が選ばれるだけでなく、重ね合わせやもつれが含まれる。そのため、個々の状態を直接追う方法だけでは、全体の性質を把握できない。そこで、「この系にはどのような対称性があるのか」「その対称性を保つ状態はどのようなものか」「その対称性のもとで禁止される状態は何か」という問いが重要になる。対称性は、巨大な状態空間を分類するための物差しとして働く。

ここで「分類する」とは、単に名前を付けることではない。量子多体系では、金属、絶縁体、磁性相、超伝導相、スピン液体、トポロジカル相のように、多様な相が現れる。これらを見分けるには、電気を通すかどうか、スピンがそろうかどうかといった観測可能な性質だけでなく、どの対称性を保っているか、どの対称性を破っているか、境界や欠陥がどう振る舞うかを見る必要がある。たとえば、磁石では、もともとの物理法則は空間のどの向きも同等であっても、実際の状態ではスピンが特定の向きにそろう。このとき、状態は回転対称性を自発的に破っている。対称性を見ることで、単なる性質の一覧ではなく、なぜその相が他の相と違うのかを構造的に説明できる。

対称性には、空間的な対称性と内部対称性がある。空間的な対称性は、回転、反転、並進のように、空間内での配置を変える操作である。皿を回す、図形を反転する、格子全体を 1 マスずらす、といった操作がこれにあたる。これに対して、内部対称性は、空間上の位置を動かすのではなく、各点の中にある性質を変える操作である。たとえば、全スピンを一斉に回す、各格子点の内部状態を一斉に変換する、電荷に関する位相を変える、といった操作が内部対称性にあたる。空間的な対称性が「どこにあるか」に関わるのに対し、内部対称性は「そこにあるものの中身をどう変えるか」に関わる。

この区別は、今回の研究を理解するうえで必要である。今回問題になる並進対称性は、格子全体を一定距離だけずらす空間的な対称性である。一方、LSM 制約やゲージ化に関わる内部対称性は、格子点の位置ではなく、各点に置かれたスピンや内部状態に作用する対称性である。通常の直感では、並進対称性と内部対称性は別々に考えられる。格子を 1 マスずらす操作と、各点の内部状態を変換する操作は、異なる種類の操作に見えるからである。しかし、量子格子系では、この 2 種類の対称性が深いところで絡み合い、単純な安定状態を禁止する制約を生むことがある。

さらに、対称性には可逆なものと、非可逆なものがある。通常の対称性として最初に考えるのは、可逆対称性である。右へ 1 マスずらしたなら、左へ 1 マス戻せる。時計回りに回したなら、反時計回りに戻せる。このように、操作に逆操作があり、続けて行えば元へ戻るものが可逆な対称性である。可逆対称性は、日常的な対称性の直感とよく合う。操作をしても同じに見え、さらに逆操作によって元に戻せるからである。

非可逆対称性は、この直感を拡張する。非可逆対称性では、操作に単純な逆操作がない。ある操作を行った結果が 1 つの状態へ 1 対 1 に写るのではなく、複数の成分に分岐したり、欠陥が融合したりするような構造を持つ。ここで注意すべきなのは、非可逆という語が、熱いものが冷める、割れたコップが自然には戻らない、という日常的な不可逆性と同じ意味ではないことである。ここでいう非可逆性は、対称性を表す操作の構造に単純な逆元がないという意味である。つまり、時間の矢や熱力学的な不可逆性ではなく、対称性の数学的・物理的な作用の仕方が通常より広い構造を持つということである。

対称性 何を変えるか 本稿での役割
並進対称性 格子全体を一定距離だけずらす。 今回の研究で非可逆化する対象として扱う。
内部対称性 格子点の位置ではなく、各点の内部状態を変える。 LSM 制約やゲージ化と結びつく対称性として扱う。
可逆対称性 操作に逆操作があり、元へ戻せる。 通常の対称性の直感として扱う。
非可逆対称性 単純な逆操作を持たず、分岐や融合を含む。 今回の研究の中心概念として扱う。

この表で押さえるべき点は、今回の研究が、並進対称性、内部対称性、可逆性、非可逆性を同時に扱っていることである。単に「格子をずらす」という話だけなら、並進対称性は可逆な操作に見える。単に「各点の内部状態を変える」という話だけなら、内部対称性もまた独立した対称性として扱える。しかし、LSM 制約を持つ量子格子系で内部対称性をゲージ化すると、並進対称性は単純な可逆操作として残らず、非可逆対称性として現れる。したがって、この研究を理解するには、対称性を単なる見た目の規則としてではなく、量子状態の可能性を制限し、欠陥や融合の構造まで含む物理的な枠組みとして捉える必要がある。

対称性が多いと、系はより自由に見えるかもしれない。たとえば、さまざまな操作をしても同じに見えるなら、安定で整った状態を取りやすいように感じられる。しかし量子多体系では、対称性は自由を増やすだけではない。むしろ、対称性があるからこそ「そのような状態は許されない」と禁止される場合がある。これは、量子格子系の深い点である。並進対称性と内部対称性が同時に存在し、しかも各格子単位に特定の量子的自由度が含まれると、完全に平凡で、対称性を保ち、安定した一意の状態へ落ち着けないことがある。

ここでいう「平凡な状態」とは、特別な秩序、長距離のもつれ、トポロジカルな性質、縮退、ギャップレスな励起を持たない、何の特徴もない安定状態である。通常の感覚では、対称性を保ったまま、全体が静かに落ち着く状態が最も自然に見える。しかし、量子格子系では、格子の繰り返し構造と内部の量子的自由度の組み合わせによって、その自然に見える状態が禁止されることがある。これは、対称性が単なる美しい規則ではなく、状態空間に対する制約として働くことを示している。

この考え方が、次に扱う LSM 制約である。LSM 制約は、ある量子格子系において、並進対称性と内部対称性を保ったまま、完全に平凡で一意なギャップ付き基底状態を作れないことを示す禁止規則として理解できる。つまり、対称性は「同じに見える」ことを保証するだけではなく、「この条件では、何も起きない普通の安定状態にはなれない」と告げる場合がある。今回の非可逆対称性の研究は、この LSM 制約を背景に持つ。したがって、対称性を分類の物差しとして理解することは、次の LSM 制約、さらにその後のゲージ化と非可逆対称性へ進むための前提になる。

まとめると、対称性は複雑な量子系を整理するための物差しである。空間的な対称性は、格子や空間配置の変換に関わる。内部対称性は、各点にある量子的自由度の変換に関わる。可逆対称性は通常の対称性の直感を与え、非可逆対称性はその直感を拡張する。量子多体系では、これらの対称性が状態を分類するだけでなく、ある状態を禁止する制約としても働く。次章で扱う LSM 制約は、その代表的な例である。


8. LSM 制約は平凡な安定状態を禁じる

LSM とは、Lieb、Schultz、Mattis の名前を取った略称であり、もともとは一次元の量子スピン鎖に関する定理として出発した。Lieb、Schultz、Mattis は、反強磁性鎖の可解模型を通じて、特定の量子スピン系では単純な安定状態だけでは済まないことを示した[18]。その後、Oshikawa や Hastings らによって、高次元やより一般的な量子多体系へ拡張され、現在では LSM 定理や LSM 制約として広く理解されている[19][20]。Tasaki のレビューも、LSM 型定理を、一定条件下で局所的に一意なギャップ付き基底状態を持てないことを示す不可能性定理として整理している[21]。この章で重要なのは、LSM 制約を数式の定理として暗記することではない。量子格子系では、格子の繰り返し構造と内部の量子的自由度が組み合わさることで、「何も特徴のない安定状態」がそもそも許されない場合がある、という構造を理解することである。

まず、LSM 制約が何を禁止しているのかを明確にする必要がある。専門用語を使わずに言えば、LSM 制約とは「ある条件を満たす量子格子系では、完全に平凡で、対称性を保ち、安定した唯一の基底状態にはなれない」という禁止規則である。ここでいう基底状態とは、その系が取りうる最もエネルギーの低い状態である。物理系は一般に、外からエネルギーを与えられていなければ、できるだけ低いエネルギーの状態へ落ち着こうとする。そのため、基底状態は、その系が最終的にどのような安定状態を取りうるのかを考えるうえで中心になる。

ただし、基底状態があるというだけでは、LSM 制約の要点には届かない。問題は、その基底状態が「一意」であり、「ギャップ付き」であり、「平凡」であり、しかも「対称性を保っている」かどうかである。一意とは、最も安定した状態が 1 通りに決まることである。ギャップとは、基底状態から次の励起状態へ移るために必要なエネルギー差であり、ギャップがあると小さな揺らぎでは状態が変わりにくい。平凡な状態とは、ここでは、対称性の破れ、長距離もつれ、トポロジカル構造、基底状態の縮退のような特別な構造を持たない、何も特徴のない状態を指す。LSM 制約は、特定の条件下では、このような「一意で、ギャップがあり、対称性を保ち、平凡な基底状態」が禁止される、と述べる。

この禁止の意味は、日常的なたとえで言えば、椅子と人数の数が微妙に合わない部屋に近い。全員がきれいに 1 人 1 脚ずつ座れば、静かで平凡な安定状態になる。しかし、椅子の配置や人数の条件に半端なずれがあると、どう並べても誰かが余る、複数の座り方が同じくらい安定になる、あるいは部屋全体が落ち着かない。LSM 制約で起きていることも、これに似ている。格子全体は規則的で、1 マスずらしても同じに見える。それにもかかわらず、各格子単位の中にある量子的自由度が半端な性質を持つため、全体として完全に平凡な安定状態へは落ち着けない。

用語 意味 LSM 制約での役割
基底状態 系が取りうる最もエネルギーの低い状態である。 最終的に落ち着ける状態がどのようなものかを問う対象になる。
一意性 基底状態が 1 通りに決まることである。 単純で唯一の安定状態が許されるかを判定する。
ギャップ 基底状態から励起状態へ移るための有限のエネルギー差である。 状態の安定性を測る指標になる。
平凡な状態 対称性の破れ、長距離もつれ、トポロジカル構造などを持たない単純な状態である。 LSM 制約が禁止する対象として扱う。
LSM 制約 一定条件下で、平凡で一意なギャップ付き対称基底状態を禁じる制約である。 並進対称性と内部対称性の組み合わせが生む深い制限として扱う。

この表で重要なのは、LSM 制約が単に「基底状態が存在しない」と言っているわけではない点である。基底状態そのものは存在しうる。禁止されるのは、都合のよい条件をすべて満たす平凡な基底状態である。つまり、対称性を保ち、1 通りに決まり、小さな揺らぎに対して安定で、しかも長距離もつれやトポロジカル構造のような非自明な特徴を持たない状態である。LSM 制約は、「その条件では、そのような何も起きない安定状態を選ぶことはできない」と告げる。このため、LSM 制約は no-go theorem、つまり不可能性定理として理解される。

では、なぜそのような禁止が起きるのか。直感的には、格子の 1 マスごとに半端な量子的性質が詰まっていると考えればよい。典型的には、単位格子ごとに半整数スピンのような量子的自由度が含まれる場合が問題になる。半整数スピンとは、非常に大まかに言えば、全体をきれいな対称状態へまとめようとしたときに、各単位格子の中に消しきれない量子的な「半端さ」が残る自由度である。格子全体は 1 マスずらしても同じに見える。つまり、並進対称性がある。しかし、各格子点の中には内部対称性を持つ量子的自由度がある。この並進対称性と内部対称性の組み合わせに、素直には解消できないねじれが生じる。

ここでいうねじれは、幾何学的に格子が物理的に曲がっているという意味ではない。量子状態を対称性を保ったまま平凡に作ろうとすると、内部自由度の条件と格子の繰り返し構造が合わず、どこかに非自明な構造を残さざるを得ない、という意味である。日常的な比喩で言えば、同じ模様を壁紙のようにきれいに繰り返したいのに、1 マスごとに半端な印が入っていて、どのように並べても完全に何もない模様にはならない状態である。格子の見た目は規則的であっても、その格子単位の中に含まれる量子的自由度が、平凡な状態への単純な落ち着きを妨げる。

このとき、系は何らかの非自明な形を取らざるを得ない。ひとつの可能性は、ギャップレスになることである。ギャップレスとは、基底状態からごく小さなエネルギーで励起できる状態が存在することであり、低エネルギーの揺らぎが残ることを意味する。別の可能性は、基底状態が複数になることである。これは縮退と呼ばれ、最も低いエネルギーの状態が 1 通りではなく複数存在する。さらに、対称性を自発的に破る可能性もある。もともとの法則は 1 マスずらしても同じであっても、実際の基底状態では 2 マス周期のような秩序が現れる場合である。さらに別の可能性として、トポロジカル秩序やスピン液体のように、局所的には単純に見えても、全体として非自明な量子的構造を持つ状態が現れる。

逃げ道 何が起きるか LSM 制約との関係
ギャップレス ごく小さなエネルギーで励起できる状態が残る。 安定したギャップ付き状態になることを避ける。
縮退 基底状態が 1 通りではなく複数存在する。 一意な基底状態になることを避ける。
対称性の破れ 法則は対称でも、実際の状態が特定の周期や向きを選ぶ。 対称性を保った平凡な状態になることを避ける。
トポロジカル秩序 局所的な見た目では分かりにくい全体構造や欠陥構造を持つ。 平凡な状態になることを避け、非自明な量子構造を残す。

この表は、LSM 制約が「必ずこの 1 つの状態になる」と予言しているわけではないことを示している。LSM 制約は、むしろ禁止規則である。つまり、「この条件では、平凡で一意なギャップ付き対称基底状態にはなれない」と言う。その結果として、系は別の形を取る。ギャップレスになるのか、縮退するのか、対称性を破るのか、トポロジカル秩序を持つのかは、具体的な模型や相互作用に依存する。したがって、LSM 制約は状態を完全に決める定理というより、許されない状態を排除し、非自明な量子構造がどこかに残ることを要求する制約である。

この点が、量子多体系における対称性の深さを示している。対称性は、単に「操作しても同じに見える」というだけではない。並進対称性と内部対称性が同時に存在し、単位格子の中に特定の量子的自由度が含まれると、その組み合わせが状態空間全体を制限する。対称性は保存則や分類ラベルであるだけでなく、平凡な状態を禁止する力を持つ。LSM 制約は、量子多体系では対称性が「自由を増やす条件」ではなく、「逃げ道を限定する条件」として働くことを示している。

今回の京都大学の研究との関係では、LSM 制約は背景ではなく中心的な出発点である。今回の研究は、LSM 制約を持つ量子格子系で内部対称性をゲージ化したとき、並進対称性が非可逆対称性として現れることを示している。つまり、もともと「平凡な安定状態を禁じる制約」として理解されていた LSM 構造が、ゲージ化後には「1 マスずらす操作が単純には元に戻せない」という非可逆な対称性として姿を現す。この接続を理解するためには、LSM 制約を、単なる古い定理ではなく、並進対称性と内部対称性の組み合わせに潜む障害として見る必要がある。

この障害は、しばしばアノマリーという言葉で捉えられる。アノマリーとは、ここでは「対称性をすべて同時に、素直で平凡な形では実現できない障害」と理解すればよい。日常語の異常という意味ではなく、量子論の整合性や対称性の実現に関わる構造的な障害である。LSM アノマリーとは、並進対称性と内部対称性の組み合わせに、そのような障害があるという見方である。この見方に立つと、LSM 制約は、単に基底状態の性質を述べる定理ではなく、量子格子系の対称性そのものに埋め込まれた深い構造を表している。

まとめると、LSM 制約は、量子格子系において「何も特徴のない安定状態」が常に許されるわけではないことを示す。格子が規則的で、内部自由度も対称性を持っているなら、むしろ全体は平凡に落ち着きそうに見える。しかし、並進対称性と内部対称性の組み合わせにねじれがあると、ギャップレス性、縮退、対称性の破れ、トポロジカル秩序のような非自明な構造がどこかに残る。今回の非可逆対称性の研究は、この LSM 制約を持つ系で、内部対称性をゲージ化すると、並進対称性そのものが通常の可逆な対称性ではなくなることを示す。したがって、次に必要なのは、そのゲージ化とは何かを丁寧に整理することである。


9. ゲージ化は全体の対称性を場所ごとの対称性へ変える

LSM 制約では、並進対称性と内部対称性の組み合わせが、平凡な安定状態を禁じることを見た。次に必要になるのが、ゲージ化という操作である。今回の京都大学の研究では、LSM 制約を持つ量子格子系で内部対称性をゲージ化すると、並進対称性が通常の可逆対称性として残らず、非可逆対称性として現れる。したがって、ゲージ化を理解しないまま「並進対称性が元に戻せなくなる」とだけ聞くと、何が起きているのか分からない。まず押さえるべきなのは、ゲージ化とは、全体で一斉に働いていた対称性を、場所ごとに扱える対称性へ変える操作だという点である。

ゲージ化を理解するには、まずゲージ理論の直感を押さえる必要がある。ゲージとは、物理そのものではなく、記述のために選んだ基準である。たとえば、標高を考えるとき、通常は海面を 0 m とする。しかし、どこを 0 m と呼ぶかは基準の選び方であり、山と谷の高低差そのものは基準を変えても変わらない。電圧も同じである。電圧は絶対値そのものよりも、2 点間の電位差が物理的意味を持つ。基準点をどこに置くかは記述上の選択であり、電場や電流として観測される物理は、基準の取り方だけで変わるわけではない。

このように、ゲージという考え方では、「どの基準を選んだか」と「実際に観測される物理」を区別する。基準の選び方に自由があっても、物理的に意味のある量は変わらない。この自由を体系的に扱う理論がゲージ理論である。Stanford Encyclopedia of Philosophy は、電磁気力、弱い力、強い力の理論がゲージ理論であると整理している[22]。ただし、本稿では素粒子標準模型の詳細へは進まない。必要なのは、ゲージ理論を「場所ごとに基準の取り方を変えても、同じ物理を一貫して表せるようにする理論」と理解することである。

ここで、全体で一斉に基準を変える場合と、場所ごとに別々に基準を変える場合を分ける必要がある。全体で一斉に基準を変えるだけなら、問題は比較的単純である。たとえば、すべての地点の標高表示を一律に 10 m ずらしても、高低差は変わらない。すべての時計を一斉に 5 分進めても、時計どうしの差だけを問題にしているなら、関係は変わらない。このように、全体に同じ変換をかけるものを、大域的な変換と呼ぶ。大域的とは、場所ごとに違いをつけず、全体に同じ操作をするという意味である。

しかし、場所ごとに別々の基準を選べるようにすると、事情は変わる。場所 A では時計を 3 分進め、場所 B では 7 分進め、場所 C では 11 分進めるとする。この場合、単に「各場所で自由に基準を変えてよい」と言うだけでは、場所どうしを比較するときに混乱が生じる。A の時刻と B の時刻を比べるには、A と B の基準差をどのように補正するかを知らなければならない。つまり、場所ごとの自由を許すと、場所どうしをつなぐ補正役が必要になる。この補正役が、ゲージ自由度やゲージ場として現れる。

ゲージ場という言葉は難しく見えるが、本稿では「場所ごとの基準差をつなぐための構造」と理解すればよい。全員が同じ言葉を話しているなら、会話に翻訳はいらない。しかし、地域ごとに別々の方言や記法を自由に使ってよいなら、地域 A の言い方と地域 B の言い方を対応させる翻訳規則が必要になる。ゲージ場は、この翻訳規則に近い。場所ごとの基準を自由に選べるようにする代わりに、隣り合う場所の基準がどのように対応しているかを記録する構造が必要になる。自由を増やすと、整合性を保つための新しい構造も同時に必要になる。

観点 大域的な対称性 局所的な対称性
操作の範囲 全体に同じ変換を一斉にかける。 場所ごとに別々の変換を許す。
直感的な例 全員が同じ方向へ一斉に向きを変える。 場所ごとに別々の方向を選べるようにする。
必要な構造 全体の基準がそろっているため、追加の接続構造は少ない。 場所ごとの基準差をつなぐ補正役が必要になる。
ゲージ化との関係 ゲージ化される前の内部対称性として扱われる。 ゲージ化によって得られる、場所ごとに扱える対称性として扱われる。

この表で重要なのは、ゲージ化が単に「対称性を増やす」操作ではないという点である。大域的な対称性を局所的な対称性へ変えると、場所ごとに自由に変換できるようになる。しかし、その自由を矛盾なく扱うには、場所と場所のあいだをつなぐ新しい構造が必要になる。したがって、ゲージ化とは、局所的な自由を許す代わりに、全体の整合性を保つためのゲージ自由度を導入する操作である。この点を押さえると、ゲージ化が量子格子系の構造を大きく変える理由が見えてくる。

今回の文脈で重要なのは、内部対称性をゲージ化するという操作である。内部対称性とは、格子点の位置を動かすのではなく、各点の中にあるスピンや内部状態へ作用する対称性であった。ゲージ化する前は、この内部対称性は全体に一斉に働くものとして考えられる。たとえば、すべての格子点の内部状態に同じ変換をかける。これは大域的な内部対称性である。これをゲージ化すると、格子点ごとに別々の内部変換を許すことになる。すると、隣り合う格子点の内部基準がどのように対応しているかを表す新しい構造が、格子点どうしのあいだに必要になる。

この新しい構造は、量子格子系では単なる記述上の補助では済まない。格子点どうしのあいだに入るゲージ自由度は、どの状態が許されるか、どの欠陥が現れるか、どの操作が対称性として残るかに関わる。もともとは、内部対称性と並進対称性を別々に考えることができたかもしれない。しかし、内部対称性をゲージ化すると、場所ごとの内部基準と、格子全体を 1 マスずらす操作との関係が変わる。並進操作は、単に格子点の位置をずらすだけではなく、各場所に付随するゲージ構造も一緒に扱わなければならなくなる。

ここで、LSM 制約が効いてくる。LSM 制約を持つ量子格子系では、並進対称性と内部対称性の組み合わせに、平凡な状態では解消できない障害があった。この障害を、前章では LSM アノマリーとして捉えた。内部対称性をゲージ化すると、この隠れていた障害が、並進対称性の振る舞いに現れる。つまり、並進操作は、もはや普通の「右へ 1 マスずらし、左へ 1 マス戻せる」可逆操作として単純には扱えない。ゲージ化された内部構造と結びつくことで、並進対称性そのものがより複雑な構造を持つようになる。

この点を、日常的なたとえで考えるなら、席替えだけの問題ではなくなる。席に座っている人を 1 つ右の席へ移すだけなら、左へ戻せば元に戻る。しかし、各席にその場所固有のルールがあり、隣の席とのあいだに翻訳規則があり、席を移動するたびにその翻訳規則も更新しなければならないとすれば、単なる席替えでは済まない。人を元の位置へ戻したように見えても、席どうしをつなぐ規則や内部状態まで含めた全体構造が元に戻るとは限らない。ゲージ化後の量子格子系で並進を考える難しさは、このような全体構造の変化にある。

段階 何が起きるか 並進対称性への影響
ゲージ化前 内部対称性は全体に一斉に作用する対称性として扱われる。 並進対称性は、通常の可逆な空間的対称性として見える。
ゲージ化 内部対称性を場所ごとに扱えるようにし、格子点間にゲージ自由度を導入する。 並進操作は、格子点だけでなくゲージ構造も含めて作用する必要がある。
LSM 制約がある場合 内部対称性と並進対称性の組み合わせに隠れた障害が残る。 並進対称性が普通の可逆対称性として残らない場合がある。
今回の研究 ゲージ化後の並進対称性が、非可逆対称性として現れることを示す。 1 マスずらす操作が、単純には元に戻せない構造を持つ。

この表が示すように、今回の研究で重要なのは、ゲージ化によって内部対称性だけが変わるのではないという点である。内部対称性を場所ごとに扱えるようにすると、格子点どうしの関係、欠陥の構造、並進操作の意味まで変わる。特に LSM 制約を持つ系では、内部対称性と並進対称性の組み合わせに障害があるため、ゲージ化後の並進は、通常の意味で元に戻せる対称性として単純には残らない。この構造が、次に扱う非可逆対称性へつながる。

ここで誤解してはならないのは、ゲージ化が物理系を雑に壊す操作ではないという点である。ゲージ化は、対称性をより局所的に扱えるようにし、その代わりに整合性を保つためのゲージ自由度を導入する、非常に精密な理論操作である。問題は、ゲージ化によって系の構造が貧しくなることではなく、むしろ見えていなかった構造が表に出ることである。LSM 制約を持つ系では、内部対称性と並進対称性のあいだにあった障害が、ゲージ化後に並進対称性の非可逆性として現れる。これは、ゲージ化が単なる変換ではなく、対称性の隠れた関係を露出させる操作でもあることを示している。

まとめると、ゲージ化とは、全体で一斉に働く対称性を場所ごとに扱えるようにする操作である。ただし、場所ごとの自由を許すと、場所どうしの基準差をつなぐゲージ自由度が必要になる。量子格子系で内部対称性をゲージ化すると、各格子点の内部構造と格子点間の接続構造が変わり、並進対称性との関係も変わる。LSM 制約を持つ系では、この変化によって、通常は可逆に見える並進対称性が、単純な逆操作を持たない非可逆対称性として現れる。次章で扱うべきなのは、この非可逆対称性とは何か、そして「1 マスずらす操作が元に戻せない」とは具体的にどういう意味なのかである。


10. 非可逆対称性では操作が単純には元に戻らない

ここまで、量子格子系、対称性、LSM 制約、ゲージ化を順に見てきた。これらは別々の専門用語ではなく、今回の研究で 1 つの流れとしてつながっている。量子格子系には、格子を 1 マスずらしても同じに見える並進対称性がある。各格子点には、スピンや内部状態のような量子的自由度があり、それらに作用する内部対称性がある。LSM 制約は、この並進対称性と内部対称性の組み合わせに、平凡な安定状態では解消できない障害があることを示す。そしてゲージ化は、内部対称性を場所ごとに扱えるようにし、その代わりに欠陥やゲージ自由度を表に出す。非可逆対称性は、この流れの先で現れる。つまり、最初は単純に見えた「1 マスずらす」という操作が、内部対称性、LSM 制約、ゲージ化を通ることで、単純には元に戻せない対称性として現れるのである。

通常の対称性は、操作と逆操作が対になっている。右へ 1 マスずらしたなら、左へ 1 マス戻せばよい。皿を右へ回したなら、左へ回せばよい。鏡映したものをもう一度鏡映すれば、元に戻る。このような対称性は可逆である。可逆というのは、操作に逆操作があり、操作の前後で対象を 1 対 1 に対応させられるという意味である。日常的な対称性の直感は、ほとんどこの可逆性に支えられている。操作しても同じに見え、必要なら逆向きの操作で元へ戻せるから、対称性は「変えても変わらない性質」として理解しやすい。

非可逆対称性では、この直感が崩れる。非可逆対称性では、操作が単純な 1 対 1 の写像ではない。ある操作をかけた結果が、ただ 1 つの状態に移るのではなく、複数の状態や欠陥構造へ分岐したり、いくつかの成分が融合したりする。したがって、「逆向きの操作をかければ元に戻る」という形では理解できない。ここで重要なのは、非可逆という語を、熱いコーヒーが冷める、割れたコップが自然には戻らない、という日常的な不可逆性と混同しないことである。今回の文脈での非可逆性は、時間の矢や熱力学的な不可逆性ではなく、対称性を表す演算構造に単純な逆元がないという意味である。

この違いは、道を歩く操作と、分岐する案内板を通る操作の違いで考えると分かりやすい。一本道を右へ進んだなら、左へ戻れば元の場所に戻れる。これは可逆な操作である。しかし、ある場所で操作を行った瞬間に、道が複数に分かれ、どの分岐も全体構造の一部として残るような場合、単に反対向きへ歩けば元の 1 本の道へ戻るとは言えない。非可逆対称性は、対称性の操作がこのような分岐や融合を持つ場合を含む。つまり、操作後の対象は「元のものをただ移動したもの」ではなく、複数の成分や欠陥を含む構造として理解しなければならない。

京都大学と理化学研究所の発表によれば、今回の研究は、LSM 制約を持つ量子格子系において、内部対称性をゲージ化すると、もともと可逆に見える並進対称性が非可逆対称性へ変わることを示したものである[6][7]。掲載論文と arXiv 版では、LSM アノマリーを持つ系で内部対称性を完全にゲージ化した後、並進が非可逆になり、内部対称性の欠陥へ融合することが示されている[23][24]。この主張の直感的な意味は、「1 マスずらす」という最も単純に見える操作でさえ、量子格子系の内部構造とゲージ化によって、単純には元に戻せない操作へ変わるということである。

ここで「内部対称性の欠陥へ融合する」という表現を、必要な範囲で説明しておく。欠陥という語は、日常語では壊れた箇所や不良部分を意味しやすい。しかし、量子多体系や対称性の文脈では、欠陥は単なる故障ではない。対称性の変換を空間の一部に挿入したり、異なる領域のつなぎ目を作ったりしたときに現れる、理論上意味のある対象である。欠陥は、どの対称性がどのように作用しているか、どの状態がどの状態へつながるか、どの演算がどのように合成されるかを運ぶ。したがって、今回の研究でいう欠陥は、量子系の構造を乱す邪魔者ではなく、対称性の情報を担う対象として扱われる。

融合という語も、単に 2 つのものが物理的にくっつくという意味ではない。この文脈では、ある対称性操作や欠陥を組み合わせたとき、結果がどのような成分の和として現れるかを表す。通常の可逆対称性では、操作どうしを合成すると、また 1 つの対称性操作になる。たとえば、右へ 1 マスずらす操作を 2 回行えば、右へ 2 マスずらす操作になる。結果は単純である。しかし、非可逆対称性では、操作を合成した結果が 1 つの操作ではなく、複数の成分の組み合わせとして現れることがある。このような合成規則を、融合規則として捉える。今回の研究では、ゲージ化後の並進が、内部対称性の欠陥とこのような融合構造を持つことが重要になる。

操作 通常の理解 今回の研究での見え方
1 マスずらす 右へずらしたら左へ戻せる可逆操作である。 ゲージ化後には、内部欠陥と絡み、単純な逆操作を持たない構造になる。
内部対称性を変える 各点の中身を一斉に変える操作として考えられる。 ゲージ化によって場所ごとの自由が入り、欠陥構造が現れる。
欠陥 単なる乱れや壊れた箇所として見えやすい。 対称性や演算構造を運ぶ対象として重要になる。
融合 複数のものが単純に 1 つへ合わさることとして見えやすい。 操作や欠陥を組み合わせたときの成分の現れ方を表す。
非可逆性 日常的には時間的に戻らないことと誤解されやすい。 演算に単純な逆元がなく、分岐や融合を持つことを意味する。

この表で押さえるべき点は、今回の研究が「並進操作が壊れた」と言っているわけではないことである。並進対称性が消えたのではなく、ゲージ化後には通常の可逆対称性とは異なる形で残る。つまり、1 マスずらす操作は、もはや単純に「場所を入れ替える操作」ではなく、ゲージ化された内部構造や欠陥と結びついた演算になる。そのため、左へ 1 マス戻すという日常的な逆操作の直感では、全体構造を元に戻すことができない。非可逆対称性とは、このように、対称性が消えるのではなく、通常より広い演算構造として現れることを意味する。

なぜこの結果が重要なのか。理由は、並進対称性が物理で最も基本的な対称性の一つだからである。規則正しい格子があれば、1 マスずらす操作はほとんど自明に見える。結晶、スピン鎖、格子模型を考えるとき、並進対称性は最初に置かれる自然な対称性である。だからこそ、その並進対称性が、条件によって非可逆対称性へ変わるという結果は、単なる特殊な数学的事実ではない。物理の基本操作に見えるものが、量子多体系の内部構造と結びつくことで、通常の直感とは異なる演算になることを示している。

より具体的に言えば、今回の結果は、空間的な対称性と内部対称性を別々に扱うだけでは不十分な場合があることを示している。並進対称性は空間をずらす対称性であり、内部対称性は各点の中身に作用する対称性である。通常は、この 2 つを分けて考えることができる。しかし、LSM 制約を持つ系では、両者の組み合わせにアノマリーがある。内部対称性をゲージ化すると、そのアノマリーが、並進対称性の非可逆性として表に出る。つまり、空間をずらす操作そのものが、内部対称性の欠陥や融合規則と切り離せなくなる。

この結果は、量子相の分類にも関係する。量子相を分類するとき、従来は、どの対称性を保っているか、どの対称性を破っているか、ギャップがあるか、トポロジカル秩序があるか、といった観点が使われてきた。しかし、非可逆対称性が現れるなら、分類に使うべき対称性の種類そのものが広がる。単に「並進対称性があるかないか」ではなく、「その並進対称性が通常の可逆対称性として現れているのか、それとも非可逆対称性として現れているのか」が問題になりうる。これは、量子多体系を分類する物差しが増えることを意味する。

量子情報との関係も、ここから見えてくる。量子誤り訂正やトポロジカル量子計算では、欠陥、境界、融合規則、全体構造が重要になる。非可逆対称性も、操作を 1 対 1 の単純な変換としてではなく、欠陥や融合を含む構造として扱う。したがって、今回の研究は、ただちに量子計算機の設計を変える技術ではないが、量子情報を局所的な値ではなく、構造、欠陥、融合規則として保存・操作する考え方と接続しうる。ここに、量子計算機の基礎理論としての意味がある。

ただし、この点は慎重に扱う必要がある。今回の研究は、非可逆対称性を持つ量子模型がすぐにノイズに強い量子記憶や新しい論理ゲートを実現することを示したわけではない。示されたのは、LSM 制約を持つ量子格子系で内部対称性をゲージ化すると、並進対称性が非可逆対称性へ変わるという理論的構造である。そこから、どの具体的な量子誤り訂正符号に使えるのか、どの実験系で実現できるのか、どの程度ノイズ耐性が向上するのかは、別の問題である。基礎理論と実用技術の距離を混同してはならない。

それでも、この研究の意義は小さくない。量子多体系では、空間的に単純な操作でさえ、内部構造と絡むことで通常の直感を超えた演算になる。今回の結果は、並進対称性という基本的な対称性が、LSM アノマリーとゲージ化を通じて、非可逆対称性として現れることを示した。このことは、対称性、欠陥、量子相、量子情報保存を結びつける理論的な言葉を広げる。量子計算機の実用化に直ちに答えを与えるものではないが、壊れやすい量子情報をどのような構造で守り、どのような演算として扱うかを考えるうえで、将来の設計原理に関係しうる。

まとめると、非可逆対称性では、操作は単純には元に戻らない。ここでいう「戻らない」とは、物が壊れて戻らないという意味ではなく、対称性操作に単純な逆元がないという意味である。今回の研究は、LSM 制約を持つ量子格子系で内部対称性をゲージ化すると、1 マスずらすという基本的な並進操作が、内部欠陥や融合規則と結びつき、非可逆対称性として現れることを示した。これは、量子多体系では、空間、内部対称性、欠陥、ゲージ化が互いに独立ではなく、全体として 1 つの演算構造を作ることを意味する。次章では、この構造が、量子情報保存や論理演算の設計原理とどのように接続しうるのかを整理する。


11. 非可逆対称性は量子情報保存の設計図になりうる

今回の研究は、すぐに量子計算機の性能を上げる技術ではない。この点は最初に切り分ける必要がある。LSM 制約を持つ量子格子系で、内部対称性をゲージ化すると、並進対称性が非可逆対称性として現れる。これは量子計算機の部品、量子ビットの製造方法、既存の誤り訂正符号を直接改善する工学的成果ではない。しかし、量子情報をどのような構造に保存し、どのような操作で論理情報を動かすのかを考えるうえでは、重要な基礎理論になりうる。理由は、非可逆対称性が、欠陥、融合規則、全体構造を記述する言語になりうるからである。量子情報保存の問題は、単にノイズを小さくする問題ではなく、ノイズがあっても論理情報が壊れにくい構造をどう作るかという問題である。

ここで、前章までの流れを整理すると、この接続が見えやすくなる。量子誤り訂正では、情報を 1 個の物理量子ビットに置くのではなく、多数の物理量子ビットが作る整合性、測定履歴、格子構造の中に埋め込んだ。トポロジカル量子計算では、情報を局所的な値ではなく、準粒子や欠陥の編み込み方、融合の仕方、全体の絡まり方に置こうとした。量子多体系では、個々の粒子だけでは説明できない相や秩序やもつれが全体として現れた。量子格子系では、格子の並進対称性と内部自由度が組み合わさった。LSM 制約では、その組み合わせが平凡な安定状態を禁じた。そしてゲージ化によって、内部対称性を場所ごとに扱えるようにすると、隠れていた構造が欠陥や非可逆な並進として表に出た。つまり、本稿で繰り返し現れているのは、量子情報や量子状態を「局所的な値」ではなく「全体構造」として扱う発想である。

量子誤り訂正の文脈では、局所的な誤りがどのようなシンドロームとして現れるか、どの誤り経路が単なる補正対象で、どの誤り経路が論理演算になってしまうかを区別しなければならない。たとえば、表面符号では、局所的な誤りが短い範囲で起きただけなら、シンドロームから推定して補正できる可能性がある。しかし、誤りが系全体を横断するような経路を作ると、それは単なる局所誤りではなく、論理量子ビットそのものを変える論理誤りになりうる。ここで問題になるのは、単独の誤りの有無だけではない。誤りがどのような経路を作り、どの欠陥を生み、どの全体構造へ接続するかである。

トポロジカル量子計算でも、同じ構造が現れる。準粒子や欠陥の局所位置だけではなく、それらをどのように動かしたか、どの順序で編み込んだか、どの融合チャネルを通ったかが論理情報の保存や操作に関わる。ここでいう融合チャネルとは、複数の準粒子や欠陥を組み合わせたとき、結果としてどの種類の状態や成分へ到達するかを表す区別である。局所的な値ではなく、欠陥どうしの関係、経路、融合規則が情報を担う。非可逆対称性は、このような欠陥の分岐や融合を、対称性の言葉で整理するための理論的な物差しになりうる。

ここで重要なのは、「値としての情報」から「構造としての情報」への転換である。通常の直感では、情報はどこか 1 つの場所に保存されているように考えられる。ファイルはディスク上のブロックにあり、ビットはメモリー上のセルにあり、文字は紙面上の位置にある、と考えやすい。この直感では、情報の保存とは、その場所を壊さないことになる。しかし量子情報では、1 個の局所自由度に情報をそのまま置くとノイズに弱い。表面符号では、論理情報は局所的な 1 点ではなく、格子全体の整合性と経路構造の中にある。トポロジカル量子計算では、論理情報は準粒子の局所位置ではなく、全体の編み込みや融合構造にある。非可逆対称性は、この「情報が欠陥や融合規則の中にある」という見方を、より一般的な対称性の言葉で整理しうる。

この整理が設計原理になりうる理由は、量子情報保存では「何を局所的な誤りとして扱い、何を論理演算として扱うか」を明確に分ける必要があるからである。局所的な誤りは検出して補正したい。一方、論理演算は意図して実行したい。両者はどちらも量子状態を変える操作であるため、単に「状態が変わったかどうか」だけでは区別できない。重要なのは、その変化がどの構造に属するかである。短い局所経路として閉じる変化なのか、系全体を貫く論理経路なのか、欠陥を作って消えるだけなのか、欠陥の融合規則を通じて論理空間へ作用するのか。この区別を与える言語として、非可逆対称性、欠陥、融合規則の理論が関係しうる。

接続先 非可逆対称性が関係しうる点 現時点での限界
量子誤り訂正 誤り、シンドローム、欠陥、論理経路の関係を構造的に記述できる可能性がある。 具体的な符号性能の改善へ直結するとはまだ言えない。
トポロジカル量子計算 欠陥の融合や編み込みを論理演算として理解する言語を広げる可能性がある。 実験で利用可能な準粒子や欠陥を作れるかは別問題である。
量子相分類 可逆な対称性だけでなく、非可逆な対称性を分類軸に加えられる可能性がある。 分類が増えても、ただちに計算資源として有用とは限らない。
量子シミュレーション 理論模型を人工量子系で再現し、欠陥や対称性の振る舞いを検証する候補になる。 検証可能な模型設計と測定方法は今後の課題である。

この表で最も重要なのは、可能性と限界を同時に見ることである。非可逆対称性は、量子誤り訂正、トポロジカル量子計算、量子相分類、量子シミュレーションのいずれにも関係しうる。しかし、それは「非可逆対称性が見つかったから、ただちにノイズに強い量子計算機ができる」という意味ではない。関係しうるのは、欠陥がどう現れるか、操作がどう融合するか、局所的な変化と論理的な変化をどう区別するか、どの量子相が非自明な情報保存構造を持つかを考えるための理論言語としてである。設計図になりうるというのは、部品表や製造手順になるという意味ではなく、どの構造に注目すべきかを示す概念的な地図になりうるという意味である。

量子相の分類という観点でも、今回の研究は重要である。量子相を分類するとき、従来は対称性の有無、対称性の破れ、ギャップの有無、もつれ、トポロジカル秩序などが物差しになってきた。たとえば、ある相が磁性を持つか、ギャップがあるか、境界状態を持つか、長距離もつれを持つか、といった観点で量子多体系を整理する。しかし、ゲージ化後に並進対称性が非可逆対称性として現れるなら、分類に使うべき対称性の概念そのものが広がる。単に「並進対称性があるか」ではなく、「その並進対称性が通常の可逆対称性として現れるのか、欠陥や融合を伴う非可逆対称性として現れるのか」が問われる。これは、量子相を見るための物差しが増えることを意味する。

このことは、量子情報保存にも間接的に関係する。量子計算機で利用したいのは、単に珍しい量子相ではない。局所ノイズに対して情報を守れる構造、論理演算として使える操作、測定によって読み出せる符号空間、制御可能な欠陥や境界を持つ相である。量子相の分類が精密になれば、どの相が量子情報保存に向いているのか、どの相では論理操作が安定に定義できるのかを考えるための基盤が広がる。非可逆対称性は、この分類の中で、通常の可逆対称性だけでは見えない構造を示す可能性がある。

量子シミュレーションの観点では、今回のような理論的構造を、将来的に制御可能な人工量子系で検証する可能性がある。普通の計算機では、量子多体系の状態空間をそのまま追うことが難しい。そこで、別の量子系を使って、調べたい量子模型に似た振る舞いを再現する。Feynman は、量子系を効率よく模擬するには量子系そのものを使うという発想を提示し、Lloyd は汎用量子シミュレーターの理論的枠組みを示し、冷却原子系による量子シミュレーションも量子多体系研究の重要な道具として発展してきた[25][26][27]。非可逆対称性を持つ模型も、将来的には、このような量子シミュレーションの対象になりうる。

ただし、量子シミュレーションで検証できる可能性があることと、それが量子計算機の実用機能になることは別である。ある理論模型を人工量子系で再現できたとしても、その模型が実用的な量子記憶として使えるとは限らない。欠陥や融合規則を観測できても、それを高速で、低誤り率で、拡張可能な論理演算へ変換できるとは限らない。量子シミュレーションは、基礎理論を実験的に調べる重要な手段である。しかし、量子情報保存の工学的設計へ進むには、符号化、測定、補正、制御、読み出し、スケーリングまで含めた別の課題を解かなければならない。

非可逆対称性を持つ量子模型があるだけで、自動的にノイズに強い量子計算機ができるわけではない。ノイズ耐性には、エネルギーギャップ、局所誤りの検出可能性、補正可能性、測定誤りへの耐性、実装可能な相互作用、効率的なデコーダーが必要である。論理演算として使うには、符号空間を保ち、誤りを制御し、必要なゲート集合を実現できなければならない。さらに、現実の装置では、温度、配線、冷却、制御精度、測定時間、デコーダーの計算負荷、スケールアップ時のクロストークも問題になる。非可逆対称性は、これらの工学的課題を一挙に消すものではない。

したがって、正確には、非可逆対称性は「すぐ使える技術」ではなく、「どの欠陥構造が安定で、どの操作が論理情報へ意味を持つかを考えるための理論言語」なのである。これは軽い意味ではない。量子計算機の実用化には、実験装置や制御技術だけでなく、何を安定な情報単位と見なし、どの操作を誤りと見なし、どの操作を論理演算と見なすのかを決める理論が必要である。非可逆対称性は、その理論の候補の一部になりうる。特に、欠陥、融合、分岐、非局所的な構造を扱う点で、量子誤り訂正やトポロジカル量子計算の考え方と接続しやすい。

ここまでを一般化すると、量子情報保存の設計原理は、個々の量子ビットを完全に守ることから、構造として情報を守ることへ移っている。物理量子ビットは壊れる。だから、論理量子ビットは多数の物理量子ビットの整合性として作る。局所状態はノイズに弱い。だから、情報を経路、欠陥、編み込み、融合規則、トポロジカル構造へ置く。通常の対称性だけでは見えない構造がある。だから、非可逆対称性のような拡張された対称性が、どの操作が安定で、どの操作が論理的意味を持つかを考える手がかりになる。今回の研究の意義は、この長い流れの中に位置づく。

まとめると、非可逆対称性は、量子情報保存の設計図になりうる。ただし、その設計図は、すぐに装置を作るための工程表ではない。欠陥、融合規則、全体構造、非局所的な情報保存を理解するための概念的な設計図である。今回の研究は、LSM 制約を持つ量子格子系で、ゲージ化後の並進対称性が非可逆対称性として現れることを示した。これは、量子情報を局所的な値ではなく、構造、欠陥、対称性、融合規則として扱う理論の幅を広げる。量子計算機の実用化に直結する成果ではないが、壊れやすい量子情報をどのような構造で守り、どのような演算として扱うかを考えるための基礎理論として重要である。


12. 分かっていることと分かっていないことを切り分ける

ここまでの議論を整理すると、量子計算機について分かっていることはかなりある。量子ビットは壊れやすい。これは、量子ビットを構成する物理部品がすぐ壊れるという意味ではなく、計算に使いたい重ね合わせ、位相、もつれが、周囲との相互作用や制御誤差によって乱れやすいという意味である。裸の物理量子ビットだけを大量に並べても、大規模で信頼できる計算機にはならない。計算が長くなればなるほど、ゲート操作、測定、待機時間、補正処理の中で誤りが蓄積し、最後に得られる結果が本来の計算結果なのか、誤りの蓄積なのか分からなくなる。したがって、量子計算機の実用化にとって、量子ビット数の増加は必要条件ではあるが、それだけでは十分条件ではない。

分かっていることの第一は、量子誤り訂正が理論的に必要であり、かつ原理的には成立しうるということである。量子情報は未知の状態を単純コピーできず、途中で直接測定すれば状態が壊れるため、通常のビットのように複製して多数決するだけでは守れない。その代わりに、1 個の論理量子ビットを多数の物理量子ビットの全体構造へ符号化し、論理情報そのものではなく整合性の崩れを測る。これが量子誤り訂正の基本である。さらに、物理誤り率が一定のしきい値を下回れば、符号を大きくすることで論理誤り率を下げられるという考え方がある。このしきい値の考え方は、量子計算機が「誤りがないから成立する」のではなく、「誤りを制御できるなら成立しうる」ことを示している。

分かっていることの第二は、表面符号のような有力な方式があり、小規模から中規模の実験では、論理量子ビットの性能改善を示す結果が出始めていることである。表面符号では、多数の物理量子ビットを格子状に並べ、近傍の整合性を繰り返し測定し、シンドロームから誤りを推定する。これは、量子情報を点ではなく構造として保存する代表的な方式である。実験的にも、符号サイズを大きくすることで論理性能が改善する方向が示されつつある。ただし、これは実用規模の耐故障量子計算機が完成したという意味ではない。むしろ、量子誤り訂正が実機上で成立し始めていることを示す段階であり、実用化にはまだ大きな距離がある。

分かっていることの第三は、低オーバーヘッド化が重要課題として認識されていることである。表面符号は有力だが、1 個の論理量子ビットを作るために多くの物理量子ビットを必要とする。物理量子ビット数、測定回数、デコーダー処理、制御配線、冷却資源が大きくなれば、実用的な計算機として構成することは難しくなる。IBM も、誤り訂正された量子計算へ向けて、QLDPC 符号などを含む低オーバーヘッド化の方向を示している[28]。ここでいう QLDPC 符号とは、量子低密度パリティ検査符号のことであり、少ない検査構造で効率的に誤り訂正を行うことを狙う符号群である。ただし、効率がよい符号であっても、実装しやすさ、測定の局所性、デコーダーの実時間性、ハードウェアとの相性を満たさなければ、実用的な選択肢にはならない。

分かっていることの第四は、現在の量子計算機が、完全な耐故障量子計算機にはまだ到達していないということである。Preskill が NISQ 時代として整理したように、現在の装置は、完全な誤り訂正によって長時間の大規模計算を実行できる段階と、ノイズを含む中規模量子デバイスの段階のあいだに位置している[29]。NISQ とは、Noisy Intermediate-Scale Quantum の略であり、ノイズを含む中規模量子デバイスを指す。これは、量子効果を実験的に扱える規模には達しているが、十分な誤り訂正によって任意の長い計算を信頼して実行できる段階ではない、という位置づけである。

一方で、分かっていないことも明確である。第一に、実用規模の耐故障量子計算機を、現実的なコスト、冷却、配線、制御、測定、補正速度で構成できるかは未達である。理論上、量子誤り訂正としきい値の考え方があるとしても、それを実際の装置として組み上げるには、多数の物理量子ビット、低い物理誤り率、高速で正確な測定、実時間で動くデコーダー、安定した冷却、拡張可能な配線、誤りを広げにくいゲート操作が必要になる。どれか 1 つだけが進んでも、計算機全体として成立するわけではない。

第二に、どの物理方式が長期的に主流になるかは決まっていない。超伝導量子ビット、イオントラップ、冷却原子、光量子、半導体スピン、トポロジカル量子ビットなど、複数の方式が研究されている。それぞれに長所と短所がある。超伝導方式は高速なゲート操作と集積化で進展しているが、冷却や配線が課題になる。イオントラップ方式は高精度な操作が可能だが、速度や大規模化に課題がある。光量子方式は通信との相性がよいが、決定論的なゲートや損失の扱いが難しい。トポロジカル方式は理論的にはノイズ耐性が魅力的だが、必要な準粒子や欠陥を安定して作り、操作し、測定する課題が残る。したがって、現時点で「最終的にこの方式が勝つ」と断定することはできない。

第三に、非可逆対称性の研究が、具体的な量子誤り訂正符号や論理演算へどの程度つながるかは未確定である。今回の研究は、LSM 制約を持つ量子格子系で、内部対称性をゲージ化すると、並進対称性が非可逆対称性として現れることを示した。これは、対称性、欠陥、量子相分類、量子情報保存の基礎理論を広げる成果である。しかし、特定の量子誤り訂正符号の論理誤り率を下げる方法を示したわけではない。特定の論理ゲートを実装する手順を示したわけでもない。実用装置の設計へ直結したわけでもない。ここを混同すると、基礎理論の意義を誇張することになる。

区分 内容 評価
分かっていること 量子ビットは壊れやすく、物理量子ビットをそのまま使うだけでは大規模計算に不十分である。 量子計算機の基本課題として確立している。
分かっていること 量子誤り訂正により、多数の物理量子ビットから論理量子ビットを作る理論がある。 実用化の中核となる理論である。
分かっていること 表面符号などの方式では、符号サイズ、物理誤り率、論理誤り率の関係を実験的に検証する段階へ進んでいる。 原理実証から拡張性の検証へ進む重要な段階である。
分かっていること 今回の研究は、LSM 制約を持つ量子格子系で、ゲージ化後の並進対称性が非可逆化することを示した。 対称性、欠陥、量子相分類の基礎理論を広げる成果である。
分かっていないこと 非可逆対称性が、どの具体的な符号や論理演算をどの程度改善するかは未確定である。 現時点では応用可能性であり、実用技術ではない。
分かっていないこと 実用規模の耐故障量子計算機を、現実的な資源量で構築できるかは未達である。 量子計算機開発全体の最大課題である。
分かっていないこと どの物理方式、符号方式、デコーダー、制御方式の組み合わせが長期的に主流になるかは決まっていない。 理論、実験、工学の全体最適がまだ探索中である。

この表で重要なのは、分かっていることと分かっていないことを同じ重さで見ることである。量子計算機については、何も分かっていないわけではない。量子ビットが壊れやすい理由、量子誤り訂正の必要性、論理量子ビットの考え方、しきい値の概念、表面符号のような候補、NISQ 装置の限界は、かなり整理されている。一方で、実用規模の耐故障量子計算機を現実的な資源で作ること、どの方式が本命になるか、非可逆対称性のような基礎理論がどの具体技術へ接続するかは、まだ開かれた問題である。分かっていることを無視して悲観するのも誤りであり、分かっていないことを無視して楽観するのも誤りである。

したがって、今回の研究を過大評価して「量子計算機がすぐ強くなる」と見るべきではない。今回示されたのは、量子格子系の対称性に関する新しい理論的構造であり、装置性能の直接改善ではない。量子ビットの誤り率が突然下がるわけではなく、表面符号のオーバーヘッドが直ちに消えるわけでもない。具体的な量子計算機の性能を決めるには、物理量子ビットの品質、ゲート精度、測定精度、誤り訂正符号、デコーダー、制御装置、冷却、配線、スケーリングまで含めた工学的課題が残る。

同時に、今回の研究を過小評価して「実用に関係ない抽象理論」と切り捨てるのも誤りである。量子計算機の本質的課題は、壊れやすい量子情報をどの構造へ保存し、どの操作で安全に動かし、どの誤りを検出し、どの論理空間を保つかである。非可逆対称性、LSM 制約、ゲージ化、欠陥構造は、この問いに対して、量子多体系の側から理論的な言葉を与える。量子情報を点ではなく構造として扱うなら、欠陥がどう融合するか、操作がどのように分岐するか、空間的な並進が内部対称性とどう絡むかは、長期的には重要な設計原理になりうる。

このように見ると、基礎理論と実用技術の関係は、直線的ではない。基礎理論が出た翌日に装置が改善されるわけではない。しかし、どの状態が安定なのか、どの操作が意味を持つのか、どの対称性が情報保存に関わるのかを理解しなければ、長期的な設計方針も定まらない。量子誤り訂正も、最初は抽象的な理論であったが、現在では実用的な量子計算機を考えるうえで不可欠な中核概念になっている。非可逆対称性が同じ道をたどるかは分からないが、少なくとも、量子情報を構造として扱う理論の語彙を広げていることは確かである。

結論として、量子計算機を理解するには、量子ビット数や短期的な性能競争だけを見ていては足りない。重要なのは、壊れやすい量子情報を、誤り訂正、対称性、欠陥、トポロジカル構造、量子相の分類によって、計算可能な論理情報へ変換できるかである。物理量子ビットは壊れる。だから論理量子ビットを作る必要がある。局所状態はノイズに弱い。だから情報を構造へ分散する必要がある。通常の対称性だけでは見えない構造がある。だから非可逆対称性のような拡張された対称性が、量子情報保存の理論に関わりうる。

今回の非可逆対称性の研究は、その変換を直接完成させるものではない。しかし、「ただ 1 マスずらす」という基本操作でさえ、量子系の内部構造とゲージ化によって非可逆な演算へ変わることを示すことで、量子情報を点ではなく構造として考える必要性を改めて明確にした。量子計算機の未来は、単により多くの量子ビットを並べることではなく、壊れやすい量子情報をどのような全体構造で守るかという理論と実装の接点にある。今回の研究は、その接点に直接答えを出したのではなく、その接点を考えるための理論的な地図を 1 枚増やした成果として位置づけるのが妥当である。


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