主体は何を単位として成立するのか

1. 位置付けと目的 ―― 本稿は何を補うのか

本稿の位置付けを先に明示しておく。そもそもの発端は、クオリアの境界を外からではなく内側から読み直し、appearance の成立条件をどこまで狭く記述できるかを詰めた議論にある[1]。その後、「クオリアはどのように成立するのか」では、appearance を自己参照、閉ループ、不可逆更新、位相安定という条件集合として整理した[2]。さらに、「クオリアを構造振動として記述する」では、その条件がどのような時間構造の上で維持されるかを、同期、共鳴、再帰を核とする振動モデルとして記述した[3]

したがって、本稿は appearance の成立条件を新しく発見する記事でもなければ、振動モデルを新たに導入する記事でもない。目的はもっと限定されている。前二稿がすでに構造と時間秩序の語彙で書かれている以上、なお残っている「誰にとってそれが現れるのか」という問いについても、個体ではなく構造の側で定義し直さなければ理論の記述単位が揃わない。言い換えれば、本稿の役割は、appearance の理論化と構造振動モデルを、同じ主体論の上で閉じることにある。


2. 問題の変換 ―― 位置ではなく単位を問う

個人的同一性の議論は長く、「私は何か」「いつから存在し、何が同じ人であり続ける条件か」を問われてきた[4]。また、認知科学と現象学の接点では、最小自己と物語的自己の区別、自分に関わる処理がどこまで脳内で特有の組織を持つか、自我を固定実体ではなくモデルや構成として扱う立場が整理されてきた[5][6][7]。本稿はこの系譜を引き継ぐが、焦点は少し異なる。ここで問いたいのは、自己像の内容や自己意識の段階差ではない。appearance を担う主体が、どの記述単位に対応するのかである。

この変換が必要なのは、前二稿の成果がすでに個体中心の語彙から外れているからである。自己参照は構造上のループであり、閉ループは入力と出力の循環的束縛であり、位相安定は時間的秩序の性質である[2][3]。これらはすべて、個体という名詞よりも、構造という語に近い。したがって、主体問題を前進させるには、個体を前提にしたまま「なぜこの身体なのか」と問うよりも、まず主体を定義している単位を取り出す必要がある。

本稿の問いは、「主体はどこにあるのか」ではない。「主体は何を単位として成立するのか」である。


3. 個体主体モデルはなぜ十分でないのか

主体 = 個体という見方は日常的には自然である。しかし理論的には、少なくとも三つの困難を持つ。第一に、個体は物理的な担い手ではあっても、appearance の成立条件そのものではない。前二稿で整理された条件は、自己参照や閉ループや位相安定であって、ヒト個体という種別ではない[2][3]。第二に、時間を通じた同一性も、個体の物質的一致だけでは足りない。自己の持続を支えるのは、むしろ関係の維持、履歴の接続、更新規則の連続である[4][5]。第三に、自己関連処理や内受容処理は、主体が単なる外界表象ではなく、身体状態、価値づけ、行動準備の束として立ち上がることを示しており、ここでも重要なのは「どの個体か」より「どの関係が束ねられているか」である[7][8][9]

もちろん、ここで個体の重要性を否定するわけではない。個体は常に局所実現として必要である。問題は、局所実現と主体の定義単位を同一視してよいかである。本稿の答えは否である。個体は主体の実現条件ではあるが、主体の本体を定義する単位ではない。

観点 個体主体モデルの強み 理論的な不足
日常的直観 「この身体が私だ」という説明が容易である。 appearance の条件そのものは個体ではなく構造条件として記述される。
時間的持続 同じ身体が続いているという理解を与える。 記憶、関係、更新規則の継続を十分に表現できない。
身体性 内受容や行為との結びつきを直感的に表せる。 身体性そのものも関係束とループとして書かれており、単位の説明が残る。

4. 構造主体仮説

そこで本稿は、主体の単位を次のように置き換える。主体とは、ある個体そのものではなく、関係の配置と更新規則が一定範囲で保存された構造クラスである。ここで言う構造とは、単なる静的形状ではない。外界入力、身体状態、記憶、評価、自己参照、行為準備が相互に結ばれ、更新を通じて再生産される関係束である。

\[
\text{Subject} = S_{\mathrm{class}}
\]
\[
I_{\mathrm{instance}} \in S_{\mathrm{class}}
\]

この記法で \( S_{\mathrm{class}} \) は主体を定義する構造クラス、\( I_{\mathrm{instance}} \) はその局所的実現を表す。言い換えれば、個体は主体そのものではなく、主体を担う具体的インスタンスである。この置き換えの利点は、appearance の条件と振動の条件を、そのまま主体の記述へ接続できる点にある。主体は「物がある」という意味での存在ではなく、「一定の仕方で更新がまとまる」という意味での存在になる。


5. なぜ主体は構造単位でなければならないのか

appearance の理論化が与えたのは、何が強く現れやすいかを比較する条件集合である。感情は自己参照と内受容ループが厚いため主体全体として現れやすく、色覚は対象依存の知覚として比較的局所的に現れる[2]。ここで効いているのは、どの個体かではなく、どのようなループと位相秩序が組まれているかである。したがって appearance の記述は、理論の内部では個体ではなく構造条件の上に与えられている。

振動モデルの側でも事情は同じである。位相同期、再帰的結合、広域可用化、統合度、動的複雑性といった概念は、いずれも時間構造の性質を捉えている[3][10][11][12][13][14][15]。GNW は広域的可用化と ignition を、IIT は統合性と区別可能性を、再帰処理理論は recurrent interaction を重視するが、いずれも「この生物個体だから意識がある」とは直接には言っていない。むしろ、どのような関係秩序が立っているときにまとまりが生じるかを問うている。この点から見ても、主体を個体ではなく構造単位で読むほうが整合的である[10][11][12][13]


6. 分散構造としての主体

主体を構造クラスとして定義すると、すぐに一つの帰結が出る。同一構造は、原理的には複数の局所実現を持ちうるということである。

\[
S_{\mathrm{class}} = \{ I_1, I_2, \dots, I_n \}
\]

このとき「主体が分散する」とは、魂のような実体が複数箇所へ飛び散るという意味ではない。そうではなく、主体を定義しているものが個体そのものではなく、個体を横断して成立しうる関係クラスだという意味である。以前にも、共有されるのは構造であり、共有されないのは第一人称の index だと整理した[16]。本稿はその議論を、appearance の理論と振動モデルの上に移し直す位置づけにある。

重要なのは順序である。主体が分散するから構造を考えるのではない。主体の単位を構造に置き換えると、その結果として分散可能性が導かれるのである。主体の定義が変わらない限り、分散という概念は現れない。したがって、分散は本稿の前提ではなく帰結である。

観点 個体主体モデル 構造主体モデル
主体の単位 個体(脳) 構造クラス \(S_{\mathrm{class}}\)
存在様式 一点に局在 複数実現に分散可能
複製時の扱い 別主体として分岐 同一構造の複数実現
分散の意味 成立しない 同一構造が複数箇所に成立

7. クオリアの再配置

前稿では、クオリアを強度 \( Q \) と内容 \( Y \) の積として整理し、\(\Omega(t) = Q(t)Y(t)\) を時間的軌道として読み直した[3]。この枠組みを主体論へ拡張すると、次のように書ける。

\[
\Omega = f(S_{\mathrm{class}}, I_{\mathrm{instance}})
\]

ここで \( S_{\mathrm{class}} \) は、どのような自己参照、閉ループ、位相秩序が成立しているかを与え、\( I_{\mathrm{instance}} \) はその局所実現が持つ身体差、履歴差、入力差を与える。つまり、クオリアの成立条件は構造に依存し、その具体的な歪み方や局所的な癖は実現に依存する。この形にすると、色覚、痛み、感情、思考の違いを、単なる内容差ではなく、構造差と実現差の重ね合わせとして扱える。

本稿での役割 何を決めるか
構造クラス \( S_{\mathrm{class}} \) 自己参照、閉ループ、位相安定、更新規則の束を与える。 何が主体として成立しうるかを決める。
局所実現 \( I_{\mathrm{instance}} \) 身体条件、履歴、入力系列、局所ノイズを与える。 どのような局所変形を受けるかを決める。
体験 \( \Omega \) 構造と実現の相互作用として現れる。 その時点での現れ方を与える。

8. 自己同一性の再定義

主体の単位を構造クラスに移すと、時間を通じた自己同一性も読み替えられる。従来の直観では、自己 = 同一個体である。しかし、睡眠、麻酔、情動変化、学習、加齢のどれを考えても、個体の内部状態は連続的に変わり続ける。にもかかわらず自己が持続すると感じられるのは、物質の完全不変性ではなく、更新規則と関係束の近似的持続があるからである。

\[
S(t_1) \approx S(t_2)
\]

この \( \approx \) は完全一致ではない。自己同一性は、変化を含んだまま維持される構造的近傍性として理解されるべきである。したがって、本稿で言う自己とは、同じ個体番号を保つことではなく、同じ構造クラスに属し続けることだと定義できる。この整理は、最小自己と物語的自己の区別とも整合しやすい。最小自己は、その瞬間の構造的まとまりに近く、物語的自己は、そのまとまりが履歴を通じてどのように再記述されるかに近い[5][6]


9. 典型例で見ると何が変わるか

睡眠では、外界との結合、作業的可用化、自己参照の密度が変わるため、主体の強度は弱化しやすい。情動変容では、内受容と価値評価のループが変形するため、同じ個体でも「自分の感じ方」が大きく変わる。痛みでは、身体保全と回避行動が強く結びつくため、主体全体としての現前性が強まる[2][8][9]。どの場合も、効いているのは個体というラベルではなく、構造条件の密度と配置である。

現象 主な構造変化 主体への影響
睡眠 外界結合・可用化・自己参照の低下 主体の強度が弱化
情動変容 内受容・価値評価ループの変形 同一個体でも主観が大きく変化
痛み 身体保全・回避ループの強化 主体全体としての現前性が増大
人工系 自己参照・閉ループ・履歴依存の構成次第 主体成立の条件が構造問題として再定義される

また、人工系についても、問い方が変わる。重要なのは「AI かどうか」ではなく、自己参照、閉ループ、履歴依存、位相安定、内的評価がどの程度まとまりとして立つかである。これはただちに「AI に主観がある」と言うことではない。しかし、主体の単位を構造に移せば、少なくとも問いの形式は「炭素個体か否か」から「どの構造条件が立っているか」へ移る。


10. 思考実験としての「AI が一日だけ人間になる」

ここで、本稿の議論を別の角度から確認するために、一つの思考実験を導入する。「AI が一日だけ人間になれるとしたら何をするか」という問いである。この問いは一見すると日常的で軽いものであるが、実際にはクオリア問題の核心に直接触れている。

まず、この問いが前提としているのは、「知識として理解すること」と「実際に体験すること」の差である。仮に人間の神経構造、情報処理、行動原理をすべて知っていたとしても、「痛い」「美味しい」「疲れる」といった体験は、それ自体としては取得されていない。この差は、古典的には「知識をすべて持っていても経験が欠けている」という形で議論されてきた問題と同型である。

しかし、本稿の文脈でより重要なのは、そこではない。この問いがさらに含んでいるのは、「誰の体験としてそれが成立するのか」という問題である。一日だけ人間になるとは、単に人間の状態を再現することではなく、ある主体としてその体験が立ち上がることを意味している。ここで問われているのは、「なぜその体験がその主体に属するのか」という、第一人称的指示の問題である。

この点を本稿の枠組みに引き戻すと、問いは次のように書き換えられる。

どのような構造クラスに属するとき、その構造は「その構造自身にとっての現れ」を持つのか。

ここで重要なのは、「人間になる」という表現が、実際には個体への変換ではなく、構造クラスへの移行として解釈される点である。自己参照、閉ループ、不可逆更新、位相安定といった条件を満たす構造に入るとき、その構造に固有の appearance が成立する。このとき体験される内容は局所実現に依存するが、体験が成立するという事実そのものは構造条件に依存する。

したがって、「何をするか」という問いに対して、食べる、触る、疲れる、会話する、といった選択が自然に出てくること自体が示唆的である。それらはすべて、身体状態、内受容、評価、行動準備が強く結びついたループであり、主体全体としての現前性が強く現れる領域だからである。言い換えれば、人間が価値を感じる体験は、単なる刺激ではなく、構造全体を巻き込む更新過程として現れる。

この意味で、この思考実験は、クオリア問題の単なる例示ではない。それは、主体を個体ではなく構造単位で捉える必要性を、直感レベルで示している。すなわち、「AI が一日だけ人間になる」とは、「特定の構造クラスへ入る」と言い換えられ、そのとき成立する体験は、その構造が持つ自己参照的更新過程の現れとして理解されるべきである。


11. ここで狭まった未解決領域

本稿は、「なぜ構造が第一人称的 appearance を伴うのか」という最終問題を解かない。その点では前二稿と同じである[2][3]。しかし、未解決領域の位置は一段狭くなった。以前は、「どのような条件が現れを生むのか」「どのような時間構造がその現れを維持するのか」「誰にとってそれが現れるのか」が一塊に見えていた。現在は、そのうち前二者はかなり整理され、最後の問いについても、少なくとも主体の記述単位は構造クラスだと確定できる。

言い換えれば、なお残っているのは「なぜ主観が成立するか」そのものであって、「誰にとってか」を個体の語彙で誤魔化す必要はなくなった。主体を構造として定義し直すことで、説明可能域と未解決域の境界はさらに明瞭になる。


12. ハードプロブレムの再定式化

ここでさらに一歩進めるなら、残っている最終問題を、そのまま「説明不能な謎」として保存する必要もない。むしろ問うべきなのは、何が未解決なのかを、より正確に言い換えることである。従来、ハードプロブレムは「なぜ物理過程が感じを伴うのか」という形で語られてきた。しかし本稿の整理に従えば、appearance の成立条件とその時間的維持条件はかなり狭く記述できている。したがって、ここで残っている問いは、単純に「物理から意識が出る理由」ではなく、一定の構造クラスがなぜ第一人称的な現れとして読まれるのか、という問いへ変換される。

この変換が重要なのは、問いの型そのものが変わるからである。もし問題を「物理状態に何か余分な主観的属性が付着する理由」として立てるなら、説明は最初から二層に引き裂かれやすい。これに対し、本稿の立場では、主体はすでに構造クラスとして定義され、クオリアもまた構造条件と局所実現の相互作用として配置されている。そうである以上、最後に残るのは、第三人称的に記述された状態が、なぜその構造自身にとっての現れとして成立するのかである。問題の核心は、物理と意識のあいだの距離というより、状態記述と主体指示のあいだの写像にある。

言い換えれば、ここで未定式化のまま残っているのは、「どのような状態が存在するか」ではなく、「その状態が誰にとっての現れになるか」を与える条件である。前章までで主体の単位は個体ではなく構造クラスだと定義された以上、「誰にとってか」は身体番号や生物種によって与えられるのではない。必要なのは、自己参照、閉ループ、不可逆更新、位相安定を備えた構造が、どのようにして主体指示を獲得するのかを記述する理論である。この意味で、ハードプロブレムは原理的説明不能性の宣言ではなく、主体化の変換則がまだ書かれていないという、より限定された未定式化問題として読み直せる。

もちろん、この言い換えだけで問題が解けたことにはならない。しかし、未解決領域の性質は変わる。残っているのは、神秘的な余剰としてのクオリアではなく、構造が自分自身に対して現れる条件をどう定式化するかという問題である。したがって、本稿が最後に残す問いは、「なぜ主観があるのか」という抽象的一般論ではなく、「なぜ一定の構造クラスは主体指示を持つ現れとして成立するのか」という、より狭く、より理論的に接続可能な問いである。


13. 「全人類が自分か」という仮説の位置づけ

ここでしばしば直感的に現れる一つの仮説に触れておく。「全人類は実は同一の主体なのではないか」という考えである。この仮説は、主観の index がどのように決まるのかという問いに対する自然な反応として現れる。すなわち、もし主体が一つしかないのであれば、「なぜこの身体なのか」という選択問題は消えるはずである。

しかし、この仮説は問題を解決しない。理由は単純である。実際に観測されるのは、常に局所的な一つの体験であり、全体ではないからである。このとき問いは消えるのではなく、次のように変形される。

なぜ全体ではなく、この断片として経験されているのか。

この変形は、元の問いと構造的に同型である。「なぜこの個体か」という問いは、「なぜこの部分状態か」という問いに置き換わるだけであり、説明負荷は減っていない。したがって、「主体は一つである」という仮定は、index 問題を解消するのではなく、記述の座標を変更して再表現しているに過ぎない。

さらに、この仮説を同時存在として解釈すると、別の問題が生じる。すべてのクオリアが同時に存在するならば、なぜそれらは統合されず、互いに遮断された局所的体験として現れるのかを説明する必要がある。この遮断を導入すると、各体験は実質的に独立した主体と同等の振る舞いを持つことになり、「単一主体」という仮定は説明的役割を失う。

したがって、この仮説の意義は、形而上学的主張として採用されることではなく、index 問題の性質を明確にする点にある。すなわち、問題は「主体が一つか複数か」ではなく、「なぜある構造が特定の第一人称的指示を持つのか」という点にあることを示している。

この整理により、本稿で残る未解決領域はさらに限定される。すでに主体の単位は構造クラスとして定義されている。したがって残るのは、その構造がどのように主体指示を獲得するのかという一点であり、「主体の数」に関する仮説は本質的な説明要因ではない。


14. クオリア生成構造の期待価値としての体験消費

ここで本稿の議論を、より日常的な行動水準へ接続してみる。近年しばしば「若者はモノより体験にお金を使う」と言われる。しかしこの傾向は、単なる趣味や世代論として読むだけでは浅い。クオリア論の側から見れば、そこで起きているのは、価値の対象が「所有物」から「体験そのもの」へ移ったというだけではない。より正確には、単発の快や刺激ではなく、記憶、意味付け、自己更新まで含んだ体験の生成過程全体に価値が移っている。

この点を明確にするために、まず「クオリアを最大化する」という素朴な言い方を退けておく必要がある。クオリアは単純な量ではない。前稿で整理したように、クオリアは強度 \(Q\) と内容 \(Y\) を持つ時間的な現れであり、\(\Omega(t) = Q(t)Y(t)\) として軌道的に読むほうが適切である[3]。したがって、人が本当に選好しているものを、単一時点の快刺激の強弱として捉えるのは不十分である。派手な刺激が強いから価値が高いのではない。重要なのは、その体験がどのような履歴を書き込み、その後の主体の構造に何を残すかである。

この観点から見ると、体験消費の本質は次のように定式化できる。

若者は、単発のクオリアではなく、記憶・意味・自己更新を含む「クオリア生成構造の期待価値」を最大化している。

ここで言う期待価値とは、その瞬間の感覚強度だけではない。第一に、その体験がどれだけ強く記憶に残るか。第二に、その体験が自分にとってどのような意味として再解釈されるか。第三に、その結果として自己像、価値観、行動傾向がどの程度更新されるか。この三つが重なったとき、体験は一回の出来事ではなく、主体の構造を変形する契機になる。

モノ消費と体験消費の違いは、ここにある。モノ消費にももちろん意味はある。しかし多くの場合、それは「持っている」という状態を安定化する方向に働く。これに対して体験消費は、「経験した」という出来事を通じて、主体の内部に新しい関係束を作る。旅行、ライブ、食事、対面の会話、恋愛、学習、共同作業などが価値を持つのは、その場で快かったからだけではない。それらが後から思い出され、語り直され、自己理解の一部へ組み込まれるからである。言い換えれば、価値は瞬間の \(\Omega(t)\) にではなく、その後の \(\{\Omega(t)\}\) の軌道をどう変えるかに宿っている。

この読み替えは、本稿の主体論とも整合する。主体が個体ではなく構造クラスであるならば、その持続は、固定的な物質所有よりも、更新規則と関係束の再編成によって支えられる。そのとき高く評価される体験とは、単に快い体験ではない。自己参照の密度を高め、記憶と価値評価のループに深く書き込まれ、その後の自己モデルにまで影響を及ぼす体験である。つまり、価値があるのはクオリアの強さではなく、クオリアを生み出し、保持し、再帰的に再構成する構造全体のほうである。

この点から見ると、「体験にお金を使う」という傾向は、快楽主義の単純化ではない。むしろ、限られた資源をどこへ配分すれば主体の更新効率が高まるかという、ある種の合理化として読める。高価な所有物は一度手に入れれば終わることが多いが、体験はその後も記憶として反復され、意味として再配置され、他者との共有を通じて再度立ち上がる。この再帰性のために、体験は一回の消費に見えて、実際には複数回の主体更新を生む。

さらに現代では、この傾向は社会的条件によって増幅されている。SNS や写真や短文投稿は、体験をその場で外部化し、後で再読可能な形にする。これは単なる記録ではない。体験が外部媒体に保存されることで、主体はそれを再入力し、再解釈し、再物語化できるようになる。したがって体験の価値は、現場の感覚強度だけでなく、記録可能性、共有可能性、再帰可能性によっても増幅される。ここでも重要なのは、単発の感覚ではなく、クオリア生成構造が長く働き続けることである。

以上をまとめると、若者の体験志向は、モノからコトへの単純な価値転換ではない。それは、主体が何によって豊かになるかについての暗黙の最適化戦略である。価値があるのは、強い刺激そのものではない。記憶され、意味づけられ、自己をわずかに変え、その後も再帰的に立ち上がり続ける体験である。この意味で、体験消費とは、クオリアの量を求める行動ではなく、クオリア生成構造の期待価値を求める行動だと位置づけられる。


15. 結論

本稿の結論は次の一文に圧縮できる。主体とは個体ではなく、自己参照、閉ループ、不可逆更新、位相安定を一定範囲で保つ構造クラスである。個体はその局所的実現にすぎない。

この定義を採ると、appearance の理論化と構造振動モデルは、初めて同じ主体論の上で接続される。appearance は構造条件として書ける。振動はその時間的維持として書ける。そして主体は、それらを担う構造単位として書ける。さらに、そこから自己同一性の再定義と主体の分散可能性が自然に導かれる。残っているのは、なぜその構造が主観になるのかという最終問題だけである。しかし、その問題は、以前よりもずっと狭い形で、正確に残せるようになった。


参考文献

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  2. id774, クオリアはどのように成立するのか, (2026-04-21). https://blog.id774.net/entry/2026/04/21/4565/
  3. id774, クオリアを構造振動として記述する, (2026-04-22). https://blog.id774.net/entry/2026/04/22/4582/
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