科学に基づく政策という言葉は、一見するとわかりやすい。科学的な証拠を集め、それをもとに政策を決めるという意味に見える。感染症対策では医学や疫学の知見を参照し、気候変動対策では気候科学や環境科学の知見を参照し、AI 規制では計算機科学や法学や倫理学の知見を参照する。このように説明すれば、科学があり、それを政策が使うという直線的な関係に見える。
しかし、この理解だけでは、途中にある重要な段階が抜け落ちる。科学論文は世界中で膨大に発表されている。政策文書は、そのすべてをそのまま反映するわけではない。どの論文を読むのか。どの研究を信頼するのか。どの専門家に評価を委ねるのか。どの知識を報告書やガイドラインに書き込むのか。政策に使われる科学は、こうした選択を経て初めて、政策文書の中に現れる。
つまり、科学に基づく政策とは、科学的事実が自動的に政策へ流れ込むことではない。科学的知識は、国際機関、専門家委員会、評価報告、ガイドライン、引用ネットワークを通じて選ばれ、整理され、政策担当者が使える形へ翻訳される。この翻訳は必要である。複雑な科学をそのまま政策判断に使うことはできないからである。しかし、翻訳が必要であるということは、その過程で選ばれる知識と選ばれにくい知識が生じるということでもある。
| 段階 | 単純な理解 | 本稿で見る点 |
|---|---|---|
| 科学 | 研究者が論文を発表し、科学的知識が蓄積される。 | 科学全体には膨大な論文があり、政策文書に直接入るものは一部に限られる。 |
| 専門家 | 専門知を持つ人が、科学的根拠を政策に伝える。 | 専門家は単なる伝達者ではなく、どの知識を重要とみなすかを整理する媒介者でもある。 |
| 国際機関 | 科学に基づく報告書や指針を作る。 | 外部の科学を選び直し、政策に使える形へ再構成する知識の編集者でもある。 |
| 政策 | 科学的証拠をもとに判断される。 | 政策が参照する科学は、すでに制度的な経路を通って選ばれた科学である。 |
既稿では、生命科学が新しい対象を作り出す段階、医療 AI が判断と責任を再配置する段階、ゲノム編集が治療と設計の境界を揺さぶる段階、治療と強化の境界が曖昧になる段階、老化を治療対象として扱う段階を整理してきた[1][2][3][4][5]。それらの論点に共通するのは、技術そのものだけでは判断できないという点である。ゲノム編集、医療 AI、生殖技術、老化制御は、いずれも安全性や有効性だけでなく、誰が評価し、どの知識を根拠にし、どの制度が判断を引き受けるのかを問う。
今回扱うのは、その一段上の問題である。個別の技術をどう評価するかではなく、そもそも政策や制度が参照する科学的知識は、どのように選ばれるのかを考える。政策文書に出てくる科学は、科学全体の縮図なのか。それとも、特定の研究者、専門家ネットワーク、国際機関、引用経路を通って選ばれた科学なのか。この問いを確認しないまま「科学に基づく政策」と言うと、科学が政策へ届く途中の選択構造が見えなくなる。
本稿の中心命題は、次のようにまとめられる。科学に基づく政策とは、科学全体がそのまま政策へ届くことではない。実際には、政策に届きやすい科学があり、届きにくい科学がある。その差は、論文の内容だけでなく、研究者の信用、共著ネットワーク、国際機関との接続、過去の引用経路、政策文書で使いやすい語彙によっても生じる。したがって問うべきなのは、科学が政策に使われているかどうかだけではない。どの科学が、誰の手を通り、どの機関によって、政策に使える知識として選ばれたのかである。
1. 科学に基づく政策は、科学全体を映しているわけではない
政策文書に科学論文が引用されていると、その政策は科学に基づいているように見える。この理解は、半分は正しい。科学的根拠を参照しない政策よりも、科学的根拠を参照する政策のほうが、判断の理由を検証しやすいからである。しかし、ここで一つ区別しなければならないことがある。政策文書に引用された科学論文は、科学全体そのものではない。政策文書に現れる科学は、無数の研究成果の中から、特定の機関、専門家、文書作成過程を通って選ばれた科学である。
たとえば、気候変動について政策が作られるとき、世界中の気候科学、海洋科学、生態学、農学、経済学、社会科学の論文がそのまま各国の政策文書へ流れ込むわけではない。感染症対策でも、医学、疫学、ウイルス学、公衆衛生、医療制度研究の論文がそのまま政策へ変わるわけではない。実際には、膨大な研究成果の中から、報告書に取り上げられる研究、専門家委員会で検討される研究、国際機関の文書に引用される研究が選ばれる。その後、それらが各国政府や国際合意の参照点になる。
この違いは重要である。「科学に基づく政策」と聞くと、科学的事実が政策へ直接反映されるように思いやすい。しかし、政策の現場で必要になるのは、個々の論文をそのまま並べることではない。大量の論文を読み、相互の関係を整理し、対立する結果を評価し、政策判断に使える形へ要約しなければならない。この過程では、何を重要な研究とみなすか、どの分野の知識を中心に置くか、どの専門家の整理を信頼するかという選択が避けられない。
この問題を、国際機関の政策文書に引用される科学論文という具体的な入口から分析したのが、Asatani らの PNAS 論文である[6]。東京大学大学院工学系研究科の公式発表も、この研究が国際機関文書に引用される科学論文の著者集中を扱うものだと説明している[7]。また、査読前の arXiv 版では、科学と IGO 政策の間の知識流通を形成する研究者ネットワークという問題意識が、より直接的な表現で示されている[8]。
IGO とは intergovernmental organization、つまり政府間国際機関である。国連、WHO、世界銀行、IPCC、UNESCO、UNEP などが含まれる。これらの機関は、感染症、気候変動、開発、貧困、教育、環境、AI などの問題について報告書やガイドラインを作り、各国政策や国際合意の参照点になる。重要なのは、IGO が通常、科学論文を自ら大量に生産する主体ではないという点である。IGO は外部の研究を集め、評価し、政策文書へ組み込む。
| 段階 | 起きていること | 本稿で見る点 |
|---|---|---|
| 科学論文 | 研究者が観察、実験、分析、モデル化を通じて新しい知識を発表する。 | 科学全体には膨大な論文があり、政策文書に直接入る論文はその一部に限られる。 |
| 専門家ネットワーク | 研究者同士が共同研究、引用、学会、委員会、評価報告を通じて知識を整理する。 | 論文の内容だけでなく、誰が書いたか、誰とつながっているか、過去にどの文書で参照されたかが意味を持つ。 |
| 国際機関文書 | 外部の研究成果が、報告書、評価文書、ガイドライン、政策提言として再構成される。 | 科学的知識は、政策担当者が使える形へ選び直され、要約され、翻訳される。 |
| 政策判断 | 国際機関文書が、各国政策、国際合意、規制、資金配分、社会的判断の参照点になる。 | 政策が参照する科学は、すでに制度的な経路を通って整理された科学である。 |
この表が示しているのは、科学から政策までの間に複数の段階があるということである。科学論文は、まず研究者の成果として発表される。次に、その論文は引用され、共同研究の中で使われ、専門家ネットワークの中で位置づけられる。さらに、国際機関がそれらを報告書やガイドラインに組み込む。最後に、その文書が各国政策や国際合意の根拠として参照される。したがって、政策文書に科学論文が引用されているという事実だけを見ても、科学全体がどのように政策へ届いたのかは分からない。
ここでの問題は、科学が正しいかどうかではない。科学的妥当性は当然の前提である。しかし、政策に使われる科学を考えるには、正しさとは別の問いも必要になる。どの科学が見つけられたのか。どの科学が信頼されたのか。どの科学が政策文書に引用されたのか。どの科学が引用されなかったのか。これらは、科学の内容そのものとは別に、知識が制度の中をどのように移動するかという問題である。
| 見方 | 単純な理解 | 本稿での理解 |
|---|---|---|
| 科学に基づく政策 | 政策が科学的根拠を参照している状態である。 | どの科学的根拠が、どの経路を通って政策文書に入ったのかまで見る必要がある。 |
| 論文引用 | 引用された論文が政策の科学的根拠になる。 | 引用は知識選択の痕跡であり、科学全体の代表とは限らない。 |
| 専門家 | 専門知識を持つ個人である。 | 専門家は、知識を政策文書へ接続する媒介者にもなる。 |
| 国際機関 | 科学に基づく報告や指針を出す機関である。 | 外部科学を選び直し、政策向けに翻訳する知識の編集者でもある。 |
この章で確認したいのは、科学に基づく政策を疑うべきだということではない。むしろ逆である。科学に基づく政策を本当に信頼するためには、科学が政策に使われているという事実だけでは不十分である。どの科学が、誰の手を通り、どの国際機関の文書に入り、どのような形で政策判断の根拠になったのかを見なければならない。科学に基づく政策とは、科学的事実が自動的に政策へ流れ込むことではなく、科学的知識が特定の制度的経路を通って政策用の知識へ変換されることである。
2. 国際機関は、科学を作るのではなく選び直す
科学と政策の関係を考えるとき、科学が先にあり、それを政策が後から使うという直線的な図式で理解しがちである。この図式は分かりやすいが、実際の過程をかなり単純化している。科学論文は、発表された瞬間に政策になるわけではない。研究成果は、専門家によって読まれ、評価され、比較され、報告書やガイドラインの中で整理される。その後で、政策担当者が参照できる知識になる。
この間にあるのが、科学と政策の翻訳装置である。評価報告、専門家委員会、ガイドライン、国際会議、政策文書は、単に科学を運ぶ通路ではない。そこでは、研究成果が政策担当者にとって使える形へ組み替えられる。個別の論文は、結論、限界、確実性、不確実性、他の研究との関係、政策上の意味を持つ知識として再配置される。
たとえば、気候変動の論文が一つ発表されたとしても、それだけで温室効果ガス削減目標が決まるわけではない。その論文は、他の観測研究、モデル研究、影響評価、経済分析と比較される。どの結果が確かで、どの結果に幅があり、どの部分が政策判断に関係するのかが整理される。感染症対策でも同じである。個々の医学論文や疫学研究は、そのまま勧告になるのではなく、感染状況、医療体制、リスク評価、社会的影響を含む文脈の中で読み直される。
したがって、国際機関は科学をそのまま受け取るだけの受動的な存在ではない。国際機関は、多数の研究成果の中から何を参照するかを選び、どの結果を重視するかを整理し、どの言葉で政策文書に書き込むかを決める。これは科学の捏造や歪曲を意味しない。むしろ、科学を社会的意思決定に使うためには避けられない編集作業である。ただし、その編集作業には、選ばれる知識と選ばれにくい知識の差が必ず生じる。
| 段階 | 科学側で起きること | 政策側で必要になること |
|---|---|---|
| 研究成果の発表 | 個別の研究者や研究チームが、観察、実験、モデル化、分析の結果を論文として発表する。 | その論文が政策課題に関係するのか、他の研究とどう関係するのかを見極める必要がある。 |
| 専門的評価 | 複数の研究成果が、専門家共同体の中で引用され、批判され、比較され、位置づけられる。 | どの知見が十分に信頼でき、どの知見がまだ不確実なのかを整理する必要がある。 |
| 国際機関での整理 | 研究成果が評価報告、ガイドライン、政策文書の中で、政策担当者が読める形に再構成される。 | 科学的知見を、判断、規制、勧告、資金配分、国際合意に接続できる形へ翻訳する必要がある。 |
| 政策への参照 | 整理された科学的知見が、国や自治体、国際交渉、制度設計の根拠として使われる。 | その根拠が科学的に信頼できるだけでなく、手続きとしても納得できるものかが問われる。 |
このとき重要になるのが、salience、credibility、legitimacy という三つの観点である。salience は、政策課題にとって有用であることを意味する。どれほど優れた研究でも、政策担当者が直面している問いと接続しなければ、政策文書には入りにくい。credibility は、科学的に信頼できることを意味する。研究方法、データ、査読、再現性、専門家からの評価がここに関わる。legitimacy は、知識選択の過程が公正で正統だと受け止められることを意味する。誰が関与し、誰の知識が反映され、誰の知識が外れたのかがここで問題になる。
持続可能な開発に関する知識システム研究は、科学と行動の境界を適切に管理することが、科学技術を社会的意思決定に結びつけるために重要だと論じてきた[9]。また、研究、評価、意思決定を結びつける際には、政策的有用性、科学的信頼性、正統性の三つが同時に問題になる[10]。ここで重要なのは、この三つが単なる評価項目ではなく、科学が政策に入るときの緊張関係を示していることである。
| 観点 | 意味 | 政策文書での問題 | 偏った場合に起きること |
|---|---|---|---|
| salience | 政策担当者が直面している課題に関係していることである。 | 政策に使いやすい問い、指標、語彙、時間軸を持つ研究が選ばれやすくなる。 | 政策に合う研究だけが目立ち、基礎的だが重要な研究や地域的知見が見えにくくなる。 |
| credibility | 科学的に信頼できると見なされることである。 | 論文の品質だけでなく、研究者、研究機関、掲載誌、過去の評価にも信用が付着する。 | 既に信用を得た研究者や機関の知識が、さらに引用されやすくなる。 |
| legitimacy | 知識選択の過程が公正であると見なされることである。 | 特定地域、特定分野、特定ネットワークへの偏りが問題になる。 | 科学的に信頼できる文書であっても、代表性や公平性を欠くものとして受け止められる。 |
この三つは、常に同じ方向を向くわけではない。少数の信頼できる専門家に依存すれば、政策文書は速く作れるし、科学的な一貫性も保ちやすい。これは salience と credibility を高める方向に働く。しかし、その少数者がどのように選ばれたのか、どの地域や分野の知識が入りにくかったのか、異なる見方がどの程度検討されたのかが見えなければ、legitimacy は弱くなる。
国際的な環境評価についての研究も、評価報告が影響力を持つのは、単に科学的に正しいからだけではなく、政策課題に関係し、正統な過程で作られていると見なされる場合だと整理している[11]。ここで国際機関や専門家委員会は、科学と政策の境界を扱う boundary organization として機能する[12]。boundary organization とは、科学者だけの場でも、政策担当者だけの場でもなく、科学的知識を政策判断に接続するための中間的な組織や制度を指す。本稿でこの語を使う理由は、国際機関が単なる引用者ではなく、科学を政策向けの知識へ変換する場でもあることを示すためである。
さらに、国際政策では、共通の問題認識や因果理解を共有する専門家共同体、つまり epistemic community が争点設定や政策調整に影響する[13]。epistemic community は、単に専門家が集まった集団ではない。何を問題とみなし、どの因果関係を重視し、どの方法で証拠を評価するかについて、一定の共有理解を持つ専門家集団である。そのため、この集団が国際機関に近い位置を占めると、政策文書に入る科学の見え方も、その集団の問題設定や語彙に沿いやすくなる。
| 概念 | 本稿での役割 | 誤解しやすい点 |
|---|---|---|
| boundary organization | 科学と政策の間で、研究成果を政策判断に使える形へ整理する場を説明する。 | 単に科学を伝える広報組織ではなく、知識の選択、翻訳、調整を行う制度として理解する必要がある。 |
| epistemic community | 国際政策に影響する専門家共同体が、共通の問題認識や因果理解を通じて知識の流れを作ることを説明する。 | 単なる有名研究者の集まりではなく、問題設定、証拠評価、政策語彙を共有する専門家ネットワークとして見る必要がある。 |
| IGO 文書 | 外部科学が国際政策向けに整理され、各国政策や国際合意の参照点になる場所を示す。 | 科学全体をそのまま写したものではなく、選択と翻訳を経た知識の集合として読む必要がある。 |
ここまでを踏まえると、国際機関が科学を使うという表現は、少し言い換える必要がある。国際機関は、科学を単に使うのではない。国際機関は、科学を選び直す。どの論文を引用するか、どの専門家に評価を委ねるか、どの不確実性を明記するか、どの語彙で政策文書に書き込むかを通じて、科学的知識を政策用の知識へ変換する。
この変換は不可欠である。政策は、論文の束をそのまま実行することではないからである。しかし、変換が不可欠であるからこそ、その過程で何が選ばれ、何が周辺化されるのかを見なければならない。科学と政策の接続では、専門家がいるかどうかよりも、専門家の知識がどのように選ばれ、どのような制度的経路を通って政策文書に入るのかが問題になる。次に見るべきなのは、その入口がどれほど狭いのかである。
3. 政策文書への入口は、そもそも狭い
国際機関が科学を選び直すというと、あらゆる重要な研究が広く検討され、その中から公平に代表的な論文が選ばれるように思えるかもしれない。しかし、実際の入口はもっと狭い。政策文書は、科学論文の全目録ではない。政策文書は、特定の課題について判断するために必要な知識を、限られた紙幅、限られた時間、限られた制度的手続きの中で整理する文書である。そのため、科学全体の中から政策文書に直接入る論文は、ごく一部に限られる。
Asatani らの研究は、この入口の狭さを具体的なデータで示している。同研究は、政策文書データベースである Overton と学術文献データベースである Scopus を結合し、2015 年から 2023 年までに IGO 文書で引用された科学論文を分析している。最終的な分析対象は 230,737 本の論文であり、それらは引用ネットワークにもとづいて 23 の研究領域に分類された[6]。230,737 本という数だけを見ると、かなり大きな集合に見える。しかし、科学全体から見ると、IGO 文書に直接引用される論文は例外的な位置にある。
論文が示す重要な出発点は、2015 年以降の Scopus 掲載論文のうち、IGO 文書に直接引用されるものが約 0.71% にすぎないという点である[6]。つまり、科学論文の大部分は、国際機関の政策文書に直接は登場しない。これは、直接引用されない論文に価値がないという意味ではない。基礎研究、地域研究、観測研究、否定的結果、方法論研究、長期的に重要になる研究は、政策文書にすぐ引用されなくても科学的には重要である。ここで問題にしているのは価値ではなく、政策文書への到達である。
この区別を外すと、政策文書に引用された論文だけが重要な科学であるかのように見えてしまう。しかし、引用は科学的価値の完全な測定ではない。政策文書への引用は、ある科学的知識が国際機関の文書作成過程に取り込まれた痕跡である。したがって、それは「どの知識が政策に見える場所へ来たのか」を示す指標にはなるが、「科学全体の中で何が最も重要か」をそのまま示す指標ではない。
| 見方 | 意味 | 注意すべき点 |
|---|---|---|
| 科学的価値 | 研究が新しい知識、正確な観察、妥当な分析、重要な方法を提供していることである。 | 政策文書に直接引用されなくても、科学的価値を持つ研究は多数存在する。 |
| 政策文書への到達 | 研究が国際機関の報告書、評価文書、ガイドラインなどに明示的に引用されることである。 | 政策課題に関係し、説明しやすく、既存の評価枠組みに接続しやすい研究が入りやすい。 |
| 政策への影響 | 研究が政策判断、制度設計、国際合意、資金配分などに影響することである。 | 政策文書に引用されたことは重要な痕跡だが、それだけで政策決定の因果関係を証明するわけではない。 |
この狭さには理由がある。感染症対策、気候変動、開発、AI、環境保全のような課題では、判断を先送りできない場面が多い。政策文書の作成者は、膨大な論文を一つずつ読み直し、すべてを同じ重みで検討することはできない。必要になるのは、政策課題に関係し、科学的に信頼でき、他の研究との関係が整理され、文書の中で説明しやすい研究である。そのため、研究の選択は避けられない。
ここで、前章で見た salience、credibility、legitimacy が再び関係する。政策課題に直接関係する研究は salience が高い。専門家や既存の評価で信頼されている研究は credibility が高い。しかし、政策文書に入りやすい研究だけが繰り返し参照されると、どの地域、どの分野、どの方法、どの専門家の知識が入りにくいのかという legitimacy の問題が生じる。入口が狭いということは、単に数が少ないということではない。入口に構造があるということである。
| 段階 | 何が起きるか | 見落としやすい点 |
|---|---|---|
| 研究生産 | 世界中で多数の科学論文が発表される。 | 科学的価値は多様だが、政策文書に直接入るとは限らない。 |
| 専門的整理 | 研究者共同体の中で、論文が引用され、比較され、評価され、分野内で位置づけられる。 | この段階で、既に見えやすい研究と見えにくい研究の差が生じる。 |
| 文献選択 | 国際機関や専門家委員会が、政策文書に参照する論文を選ぶ。 | 政策に関係し、説明しやすく、既存の評価枠組みに接続しやすい知識が入りやすい。 |
| 政策文書化 | 選ばれた科学が、報告書、評価文書、ガイドライン、政策提言に組み込まれる。 | 引用された科学は、政策的な重みを持つ知識として再配置される。 |
| 政策への再利用 | 国際機関文書が、各国政策、国際合意、制度設計、資金配分の参照点になる。 | 一度政策文書に入った科学は、後続の政策文書や別の国際機関に再び参照されやすくなる。 |
この過程で重要なのは、政策文書への入口が一回限りの選択ではないことである。ある論文が国際機関の文書に引用されると、その論文は後続の文書から見つけやすくなる。ある分野の評価報告に入った論文は、別の報告書や別の機関の文書でも参照されやすくなる。つまり、入口は単に狭いだけではなく、過去に入口を通った知識が、次の入口を通りやすくする性質を持つ。
もちろん、これはただちに悪いことではない。政策文書は、信頼できる既存研究を積み重ねる必要がある。すでに評価された研究、既に国際的な報告書に組み込まれた研究を参照することは、文書の一貫性を保ち、判断を速くする。しかし、その仕組みは同時に、政策文書に見える科学を特定の経路へ集中させる。新しい研究、地域的研究、標準的な政策語彙に乗りにくい研究は、入口の近くに来るまでに時間がかかる。
したがって、最初の論点は単純だが重い。政策に科学が使われているかどうかだけでは足りない。政策文書に届く科学は、そもそも狭い入口を通っている。この入口の構造を見なければ、科学に基づく政策が何に基づいているのかを理解できない。そして、入口が狭いなら、次に問うべきなのは、その入口を通る論文が、どの研究者にどれだけ集中しているのかである。
4. その狭い入口は、さらに少数の研究者に集中している
政策文書への入口が狭いだけなら、まだ「国際機関は限られた論文だけを選んでいる」という話にとどまる。しかし Asatani らの研究が示した重要な点は、その狭い入口を通る論文が、著者単位でも強く偏っていることである。つまり、IGO 文書に引用される科学は、単に一部の論文に限られるだけではない。その一部の論文が、さらに一部の研究者群に集中している。
論文では、この少数の研究者群を HIC-Sci と呼んでいる。HIC-Sci とは Highly IGO-Cited Scientists の略であり、直訳すれば「IGO に高度に引用される科学者」である。ただし、これは単なる有名研究者ランキングではない。Asatani らは、各研究領域において、IGO 引用論文の 30% を占める最小の上位研究者群を HIC-Sci と定義している。つまり、何人の研究者を上から数えれば、その分野の IGO 引用論文の 30% に到達するかを見る指標である。
この定義が重要なのは、研究者の絶対数ではなく、集中の強さを測れるからである。ある分野で、著者の 10% が IGO 引用論文の 30% を占めているなら、集中は比較的弱い。反対に、著者の 1% 未満で 30% に到達するなら、政策文書に届く科学がごく少数の研究者群に強く集まっていることになる。HIC-Sci は、政策文書に引用される科学の入口が、著者レベルでどれほど狭いかを示す指標である。
| 概念 | 意味 | 本稿での役割 |
|---|---|---|
| IGO 引用論文 | 国際機関の政策文書、評価報告、ガイドラインなどに引用された科学論文である。 | 科学が政策文書に明示的に取り込まれた痕跡として扱う。 |
| HIC-Sci | 各分野で IGO 引用論文の 30% を占める最小の上位研究者群である。 | 政策文書に届く科学が、どの程度少数の研究者に集中しているかを測る。 |
| 集中度 | 少ない研究者数で多くの IGO 引用論文を占める度合いである。 | 政策文書に入る科学が広く分散しているのか、特定の専門家群に集まっているのかを示す。 |
結果は明確である。各分野で、0.7% から 4.4% 程度の研究者が、IGO 引用論文の 30% を占めていた。これはかなり強い集中である。たとえば 100 人の研究者が関わる分野で考えると、1 人から 4 人程度の研究者群が、その分野で IGO に引用される論文の 30% を占めるような構造である。実際の研究領域はもっと大きいが、比率として見ると、政策文書に届く科学がごく少数の研究者群へ集まっていることが分かる。
分野による違いも大きい。気候モデルでは、0.83% の研究者、人数にして 300 人が、その分野の IGO 引用論文の 30% を占めていた。一方で、データサイエンス・AI では 4.4%、循環経済では 4.0% であり、気候モデルほど極端には集中していない。これは、どの分野でも集中は見られるが、成熟した分野ほど集中が強く、新しい分野ほど分散している可能性を示している。
| 分野 | HIC-Sci の比率 | 読み取れること |
|---|---|---|
| 気候モデル | 0.83% の研究者が IGO 引用論文の 30% を占める。 | 政策文書に届く科学が、きわめて少数の研究者群に強く集中している。 |
| データサイエンス・AI | 4.4% の研究者が IGO 引用論文の 30% を占める。 | 集中はあるが、気候モデルよりも分散しており、知識体系がまだ流動的であることを示す。 |
| 循環経済 | 4.0% の研究者が IGO 引用論文の 30% を占める。 | 政策課題として注目されつつあるが、支配的な専門家ネットワークは比較的固定化していない。 |
この結果は、「政策文書には良い論文が引用される」という単純な理解だけでは説明しきれない。もちろん、HIC-Sci の研究者は、その分野で重要な研究をしている可能性が高い。国際機関が信頼できる研究を引用しようとすれば、実績のある研究者の論文が多くなるのは自然である。しかし、それだけではなく、政策文書に届く科学には、研究者の過去の信用、共著関係、国際的な評価、既存の評価報告との接続が関わっている可能性がある。
この現象は、科学界で古くから論じられてきた Matthew effect と接続する。Matthew effect とは、すでに評価されている研究者がさらに信用、引用、機会を得やすくなる累積優位のことである[14]。たとえば、ある研究者が重要な論文を書き、多くの研究者に知られるようになる。その研究者は共同研究に誘われやすくなり、研究費を得やすくなり、次の論文も読まれやすくなる。その結果、最初の評価が次の評価を呼び込み、科学的注目がさらに集中する。
近年の大規模分析でも、上位 1% の被引用科学者が得る引用シェアは上昇しており、科学界全体で引用集中が強まっていることが示されている[15]。また、研究生産性と高被引用論文の関係、共著ネットワークの成長、中心性を通じた優先的接続も、科学的注目が平等には分配されないことを示している[16][17][18]。
Asatani らの研究が重要なのは、この累積優位が学術界の内部だけでなく、国際機関の政策文書への知識流入にも現れていることを示した点である。学術論文の世界では、よく引用される研究者にさらに引用が集まる。IGO 文書の世界でも、過去に国際機関の文書に取り込まれた研究者の論文は、次の国際機関文書にも入りやすくなる。このとき、信用は論文だけでなく、著者にも付着する。
| 現象 | 通常の科学界 | IGO 文書での対応 |
|---|---|---|
| 引用集中 | よく引用される研究者にさらに引用が集まる。 | 過去に IGO に引用された研究者の論文が、次の IGO 文書にも入りやすくなる。 |
| 共著集中 | 中心的研究者同士が共同研究し、ネットワークの中核を作る。 | HIC-Sci 同士が密に共著し、政策文書への入口を共有する。 |
| 信用の累積 | 既存の評価が次の評価を呼び込む。 | 著者の過去の IGO 引用実績が、新しい論文の政策文書への到達可能性を高める。 |
| 制度的可視性 | 有力な研究者や機関の研究は、学術界の中で見つけられやすい。 | 国際機関に近い研究者や既存の報告書に入った研究は、政策文書作成者から見つけられやすい。 |
ここで注意すべきなのは、集中がただちに不正を意味するわけではないことである。よく引用される研究者は、その分野で重要な研究をしている可能性が高い。気候モデルのように、長い時間をかけて共通モデル、共通シナリオ、共通評価手法が作られてきた分野では、中心的研究者に知識が集まることには機能的な意味がある。複雑な知識を統合し、政策担当者が使える形に整理するには、一定の専門家ハブが必要になる。
しかし、集中が機能的であることと、集中を検証しなくてよいことは別である。少数の研究者に政策文書への入口が集まるなら、その少数者がどのように選ばれたのか、どのネットワークを通じて国際機関に接続しているのか、どの地域や方法論が入りにくくなっているのかを確認しなければならない。問題は、少数者に集中していること自体ではなく、その集中がどのような仕組みで生じ、どの程度見えるようになっているかである。
この章で固定すべきことは、政策文書に届く科学の入口が二重に狭いという点である。第一に、科学論文全体のうち、IGO 文書に直接引用される論文はごく一部である。第二に、そのごく一部の論文も、著者単位で見ると少数の HIC-Sci に集中している。ただし、この集中を読む前に、政策文書への引用が何を示し、何を示さないのかを確認しておく必要がある。
5. 政策文書引用は、政策決定そのものではない
ここまで、政策文書への入口が狭いこと、その入口が少数の研究者に集中していることを見てきた。しかし、この種の研究を読むときには、もう一つ重要な注意が必要である。政策文書に引用された論文は、政策文書の中で参照された科学である。だが、それだけで、その論文が政策決定を直接動かしたとは言えない。引用は、知識が政策文書に取り込まれた痕跡であって、政策決定の全因果過程ではない。
たとえば、ある感染症対策の文書に疫学論文が引用されていたとする。その論文は、感染状況の理解、リスク評価、対策の背景説明に使われたかもしれない。しかし、実際の政策決定には、医療体制、財政、政治判断、社会的受容、国際関係、実施可能性も関わる。気候変動政策でも同じである。気候モデルや影響評価の論文が引用されていても、具体的な削減目標や規制内容は、科学だけでなく、経済、産業、外交、国内政治の条件の中で決まる。
したがって、政策文書引用を読むときには、「引用された」という事実を過大評価してはならない。政策文書に引用された論文は、その文書が明示的に参照した知識である。しかし、政策がその論文によって単独で決まったという意味ではない。引用データから見えるのは、政策形成のすべてではなく、政策文書がどの科学を根拠、背景、説明材料として表に出したのかである。
今回の研究で用いられた Overton は、政策文書と学術文献引用を大規模に扱う有力なデータベースである。Overton の特性を分析した研究は、健康、経済、社会福祉、環境などの領域では、政策文書と学術文献の引用リンクを使った研究評価や政策分析が一定程度可能だと整理している[19]。一方で、政策文書に言及される科学論文は全体から見ると少なく、初期の Altmetric データを用いた研究では、政策関連文書に一度以上言及される論文は各分野で 0.5% 未満だと報告されている[20]。
Overton を用いた別の大規模研究では、2010 年から 2019 年までの Web of Science 掲載論文 1,800 万本以上を分析し、政策文書に一度以上引用された論文が 3.9% であること、レビュー論文や社会科学・人文学、生命・地球科学、生物医学・健康科学が政策文書引用されやすいことが示されている[21]。また、政策文書の言及を内容分析した研究は、政策文書引用には政策主張を支えるための参照、背景説明、証拠提示など複数の動機があることを示している[22]。さらに、Overton に収録された政策文書そのものにも、国、言語、文書種別、主題領域によるカバレッジ差がある[23]。政策文書引用を左右する要因については、学術的引用、ジャーナル影響度、Mendeley 読者数などが関係するという研究もある[24]。
| 対象 | 見えること | 見えないこと |
|---|---|---|
| 政策文書引用 | 政策文書が、ある論文を根拠、背景、関連知識、説明材料として明示的に参照したことが分かる。 | その論文が政策決定を単独で引き起こしたかどうかは分からない。 |
| 引用頻度 | どの論文や研究者が、政策文書の中で繰り返し参照されているかが分かる。 | 引用された研究の質、政策上の重み、意思決定への実質的影響をそのまま測れるわけではない。 |
| データベース | 多数の政策文書と学術論文の接続を、大規模に分析できる。 | 収録されていない文書、非英語文書、非公開資料、会議での議論、政治交渉は十分に見えない。 |
この限定は、本稿の議論を弱めるものではない。むしろ、議論の射程を安定させるために必要である。政策文書引用から、政策決定のすべてを説明することはできない。しかし、政策文書にどの科学が明示的に入ったのかは分かる。どの論文が引用され、どの研究者の論文が繰り返し登場し、どの分野や地域の知識が見えやすくなっているのかは分析できる。
言い換えると、引用データは政策決定の因果分析ではなく、知識選択の痕跡分析である。政策がなぜ最終的にその形になったのかをすべて説明するものではないが、政策文書がどの科学を表に出したのかを示す。これは、科学と政策の関係を考えるうえで重要な情報である。政策は多くの場合、非公開の会議、政治的調整、利害関係、行政判断を含む複雑な過程で作られる。その全体を引用だけで復元することはできない。しかし、政策文書に明示された科学的根拠は、少なくとも公開された知識選択の跡として読むことができる。
| 観点 | 言えること | 言えないこと |
|---|---|---|
| 政策文書での参照 | 政策文書がその論文を根拠、背景、関連知識として参照したこと。 | その論文が政策決定を単独で引き起こしたこと。 |
| 引用分布の偏り | 政策文書に入る科学が、論文や著者の単位で偏っていること。 | 引用された研究者が不当に優遇されたこと。 |
| 科学の経路の可視化 | 国際機関が参照する科学の経路を部分的に可視化できること。 | 政策形成の非公開過程や政治交渉をすべて説明できること。 |
| 政策文書上の可視性 | どの科学が政策文書上で見える知識になったのかを分析できること。 | 政策担当者が実際にどの論文をどの程度重視したのかを完全に再現できること。 |
この区別を置くことで、本稿の論点は明確になる。本稿は、国際機関が政策をどう決めたかの全体を説明するものではない。また、引用された研究者が政策を支配していると主張するものでもない。より限定して、国際機関の文書にどの科学が入ったのか、その科学がどの研究者ネットワークに集中していたのか、その集中がどのような知識選択の構造を示しているのかを問う。
政策文書引用は、政策決定そのものではない。しかし、政策文書に明示された科学の入口を示す。だからこそ、引用を因果証拠として過大評価せず、同時に、知識選択の痕跡として軽視もしないことが必要である。この限定を踏まえると、次に見るべきなのは、政策文書に入る科学の集中が、分野の成熟度によってどのように変わるのかである。
6. 成熟した分野では集中し、新しい分野では分散する
HIC-Sci への集中は、すべての分野で同じ強さではない。Asatani らの研究では、気候モデル、海洋保全、環境保全、タバコ規制、動物疾病のような分野では、IGO 文書に引用される論文が少数の研究者に強く集中していた。一方で、データサイエンス・AI、循環経済、COVID-19 のような新しい、あるいは急速に拡大した分野では、引用される研究者の分布が比較的広かった[6]。この差は、単に分野ごとの研究者数や論文数が違うという話ではない。政策文書に届く科学が、どれだけ標準化され、どれだけ制度化され、どれだけ共通の専門家ネットワークに支えられているかの違いである。
成熟した分野では、研究者が共有する前提が増える。どのデータを使うのか。どのモデルを比較するのか。どの指標を重視するのか。どの不確実性をどう扱うのか。どの語彙で結果を表現するのか。こうした共通基盤が整うと、研究成果は互いに比較しやすくなり、評価報告にも組み込みやすくなる。国際機関から見れば、その分野の研究は政策文書に翻訳しやすい知識になる。
気候科学は、この構造を理解するための分かりやすい例である。気候変動は、個々の観測結果や個別地域の影響評価だけで判断できる問題ではない。過去の気候変化、現在の観測、将来予測、排出シナリオ、影響評価、適応策、緩和策を統合しなければならない。そのため、個別の研究成果を束ねる国際的な評価制度が必要になる。ここで IPCC は、気候科学を政策向けに統合する代表的な制度として機能してきた。
ただし、IPCC があるということは、気候科学が単純に中立的な一枚岩として政策に届くという意味ではない。IPCC の著者ネットワークにも、地域差や制度的経路の偏りがあることは、先行研究で示されている[25]。一方で IPCC は、報告書の準備、レビュー、承認、公表に関する手続きを明文化している[26]。つまり、気候科学では、知識の集中と手続きの制度化が同時に進んでいる。専門家ネットワークは強く集中するが、その集中を管理するための形式的手続きも整えられている。
気候モデル分野では、CMIP6 のような共通基盤も重要である。CMIP6 は、過去、現在、将来の気候変化を理解するために、複数の気候モデルを比較する国際的な枠組みであり、IPCC や各国評価の参照点になっている[27]。このような共通基盤があると、個別のモデル研究はばらばらの知識ではなく、同じ比較枠組みの中に置かれる。政策文書の側から見ると、研究結果を比較し、要約し、将来シナリオへ接続しやすくなる。
| 要素 | 成熟分野で整うもの | 政策文書への影響 |
|---|---|---|
| 共通モデル | 複数の研究が同じ、または比較可能なモデル枠組みで結果を出す。 | 研究間の比較がしやすくなり、評価報告へ統合しやすくなる。 |
| 共通データ | 観測データ、シナリオ、分類、指標が分野内で共有される。 | 政策文書が、複数研究を同じ土台の上で説明しやすくなる。 |
| 共通語彙 | 専門家の間で、問題、方法、結果、不確実性を表す用語が標準化される。 | 国際機関が、科学的知識を政策担当者向けの文書に翻訳しやすくなる。 |
| 評価制度 | IPCC のように、専門家が研究を評価し、報告書へ統合する制度が整う。 | どの研究が中心的知識として扱われるかの経路が固定化しやすくなる。 |
このような分野では、政策文書に使いやすい科学が生まれやすい。共通モデルがあり、共通シナリオがあり、共通の語彙があり、既に評価報告の形式があるからである。Asatani らの研究でも、気候モデル分野の HIC-Sci 論文には、CMIP6 simulation や SSP scenarios のような政策文書と接続しやすい語彙が目立つとされる[6]。これらの語彙は、単なる専門用語ではない。将来予測、排出経路、影響評価、政策選択を一つの枠組みでつなぐための語彙である。
一方で、非 HIC-Sci 論文には、観測、地域、経験的記述に近い語彙が相対的に多いとされる[6]。この違いは、HIC-Sci 側が重要で、非 HIC-Sci 側が重要でないという意味ではない。むしろ、役割の違いを示している。観測研究や地域研究は、現実の変化を具体的に捉えるために不可欠である。しかし、政策文書に入るときには、それらの知識が共通モデルやシナリオの語彙に翻訳されることが多い。そこで、政策向けの標準化された語彙を持つ研究者群が、国際機関の文書で見えやすくなる。
| 知識の型 | 特徴 | 政策文書での見え方 |
|---|---|---|
| 標準化されたモデル知 | 共通モデル、共通シナリオ、国際比較可能な指標に接続している。 | 国際機関が複数研究を統合し、政策判断に接続しやすい。 |
| 観測的・地域的知 | 特定地域、特定現象、具体的な環境変化や社会的影響を詳しく捉える。 | 重要であっても、標準化された評価枠組みに入るまで見えにくくなる場合がある。 |
| 方法論的知 | 測定方法、分析方法、モデル評価、データ処理の改善に関わる。 | 政策文書の表面には出にくいが、標準化された知識を支える基盤になる。 |
ここで注意すべきなのは、成熟した分野で集中が強くなることには、機能的な理由があるという点である。国際機関は、政策担当者に向けて、複雑な科学を比較可能で理解可能な形にしなければならない。気候変動のように、空間的にも時間的にも大きな問題では、地域ごとの観測結果をただ並べるだけでは政策判断に使いにくい。共通のモデル、共通のシナリオ、共通の評価語彙があるからこそ、国際的な報告書は作りやすくなる。
しかし、この使いやすさは同時に、経路の固定化を生む。共通モデルに乗る研究は比較されやすい。共通シナリオを使う研究は評価報告に入りやすい。既に IPCC などの評価制度に接続した研究者は、次の報告書でも見つけられやすい。その結果、成熟した分野では、政策文書に届く知識が特定の専門家ネットワークに集中しやすくなる。標準化は、知識の流通を速くするが、流通する経路も狭める。
これに対して、新興分野では状況が違う。データサイエンス・AI、循環経済、COVID-19 のような分野では、問題設定、評価軸、標準語彙、中心的な国際機関、専門家ネットワークがまだ安定していない。研究量は急速に増えていても、どのモデル、どの指標、どの専門家共同体が標準になるのかは決まりきっていない。そのため、政策文書に引用される論文や研究者は比較的分散しやすい。
| 分野の状態 | 特徴 | 政策文書への入り方 |
|---|---|---|
| 成熟分野 | 共通モデル、共通語彙、評価制度、専門家ネットワークが整っている。 | 政策文書に入りやすい知識経路が固定化し、少数の専門家に集中しやすい。 |
| 新興分野 | 問題設定、評価軸、標準語彙、中心機関がまだ流動的である。 | 引用は分散しやすく、どの知識が標準になるかがまだ決まっていない。 |
| 急拡大分野 | 社会的要請が急速に高まり、研究量と政策需要が同時に増える。 | 短期的には多様な知識が入るが、後から標準化と集中が進む可能性がある。 |
COVID-19 のような急拡大分野では、この構造が特に分かりやすい。感染拡大の初期には、ウイルス学、疫学、臨床医学、公衆衛生、行動科学、経済学など、多様な知識が短期間に政策需要へ接続された。この段階では、どの研究者ネットワークが標準になるかはまだ固定されていない。しかし、時間が経つにつれて、評価手順、データ基盤、専門家委員会、国際機関の参照文献が整い、後から集中が進む可能性がある。新興分野は、常に分散したままなのではなく、制度化が進むにつれて成熟分野に近づく。
ここから一般化できることは、成熟した科学ほど政策に使いやすくなるが、使いやすくなるほど、政策に届く経路が固定化しやすいということである。これは矛盾ではない。標準化は政策利用を助ける。しかし、標準化は同時に、どの知識が中心になり、どの知識が周辺に置かれるかを決める。問題は、成熟や標準化を否定することではない。政策に使いやすい知識がどのように作られ、その過程でどの知識が見えにくくなるのかを確認することである。
したがって、分野ごとの集中差は、単なる統計的な違いではない。成熟した分野では、共通基盤があるからこそ、少数の専門家ネットワークに知識が集まりやすい。新しい分野では、標準がまだ定まっていないからこそ、引用は分散しやすい。この違いを踏まえると、次に問うべきなのは、集中が政策助言にとって何を可能にし、何を見えにくくするのかである。
7. 集中は悪ではなく、政策助言を効率化する
少数の研究者に引用が集中していると聞くと、すぐに閉鎖性や偏りを疑いたくなる。もちろん、その疑いには理由がある。政策文書に入る科学が少数の研究者に強く集まるなら、誰の知識が採用され、誰の知識が見えにくくなっているのかを確認しなければならない。しかし、ここで急いで結論を出してはならない。集中は、それ自体として直ちに悪ではない。複雑な科学を政策に接続するには、むしろ一定の集中が必要になる。
政策担当者は、科学論文の全体を直接扱うことができない。気候変動、感染症、環境保全、AI、安全保障、開発のような問題では、関係する研究分野が広く、論文数も膨大である。政策判断に必要なのは、個々の論文を単独で読むことではなく、多数の研究を比較し、対立する結果を整理し、どの知見がどの程度確かで、どの知見に不確実性が残るのかを把握することである。この作業を担うには、専門家ネットワークが必要になる。
たとえば気候変動を考える。気候変動の政策判断には、観測データ、気候モデル、排出シナリオ、影響評価、適応策、緩和策、経済モデル、社会制度が関わる。政策担当者が全論文を直接読み、全モデルを比較し、全シナリオを自分で統合することはできない。そのため、専門家ネットワークが研究を整理し、評価し、政策文書で使える形にまとめる必要がある。ここで重要なのは、専門家が政策を勝手に決めるということではない。専門家は、政策判断の前段階で、科学的知識を比較可能で説明可能な形へ整える。
この意味で、HIC-Sci は単なる有名研究者ではない。国際的な共同研究、標準化された方法、評価報告への参加、複数 IGO への知識流通を通じて、科学を政策向けに翻訳するハブとして機能する。Asatani らの研究でも、HIC-Sci 論文は非 HIC-Sci 論文よりも多くの IGO に引用され、複数の国際機関を横断して共有される知識源になっていることが示されている[6]。これは、HIC-Sci が単一の政策文書に登場するだけではなく、国際機関間で科学知識が同期的に広がるときの結節点になっていることを意味する。
| 機能 | 専門家ネットワークが担うこと | 政策文書への効果 |
|---|---|---|
| 選別 | 膨大な研究の中から、政策課題に関係し、科学的に信頼できる研究を見つける。 | 政策文書が参照すべき科学的根拠を絞り込みやすくなる。 |
| 比較 | 異なる研究結果、異なるモデル、異なるデータを同じ枠組みの中で比べる。 | 個別研究のばらつきを整理し、政策判断に使える形へ近づけられる。 |
| 統合 | 複数分野の知見を組み合わせ、全体像として説明できる形にまとめる。 | 政策担当者が、個別論文ではなく整理された知識体系を参照できる。 |
| 翻訳 | 専門的な研究成果を、報告書、評価文書、ガイドラインで使える語彙に置き換える。 | 科学的知識が、政策文書の中で理解可能で利用可能な形になる。 |
ここでいう翻訳は、単に難しい言葉を分かりやすく言い換えることではない。科学論文は、多くの場合、特定の実験、データ、モデル、地域、期間について述べている。一方、政策文書は、社会全体の判断、国際的な合意、制度設計、資金配分、規制の根拠として使われる。そのため、個別研究をそのまま置くだけでは足りない。研究成果を、他の研究との関係、不確実性の幅、政策上の意味、実行可能性と接続し直す必要がある。
集中が効率化をもたらすのは、この接続作業に時間と制度的制約があるからである。緊急性の高い課題では、すべての研究をゼロから評価している余裕はない。既に信頼されている専門家、既に国際評価に参加している研究者、既に複数の IGO 文書で参照されている研究は、次の政策文書でも参照しやすい。これは一種の近道である。近道である以上、偏りを生む危険はある。しかし、近道がなければ、政策助言そのものが遅くなりすぎる。
| 集中の機能 | 利点 | 同時に生じる注意点 |
|---|---|---|
| 統合 | 膨大な研究を比較可能な形にまとめられる。 | 統合枠組みに合わない研究が見えにくくなる。 |
| 速度 | 緊急の政策課題に対して、信頼できる知識を素早く参照できる。 | 新しい異論や周辺的知識が取り込まれる前に方針が固まりやすい。 |
| 標準化 | 国や機関をまたいで同じ指標やシナリオを使いやすくなる。 | 標準を作った研究者や機関に知識の権威が集まりやすい。 |
| 継続性 | 過去の評価報告や既存の国際合意と接続しやすくなる。 | 新しい問題設定や異なる方法論が、既存の枠組みに合わせて読まれやすくなる。 |
気候モデル分野では、この利点が分かりやすい。共通モデル、共通シナリオ、共通の評価手順があることで、国際機関は研究を比較しやすくなる。IPCC のような評価制度は、ばらばらの論文を政策担当者が直接読む代わりに、研究成果を整理された知識体系として提示する。これは、政策助言にとって重要な機能である。科学があまりに複雑な場合、何をどのように比較すればよいのかを整理する専門家ハブがなければ、政策文書は作りにくい。
同じことは、感染症対策や AI ガバナンスにも当てはまる。感染症では、短時間で流行状況、医療体制、ワクチン、治療、行動制限、社会的影響を評価しなければならない。AI では、安全性、透明性、公平性、労働、著作権、監視、軍事利用など、多数の論点が同時に現れる。このような状況では、完全に分散した知識だけでは政策文書を作れない。どこかで知識をまとめ、優先順位をつけ、共通の語彙に変換する必要がある。
したがって、集中を見つけたときに、最初に問うべきなのは「悪い集中かどうか」ではない。まず問うべきなのは、その集中が何を可能にしているのかである。膨大な研究を整理しているのか。政策文書の作成を速くしているのか。国際機関間で共通の基準を作っているのか。複数の分野の知識をつないでいるのか。集中には、このような機能的側面がある。
しかし、機能があることは、問題がないことを意味しない。むしろ、機能があるからこそ、集中は強くなりやすい。政策文書にとって使いやすい知識は、次の政策文書でも使いやすい。既に国際的に評価された研究者は、次の評価過程でも見つけられやすい。標準化された語彙は、別の文書でも再利用されやすい。このように、集中は政策助言を効率化する一方で、自己強化しやすい。
専門家ネットワークは、科学と政策の接続に不可欠である。政策担当者がすべての科学を直接扱えない以上、科学を整理し、比較し、翻訳する専門家ハブは必要になる。問題は、専門家がいることではない。問題は、その専門家ネットワークがどのように形成され、どの知識を統合し、どの知識を周辺に置き、その結果がどの程度見えるようになっているかである。
この章で固定すべきことは、集中をただちに悪と見なしてはならないという点である。集中は、政策助言を成立させるための条件でもある。だが同時に、集中は、知識の入口を固定化し、特定の専門家ネットワークに権威を集める。したがって次に問うべきなのは、集中が効率を生むとしても、それがどのような正統性の問題を生むのかである。
8. しかし集中は、正統性の問題を生む
集中には機能がある。少数の専門家ネットワークに知識が集まることで、膨大な研究を短時間で整理し、国際機関の文書へ組み込みやすくなる。しかし、機能があることは、問題がないことを意味しない。政策文書への入口が少数の研究者や機関に集中すると、次に問われるのは、誰の知識が世界標準の科学的根拠として扱われるのかという問題である。これは科学的信頼性だけでは片づかない。知識選択の正統性の問題である。
ここでいう正統性とは、ある知識が科学的に正しいかどうかだけではなく、その知識がどのような過程で選ばれたのかが、公正で納得できるものとして受け止められるかを指す。ある政策文書が、信頼できる論文を引用していたとしても、その論文が特定地域、特定機関、特定分野、特定の専門家ネットワークに強く偏っているなら、別の問いが生じる。なぜその知識が選ばれたのか。なぜ別の地域や方法論の知識は入りにくかったのか。誰がその選択過程を確認できるのか。
Asatani らの研究では、HIC-Sci の論文は国際共著率が高い[6]。これは一見、国際的で開かれた知識生産に見える。実際、国際共著が多いことは、閉じた国内研究よりも広いネットワークを持つことを示す。しかし、国際共著が多いことと、知識の中心が地理的に均衡していることは同じではない。同研究では、HIC-Sci の国際共著ネットワークが均等に広がっているのではなく、西欧を中心とする core–periphery 構造を持つことが示されている[6]。
core–periphery 構造とは、中心と周辺が分かれるネットワーク構造である。中心には、多くの接続を持ち、他の地域や機関から参照されやすい研究者や機関が集まる。周辺には、中心とつながってはいるが、知識の流れを主導しにくい研究者や機関が置かれる。したがって、多国籍の共著であっても、知識の中心が特定地域、特定機関、特定言語、特定の評価制度に偏ることはありうる。
| 状態 | 表面上の見え方 | 実際に確認すべき点 |
|---|---|---|
| 国際共著が多い | 複数国の研究者が参加しているため、国際的で開かれているように見える。 | どの国や機関が中心にあり、どの国や機関が周辺に置かれているのかを確認する必要がある。 |
| 有力機関が多く引用される | 信頼できる研究機関の成果が使われているように見える。 | 既に評価された機関の知識が、次の政策文書でも繰り返し選ばれやすくなっていないかを見る必要がある。 |
| 標準化された語彙が使われる | 政策文書で比較しやすく、説明しやすい知識に見える。 | 標準語彙に乗りにくい観測的、地域的、質的、異分野的な知識が周辺化されていないかを見る必要がある。 |
この問題は、単純な地域差だけではない。政策文書に入りやすい知識には、形式の偏りもある。共通モデル、共通指標、共通シナリオ、標準化された用語は、国際機関が科学を比較し、報告書へ組み込むために役立つ。しかし、それらに合わない知識は見えにくくなる。特定地域での観察、現場に近い経験的知見、質的研究、先住民・地域知、制度や文化に埋め込まれた知識は、科学的に重要であっても、国際機関の標準的な文書形式に入りにくい場合がある。
したがって、正統性の問題は、科学と非科学の対立ではない。科学的に信頼できる知識の中にも、政策文書に入りやすい知識と入りにくい知識がある。モデル化しやすい知識、比較しやすい知識、数値化しやすい知識、国際的な評価制度に接続しやすい知識は入りやすい。反対に、地域差を細かく記述する知識、社会的文脈に依存する知識、標準指標に変換しにくい知識は入りにくい。この差が積み重なると、政策文書が参照する科学の輪郭そのものが変わる。
| 問題 | 表面上の説明 | 背後にある論点 |
|---|---|---|
| 地域偏り | 国際共著が多いので国際的に見える。 | ネットワークの中心が西欧や一部機関に偏る可能性がある。 |
| 方法論偏り | 標準化されたモデルや指標は政策に使いやすい。 | 観測的、地域的、質的、異分野的な知識が周辺化される可能性がある。 |
| 制度偏り | 既存の専門家委員会は信頼できる。 | 一度中心化したネットワークが次の知識選択にも影響し続ける可能性がある。 |
| 言語偏り | 国際機関では英語文書が多く、共通語で議論しやすい。 | 英語で流通しにくい知識や、地域語で蓄積された知見が見えにくくなる可能性がある。 |
国際機関も、この問題を放置してきたわけではない。WHO は専門家の利害関係申告を制度化し、専門家が助言活動に関与する際の利益相反を管理しようとしている[28]。IPBES も、先住民・地域知を認識し、扱うための手続きを明示している[29]。これらは、国際機関が専門家に依存しながらも、その依存が不透明なものにならないように管理しようとしてきた例である。
ただし、ここで注意すべきなのは、入力と過程の透明性だけでは十分ではないということである。専門家がどのように選ばれたのか。利益相反がどう申告されたのか。異なる知識体系をどう扱う方針なのか。これらは重要である。しかし、それだけでは、最終的に誰の論文が、どれだけ政策文書に入り、どの研究者ネットワークが繰り返し参照されたのかまでは分からない。必要になるのは、入力の透明性だけでなく、結果の透明性である。
| 透明性の種類 | 何を明らかにするか | 残る課題 |
|---|---|---|
| 入力の透明性 | 誰が専門家として参加したのか、どのような利害関係を持つのか、どの知識体系を扱う方針なのかを明らかにする。 | 最終的にどの論文や研究者の知識が多く採用されたのかは、それだけでは分からない。 |
| 過程の透明性 | レビュー、承認、合意形成、利益相反管理、異論の処理がどのように行われたのかを明らかにする。 | 手続きが整っていても、引用結果としての集中がどれほど残ったのかは別に確認する必要がある。 |
| 結果の透明性 | 誰の論文が、どの程度、どの国際機関文書に入り、どの研究者ネットワークが繰り返し参照されたのかを明らかにする。 | 単なる引用数ではなく、政策文書の文脈や知識選択の意味と結びつけて解釈する必要がある。 |
ここで生じるのは、credibility と legitimacy の緊張である。狭い専門家コミュニティに依存すれば、信頼性と効率は高まりやすい。実績ある研究者、よく引用される論文、標準化されたモデル、既存の評価制度は、国際機関が科学を政策文書へ取り込むうえで有用である。しかし、知識選択の公正性、地域的代表性、方法論的多様性は弱くなる可能性がある。科学的に信頼できることと、社会的に正統な知識選択であることは同じではない。
この点を誤ると、議論は二つの極端に分かれてしまう。一方では、専門家が集中的に引用されているのだから不正だと短絡する見方がある。もう一方では、信頼できる専門家が引用されているのだから問題はないと片づける見方がある。どちらも不十分である。必要なのは、集中を否定することでも、無条件に肯定することでもない。集中がどの機能を果たし、どの偏りを生み、どの程度検証可能なのかを見ることである。
したがって、この章で固定すべきことは、集中が正統性の問いを避けられないという点である。政策助言には専門家ネットワークが必要である。しかし、そのネットワークが政策文書への入口を握るなら、誰の知識が中心化され、誰の知識が周辺化されるのかを確認しなければならない。問題は、専門家がいることではない。問題は、専門家ネットワークを通じた知識選択の結果が、どれだけ見えるようになっているかである。
9. 問題は専門家の存在ではなく、知識選択の見えにくさである
ここまで見てきたことから、専門家を減らせばよいという結論は出ない。むしろ結論は逆である。気候変動、感染症、AI、医療技術、生殖技術、環境保全のような問題では、専門知なしに政策判断を行うことは危うい。科学的知識が高度化し、分野が細分化し、社会的影響が大きくなるほど、政策は専門家の助言に依存せざるを得ない。したがって問題は、専門家がいること自体ではない。
問題は、専門家を通じてどの知識が選ばれているのかが見えにくいことである。どの論文が政策文書に入ったのか。どの研究者が繰り返し引用されたのか。どの共著ネットワークが政策文書への入口になったのか。どの IGO が先に引用し、どの IGO が後から同じ知識を参照したのか。どの地域、どの方法論、どの語彙が中心になり、どの知識が周辺に置かれたのか。これらが見えなければ、専門家への依存が妥当な知識統合なのか、制度的な固定化なのかを判断しにくい。
たとえば、ある国際機関の報告書に、同じ研究者群の論文が何度も登場していたとする。この事実だけでは、その研究者群が不当に優遇されているとは言えない。その研究者群が、本当にその分野の中心的な知識を作っている可能性があるからである。反対に、その研究者群が引用されているから問題はないとも言えない。既存の委員会、共著関係、国際評価制度、過去の報告書との接続によって、同じ研究者群が繰り返し見つけられやすくなっている可能性もあるからである。
Asatani らの研究も、HIC-Sci の高い引用率が専門性によるものか、制度的アクセスによるものか、あるいは両方なのかを完全には分離できないと述べている[6]。これは重要な限界である。HIC-Sci が引用されるのは、本当にその分野で中心的な専門家だからかもしれない。あるいは、国際機関の評価過程に近い位置にいるためかもしれない。おそらく、多くの場合は両方である。だからこそ、結果としての引用集中を可視化することが重要になる。
この問題は、専門家の能力の問題だけではない。専門家が優秀であっても、知識選択の経路が見えなければ、社会はその判断を検証しにくい。どの論文が読まれ、どの論文が除外され、どの知識体系が中心に置かれ、どの異論がどのように扱われたのかが分からなければ、政策文書の科学的根拠は、外から見ると一つの完成物としてしか見えない。完成物だけを見ても、その背後にある知識の選択過程は分からない。
| 問い | 単純な見方 | 本稿で必要な見方 |
|---|---|---|
| 専門家は必要か | 専門家に任せるか、専門家を疑うかという二択で考える。 | 専門家は必要だが、その専門家がどの知識を政策文書へ接続しているのかを確認する。 |
| 集中は問題か | 少数者に集中しているなら閉鎖的だと見る。 | 集中には効率化の機能があるが、同時に固定化や偏りを検証する必要がある。 |
| 引用は何を示すか | 引用された論文が政策を動かしたと見る。 | 引用は政策文書に明示された知識選択の痕跡として読む。 |
| 信頼は何で支えるか | 権威ある専門家や国際機関を信じることで支える。 | 知識が選ばれた経路を検証できる状態にすることで支える。 |
ここで必要になるのは、透明性を一つのものとして扱わないことである。国際機関が専門家を選ぶとき、専門家の選定基準や利益相反を示すことは重要である。しかし、それだけでは足りない。専門家がどのように文献を評価し、どの段階で異論を扱い、どの論文が最終的に文書に入ったのかも見えなければならない。さらに、最終的な政策文書の中で、誰の知識がどれだけ繰り返し採用されたのかを確認する必要がある。
| 透明性の種類 | 何を見せるか | なぜ重要か |
|---|---|---|
| 入力の透明性 | 専門家の選定基準、利益相反、参加者の所属、扱う知識体系を示す。 | 知識選択に関わる人や制度の入口が公正であるかを確認できる。 |
| 過程の透明性 | どのように文献を評価し、どの段階で意見を集め、どのように異論や不確実性を扱ったかを示す。 | 評価報告や政策文書が恣意的に作られていないかを確認できる。 |
| 結果の透明性 | 最終的に誰の論文が、どの程度、どの政策文書に入り、どの研究者ネットワークが繰り返し参照されたのかを示す。 | 専門家ネットワークの固定化、地域的偏り、方法論的偏りを検証できる。 |
入力の透明性は、誰が参加したのかを明らかにする。過程の透明性は、どのように評価されたのかを明らかにする。結果の透明性は、最終的に誰の知識が採用されたのかを明らかにする。この三つは互いに代替できない。専門家選定の手続きが整っていても、結果として一部の研究者ネットワークに引用が集中している可能性はある。反対に、引用集中が見つかったとしても、それだけで手続きが不正だったとは言えない。だからこそ、入力、過程、結果を分けて見る必要がある。
この区別によって、議論の焦点ははっきりする。必要なのは、専門家を排除することではない。専門家を不可視の権威として扱わないことである。専門家がどの研究を重視し、どの研究を補助的に扱い、どの研究を採用しなかったのか。その判断がどの制度、どの共著ネットワーク、どの国際機関文書と接続しているのか。これらを見えるようにすることで、専門家への依存は盲目的な服従ではなく、検証可能な信頼に近づく。
| 状態 | リスク | 必要な対応 |
|---|---|---|
| 専門家が不可視のまま影響する | 政策文書に入る科学が、どのネットワークを経由したのか分かりにくくなる。 | 専門家選定、文献評価、引用結果を分けて公開し、後から検証できるようにする。 |
| 引用集中だけが見える | 集中の理由が、専門性なのか制度的アクセスなのか判断できない。 | 引用数だけでなく、共著関係、所属、評価報告への参加、引用文脈を合わせて見る。 |
| 手続きだけが見える | 制度上は公正に見えても、最終的な知識採用の偏りが残る可能性がある。 | 最終文書における引用分布や研究者ネットワークの集中を結果として確認する。 |
科学を信頼するとは、専門家を無条件に信じることではない。専門家がどのような経路で選ばれ、どの知識がどのように政策文書へ入り、その結果としてどの研究者ネットワークが中心化したのかを検証できる状態にすることである。信頼は、見えない権威への服従ではなく、見える経路への確認によって支えられる。
したがって、この論文から引き出すべき主張は、専門家不要論ではない。専門家は必要である。しかし、専門家を必要とする社会ほど、専門家を通じた知識選択を見えるようにしなければならない。政策に使われる科学は、科学全体の自動的な反映ではない。専門家、論文、共著関係、国際機関、引用経路を通じて選ばれた科学である。この構造を見えるようにすることが、科学に基づく政策を信頼するための条件になる。
10. AI ガバナンスでは、知識の固定化が先に起こりうる
この問題は、AI ガバナンスでさらに鋭くなる。気候科学では、長い研究蓄積、モデル比較、シナリオ、評価報告があり、その上に IPCC 型の知識統合がある。もちろん、そこにも地域差、著者ネットワークの偏り、モデル中心性、国際機関への接続経路の偏りはある。しかし、気候科学では、長期間にわたって観測、モデル、評価制度、専門家共同体が発展し、その蓄積の上に国際的な評価報告が作られてきた。つまり、科学的知識の成熟と制度化が、ある程度は並行して進んできた。
AI は事情が違う。AI では、安全性、公平性、透明性、説明責任、監視、雇用、著作権、教育、軍事利用、バイオセキュリティなど、問題が広く、しかも価値判断が一致していない。ある人にとって AI の中心問題は技術的安全性であり、別の人にとっては労働、監視、差別、教育、情報環境、民主主義、創作活動の問題である。さらに、技術の進展が速いため、評価対象そのものが短期間で変わる。何を危険と呼ぶのか、何を公平と呼ぶのか、何を透明性と呼ぶのかについても、国、制度、文化、産業構造によって重点が異なる。
この違いは、国際的な専門家制度を考えるうえで重要である。気候科学では、少なくとも気候変動という問題領域、観測データ、モデル比較、排出シナリオ、影響評価の枠組みが長い時間をかけて整ってきた。その後に、IPCC のような評価制度が強い権威を持つようになった。AI では、問題領域の境界も、評価軸も、専門家共同体の構成も、社会的価値判断もまだ流動的である。その段階で国際的な専門家パネルが制度化されると、科学的・倫理的合意が十分に成熟する前に、どの専門家ネットワークが「AI についての世界標準の知識」を作るのかが決まり始める可能性がある。
国連の AI ガバナンス報告は、AI のリスクと利益を国際的に扱うための包括的な制度構想を提示している[30]。さらに国連は、Independent International Scientific Panel on AI を設け、AI に関する世界的な科学的評価を制度化しようとしている[31]。International AI Safety Report も、多数の専門家による科学的証拠の統合を通じて、汎用 AI の能力とリスクについて共通理解を作ろうとしている[32]。これらの試みは、AI の社会的影響が大きいことを考えれば必要である。各国がばらばらに AI を理解し、ばらばらに規制し、ばらばらにリスクを評価すれば、技術の国際的な影響に制度が追いつかないからである。
しかし、必要であることと、問題がないことは同じではない。AI のような新興領域では、専門家制度が作られること自体が、知識の中心を早く固定する可能性を持つ。どの専門分野を入れるのか。機械学習、安全性評価、法学、倫理学、社会学、労働研究、教育学、情報政策、セキュリティ、国際関係、公共政策をどう配分するのか。企業研究者、大学研究者、市民社会、政府系研究機関、国際機関、グローバルサウスの研究者をどう含めるのか。これらの設計は、単なる委員選びではない。AI について何を知識として扱うのかを決める作業である。
| 比較 | 気候科学 | AI ガバナンス |
|---|---|---|
| 知識の成熟度 | 長い研究蓄積、共通モデル、共通シナリオ、評価報告の蓄積がある。 | 技術、リスク、倫理、社会影響の評価軸がまだ流動的である。 |
| 制度化の意味 | 既存の科学的合意を統合し、政策向けに整理する機能が強い。 | 合意形成前に専門家ネットワークを権威化する可能性がある。 |
| 正統性の焦点 | 地域差、著者ネットワーク、モデル中心性、評価制度への参加経路が問題になる。 | 専門分野、企業影響、価値観、地域代表性、リスク定義、社会的影響の扱いが問題になる。 |
| 知識集中のリスク | 成熟した標準枠組みが、政策文書への入口を固定化する。 | 標準枠組みが固まる前に、特定の専門家群が標準を作る側に回る可能性がある。 |
気候科学と AI ガバナンスの違いは、専門家が必要かどうかの違いではない。どちらにも専門家は必要である。違うのは、専門家制度が何を統合するのかである。気候科学では、長く蓄積された観測、モデル、シナリオ、評価手順を統合する性格が強い。AI ガバナンスでは、まだ争点が流動的な段階で、リスクの定義、評価軸、社会的影響の範囲、望ましい規制の方向を整理しようとしている。そのため、AI の専門家制度は、既存の合意をまとめるだけでなく、合意がどの方向に形成されるかにも影響しうる。
ここで問題になるのは、AI をどの種類の問題として見るかである。AI を主に技術的安全性の問題として見るなら、中心になるのはモデル能力、アライメント、評価ベンチマーク、サイバーリスク、バイオリスクなどである。AI を社会制度の問題として見るなら、中心になるのは労働、教育、監視、差別、情報環境、民主主義、公共サービス、地域格差である。AI を産業政策の問題として見るなら、計算資源、半導体、データ、企業競争、国家戦略が中心になる。どの見方を中心に置くかによって、政策文書に入る科学も、選ばれる専門家も変わる。
| AI の見方 | 中心になる知識 | 政策文書で起きること |
|---|---|---|
| 技術的安全性の問題 | モデル能力、アライメント、評価ベンチマーク、セキュリティ、重大リスクの分析が中心になる。 | 計算機科学、機械学習、安全性評価の専門家が政策文書で見えやすくなる。 |
| 社会制度の問題 | 労働、教育、監視、差別、情報環境、民主主義、公共サービスへの影響が中心になる。 | 社会科学、法学、倫理学、教育研究、公共政策の知識をどの程度入れるかが問題になる。 |
| 産業政策の問題 | 計算資源、半導体、データ、企業競争、国家戦略、国際競争が中心になる。 | 企業、政府、研究機関、国際機関の利害関係が知識選択に影響しやすくなる。 |
| 人権と統治の問題 | プライバシー、監視、説明責任、救済、差別防止、権利保護が中心になる。 | 技術的性能だけでなく、制度的 safeguards と社会的正統性が評価対象になる。 |
このように、AI ガバナンスでは、何を専門知とみなすか自体が争点になる。気候モデルであれば、少なくともモデル比較や排出シナリオのような共通基盤がある。AI では、技術的リスク、社会的リスク、倫理的リスク、経済的リスク、安全保障上のリスクが重なっており、どのリスクを中心に置くかで専門家ネットワークが変わる。したがって、AI の国際評価制度では、専門家パネルの設置だけでなく、そのパネルがどの問題設定を採用するのかを見なければならない。
この点で、Asatani らの研究が示した構造は、AI ガバナンスを読むための警告になる。同研究では、データサイエンス・AI 分野は気候モデルよりも引用が分散しているとされる[6]。これは、現時点では AI 関連知識がまだ一部の専門家ネットワークに強く固定されていないことを示す。しかし、国際的な科学パネルや評価報告が整えば、今後は AI でも HIC-Sci に相当する専門家群が形成される可能性がある。問題は、その形成が知識の成熟に沿って起きるのか、それとも制度化によって先に固定されるのかである。
| 段階 | AI ガバナンスで起きうること | 確認すべき点 |
|---|---|---|
| 分散段階 | 技術的安全性、社会影響、法制度、倫理、産業政策など、多様な知識が並立する。 | どの分野の知識が政策文書で見えやすく、どの知識が見えにくいかを確認する。 |
| 制度化段階 | 国際機関が専門家パネル、評価報告、共通リスク分類、標準語彙を作り始める。 | 誰が専門家として選ばれ、どの評価軸が標準化されるのかを確認する。 |
| 集中段階 | 特定の専門家ネットワーク、評価手法、リスク語彙が繰り返し政策文書に登場する。 | 結果として誰の論文や知識が中心化し、どの地域や方法論が周辺化されたのかを確認する。 |
AI ガバナンスで重要なのは、専門家パネルを作るかどうかだけではない。どの専門性を入れるのか、どの地域を含めるのか、企業研究と公共研究をどう扱うのか、技術的安全性だけでなく社会的影響をどう扱うのか、そして最終的に誰の知識が評価報告に入ったのかをどう見えるようにするのかである。新興技術では、専門家の選定だけでなく、専門家ネットワークがどの段階で制度化されるのかが重要になる。
AI の場合、特に注意すべきなのは、企業研究の位置である。最先端のモデル、評価データ、計算資源、運用上の知見は、大学や公的研究機関だけでなく、民間企業にも集中している。そのため、企業研究者を排除すれば重要な技術的知識を失う可能性がある。一方で、企業研究者に強く依存すれば、商業的利害、公開できない情報、評価手法の不透明性、政策上の利益相反が問題になる。ここでも、必要なのは単純な排除ではなく、どの知識がどの利害関係のもとで評価報告に入ったのかを見えるようにすることである。
気候科学では、成熟した科学の上に専門家集中が生じた。AI では、科学的・倫理的合意が流動的な段階で、どの専門家ネットワークが世界標準の知識を作るかが決まり始める可能性がある。この違いを踏まえるなら、AI ガバナンスにおける正統性は、専門家の能力だけでは支えられない。専門分野の配分、地域代表性、企業影響、リスク定義、引用結果、評価報告に入った知識の分布を、継続的に確認できる仕組みによって支えられる。
したがって、この章で固定すべきことは、AI ガバナンスでは、知識の成熟より先に制度が知識を固定化する可能性があるという点である。これは専門家制度を否定する理由ではない。むしろ、専門家制度が必要だからこそ、その制度がどの知識を中心化し、どの知識を周辺化するのかを見えるようにしなければならない。新興技術では、政策に使われる科学を作る過程そのものが、将来の政策空間を形作る。
11. 科学を信頼するには、知識の流れを見えるようにする必要がある
ここまでの議論をまとめると、科学に基づく政策という言葉は、少なくとも二つの段階に分けて考える必要がある。第一の段階は、政策が科学的根拠を参照しているかどうかである。これは重要である。科学的根拠をまったく参照しない政策よりも、科学的根拠を示す政策のほうが、判断の理由を検証しやすい。しかし、それだけでは十分ではない。第二の段階として、その科学的根拠がどのように選ばれたのかを見なければならない。本稿で問題にしてきたのは、この第二の段階である。
科学に基づく政策は、科学全体がそのまま政策へ移されることではない。実際には、膨大な科学論文の中から一部の論文が選ばれ、その論文が専門家ネットワークの中で評価され、国際機関の文書に引用され、政策担当者が参照できる知識として整理される。この過程には、選択、評価、翻訳、統合が含まれる。したがって、政策文書に科学論文が引用されているという事実だけでは、どの科学が、どのような経路で政策文書に入ったのかまでは分からない。
Asatani らの研究が示したのは、この経路がかなり狭く、しかも構造化されているということである。IGO 文書に直接引用される論文は、科学全体の中では少数である。その少数の論文は、さらに少数の研究者に集中している。その集中は、過去の IGO 引用実績、共著ネットワーク、専門家委員会との重なり、政策文書に使いやすい語彙、複数 IGO による同期的引用によって支えられる。つまり、政策文書に入る科学は、ばらばらの論文の偶然の集まりではなく、特定の知識流通経路を通って形成される。
| 段階 | 本稿で確認したこと | そこから分かること |
|---|---|---|
| 科学全体 | 科学論文は膨大に存在し、その大部分は IGO 文書に直接は引用されない。 | 政策文書に現れる科学は、科学全体の縮図ではなく、選ばれた科学である。 |
| 論文の選択 | IGO 文書に直接引用される論文は、全体から見ると狭い入口を通っている。 | 政策に使われる科学を理解するには、どの論文が入口を通るのかを見る必要がある。 |
| 研究者の集中 | IGO 引用論文は、各分野で少数の HIC-Sci に集中している。 | 政策文書に届く科学は、著者単位でも偏りを持つ。 |
| ネットワーク | HIC-Sci は共著関係、国際評価制度、政策語彙、複数 IGO の引用経路と結びつく。 | 知識は論文単体ではなく、専門家ネットワークを通って政策文書へ届く。 |
| 政策文書 | 引用は政策決定そのものではなく、政策文書に明示された知識選択の痕跡である。 | 引用データは、政策の全因果過程ではなく、公開された知識の入口を分析するために使える。 |
この構造を単純に悪いとは言えない。複雑な問題を政策へつなぐには、専門家ネットワークが必要である。少数のハブがなければ、膨大な研究を整理し、比較し、報告書へ統合することは難しい。気候変動、感染症、環境保全、AI のような問題では、専門家が論文を読み、評価し、相互の関係を整理し、政策文書で使える形へ翻訳する必要がある。専門家ネットワークへの集中は、政策助言を成立させる条件でもある。
しかし、専門家ネットワークが必要であることと、そのネットワークが見えなくてよいことは別である。むしろ、必要だからこそ見えるようにしなければならない。少数の専門家が政策文書への入口を担うなら、その専門家がどのように選ばれたのか、どの論文を重視したのか、どの研究者ネットワークが繰り返し参照されたのか、どの地域や方法論が入りにくかったのかを確認できる必要がある。
ここで重要なのは、信頼を権威への服従として考えないことである。科学を信頼するとは、権威ある専門家や国際機関が言っているから無条件に受け入れることではない。どの根拠が使われたのか、その根拠がどのように選ばれたのか、その選択にどのような偏りがありうるのかを確認できる状態にすることである。信頼は、見えない権威ではなく、見える経路によって支えられる。
| 信頼の型 | 特徴 | 問題点 |
|---|---|---|
| 権威への信頼 | 有名な専門家、権威ある国際機関、著名な報告書に依存する。 | なぜその専門家や文書が中心になったのかを検証しにくい。 |
| 手続きへの信頼 | 専門家選定、利益相反管理、レビュー、承認過程が整っていることに依存する。 | 手続きが整っていても、最終的な引用結果の集中が残る可能性がある。 |
| 経路への信頼 | どの知識が、誰の手を通り、どの文書に入り、どのように再利用されたのかを確認できることに依存する。 | 引用文脈、共著関係、制度的接続を合わせて見る必要があり、単純なランキングでは済まない。 |
この意味で、必要なのは専門家を減らすことではない。必要なのは、専門家を通じた知識選択を見えるようにすることである。どの論文が参照されたのか。どの研究者の知識が繰り返し採用されたのか。どの機関が先に引用し、どの機関が後から追随したのか。どの地域、どの方法論、どの語彙が中心になったのか。これらを見えるようにして初めて、科学に基づく政策は、単なる権威への依存ではなく、検証可能な知識選択になる。
この点は、成熟した分野と新興分野の両方で重要である。成熟した分野では、標準化されたモデル、共通語彙、評価制度、専門家ネットワークが整っているため、政策文書に届く知識が固定化しやすい。これは政策助言を効率化するが、同時に、周辺の知識や異なる方法論を見えにくくする。新興分野では、知識体系が固まりきる前に専門家制度が作られるため、どの専門家ネットワークが標準を作る側に回るのかが問題になる。AI ガバナンスでは、この危険が特に大きい。
| 分野の状態 | 知識選択の利点 | 確認すべきリスク |
|---|---|---|
| 成熟分野 | 共通モデルや評価制度によって、科学を政策文書へ統合しやすい。 | 既存の専門家ネットワークや標準語彙が、政策文書への入口を固定化していないか確認する必要がある。 |
| 新興分野 | 多様な知識がまだ分散しており、新しい問題設定を取り込みやすい。 | 知識が成熟する前に、特定の専門家制度や評価軸が先に権威化されないか確認する必要がある。 |
| 急拡大分野 | 社会的要請に応じて、短期間に多分野の知識を政策へ接続できる。 | 緊急性を理由に、後から検証しにくい形で知識選択が固定されないか確認する必要がある。 |
科学に基づく政策を考えるとき、よく問われるのは、政策が科学を無視していないかである。もちろん、それは重要である。しかし、本稿で見てきたように、それだけでは足りない。科学が使われているとしても、どの科学が使われているのか、誰の知識が政策文書に入りやすいのか、どの知識が周辺に置かれているのかを見なければならない。科学の有無だけではなく、科学の流れ方を問う必要がある。
ここで結論は明確である。政策を動かす科学は、論文そのものではなく、専門家ネットワークを通って選ばれる。これは、専門家が悪いという意味ではない。専門家ネットワークなしに、複雑な科学を政策文書へ接続することはできない。しかし、そのネットワークを通ることで、科学は選ばれ、翻訳され、統合され、時には中心化される。したがって、科学に基づく政策を考えるとき、本当に問うべきなのは、科学が使われているかどうかだけではない。どの科学が、誰の手を通り、どの国際機関によって、政策に使える知識として選ばれたのかである。
科学を信頼するためには、科学的根拠の中身だけでなく、その根拠が政策へ入る経路を見えるようにする必要がある。結論だけを見て信じるのではなく、結論に至る知識の流れを確認できるようにする。これが、複雑な科学と政策を結びつける社会で、専門知を使いながらも専門知を閉じた権威にしないための条件である。
参考文献
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- id774, 医療 AI と人間の判断(2026-05-28). https://blog.id774.net/entry/2026/05/28/4814/
- id774, ゲノム編集はどこまで許されるのか(2026-05-26). https://blog.id774.net/entry/2026/05/26/4810/
- id774, 治療と強化の境界はどこにあるのか(2026-06-09). https://blog.id774.net/entry/2026/06/09/4871/
- id774, 老化は治療すべき病なのか(2026-06-10). https://blog.id774.net/entry/2026/06/10/4877/
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